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始まりの夜③

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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「お父さまが許して下さるとしても、今回は、あの李家絡みの問題よ。お父さまに私に対しての情があるように、李スンチョンも息子を大切に思っているはず。家門ばかりか、息子の体面までこちらがあからさまに傷つけておいて、すんなりと退くことはないでしょう」「だからですよ」
 トンジュが悪戯っぽい笑みを浮かべた。〝よく考えてみて下さい〟と、彼はサヨンにほんの少しだけ顔を近づけた。
「李家の旦那(ナー)さま(リ)にとっては、家門もご子息の体面もどちらもが大切です。では、その両方を守り抜くために、李家の旦那さまが下手に騒ぎ立てることが良策だと判断されるでしょうか?」
 あ、と、サヨンが叫び声を上げる前に、大きな手のひらで口許を覆われた。
「大きな声を出さないで下さい。俺たちがここにいることを知られてしまっては、すべてが台無しになりますよ?」
 トンジュはすぐにサヨンから手を離したが、唇には男の手の温もりと感触が長く残った―。
 彼の手が触れたのはたった一瞬だけなのに、何故、触れられたときの感触がこうも生々しく膚に残っているのだろう。
 サヨンが考えに耽っている間にも、トンジュは淡々と続けた。
「可能性としては二つあります。もちろん、李家の旦那さまが烈火のごとくお怒りになり、うちの旦那さまに真っ向から報復を挑まれることもないとはいえません。ですが、俺が李スンチョンさまなら、そんな馬鹿げた子どもじみた真似はしません。たとえ面目を潰されたと腹の内は煮えくり返るように口惜しくとも、事を荒立てたりはしないでしょうね。騒げば騒ぐほど、かえって李家の家門とご子息の名に傷をつけることになる。李氏の倅は婚礼前に許婚に逃げられた甲斐性なしだと何もわざわざ悪い噂をひろめる必要はありませんから」
 最後の台詞に、サヨンは心をつかれた。
 たとえ大嫌いな触れられるのも嫌な男でも、トクパルが傷つくことを心から望んでいるわけではないのだ。
 サヨンの逡巡を見透かしたかのように、トンジュが優しく言った。
「あの男とは結婚したくないんでしょう?」
 畳みかけるように言われ、サヨンはうなだれた。
 父を取り、自らの心を殺して、李トクパルに嫁ぐか。
 それとも、今だけは、自分の心の叫びに忠実に生きるべきか。
 サヨンにとっては、まさに究極の選択であった。生まれてからというもの、父に真っ向から逆らったことなど一度もない。世間からは血も涙もないようにいわれている父であったが、サヨンには優しい父親だったのだ。
 十歳で母を失ったサヨンにひたすら愛情を注ぎ、再婚もしなかった。
 後者の生き方を選べば、今、この場でサヨンは父を裏切る―どころか棄てることになる。
「一か八か、これは賭です。成功するか失敗するかは、神のみぞ知るでしょう。ただし、俺にも一つだけ判ることがあります。今、ここから飛び出さなければ、お嬢さまは一生、鎖に繋がれたままだ。何一つ自分の意思で決められず、誰かの言うなりになって生きてゆく人生を生きるだけです」
 その時、トンジュが殆ど聞き取れないほどの声で呟いた声は、サヨンには届かなかった。
「それに何より、俺はお嬢さまが俺じゃない、他の別の男のものになるなんて、許せないんです」
 〝さあ〟と、トンジュが手を差し出した。
 大きな手のひらだった。同じ若い男でも、李トクパルのように労働を知らない、ふやけた白餅のような手ではない。
 無骨な、けれど、毎日を労働に明け暮れ、誠実に生きている男の手だ。
 この手を取ったその瞬間から、サヨンは二度と帰れない修羅の橋を渡ることになる。
 トンジュは再び故郷の地を踏むこともあるだろうとは言っているけれど、流石にその言葉を真に受けるほど愚かではない。
 一旦、漢陽を出れば、二度と戻ることはないだろう。いや、父を、すべてを棄てて出てゆく自分には帰る資格などありはしないのだ。
「本当に良いの?」
 見上げるサヨンに、トンジュは笑顔で頷いた。
 この屋敷にいれば、少なくとも、トンジュは路頭に迷うことはない。いずれ近い中(うち)には屋敷で働く若い下女と所帯を持って、敷地内の使用人用の小屋に住むか、近くに小さな家を構えることになるだろう。
 父は使用人には上下の別なく厳しかったが、その分、各々の働きぶりもよく見ていて、その労苦に報いることも忘れなかった。だから、父は世間では冷血漢で通ってはいても、屋敷内では、あまたの奉公人から慕われている。
 サヨンと逃げなければ、トンジュは一生涯、ここで平穏に生きられる。たとえ奴婢の身分から抜け出せなくても、暮らしの保証はあるのだ。
「言ったでしょう? 俺は何もお嬢さまのためだけに逃げるんじゃない。ここから出たいと思っているのは、お嬢さまだけではないんです。俺自身、もうずっと以前から自分の運命を変えてみたかった。旦那さまは確かによくして下さるけれど、この屋敷にいる限り、俺はずっと隷民のままです。けど、飛び出してしまえば、もしかしたら、今までとは違う自分に変われるかもしれない。俺にとっては、これが奴隷ではなく、良民として生まれ変わることができるかもしれない最後の機会なんですよ」
「生まれ変わる―」
 サヨンは無意識の中に、トンジュの台詞を繰り返す。
「そうです、生まれ変わるんです」
 トンジュの力強いまなざしがサヨンの心を鋭く射貫いた。
「行きましょう。この手を取ったことをお嬢さまに後悔はさせません」
 頼もしい言葉だった。
 トンジュの大きな手のひらに小さな手を重ねる。トンジュがサヨンの手をそっと握りしめてきた。
 トンジュの手は温かかった。トクパルのようにねっとりと汗ばんでもおらず清潔で、ほんのりとした温もりが心地よい。
 部屋に戻ってから当座の衣服を持ってくると言うと、トンジュは真顔で首を振った。
「このまま行った方が良い。屋敷に戻れば、それだけ誰かに見つかる可能性が大きくなります。お嬢さまにはご不満があるかもしれませんが、着替えくらいは俺が何とか古着を調達しますから」
 そのときだった。
 屋敷の方から、若い女中の呼び声が響いてきた。
「お嬢さま、サヨンさま~」
 サヨン付きの侍女ミヨンの声である。サヨンが部屋を出てから、もうかれこれ四半刻にはなる。一向に戻らないサヨンを案じて探しているに違いなかった。
 ミヨン、ああ、ミヨン。
 サヨンは自分が残してゆく人々の嘆きを改めて思った。
 ミヨンはトンジュ同様、子どもの頃にこの屋敷に買われてきた。年も近く、気も合うこともあってか、主従というよりは姉妹のようにして育ったのだ。
 珍しい菓子があれば、分け合って食べたし、まだ殆ど袖を通していない新しい衣装を惜しげもなく与えたりした。数年前にずっと側にいた乳母が暇を取って屋敷を去ってからというものは、ミヨンが母代わりでもあり、友達でもあった。
 ミヨンが与えられた待遇は、通常の侍女であれば許されない破格のものであったが、サヨンにしてみればミヨンが寄せてくれた無償の愛情や忠勤は何をもって報いても足りるとは思えなかった。
「さあ、お嬢さま」
 トンジュに強く手を引っ張られ、サヨンは歩き出した。
 樹木の生い茂る奥庭には、昼でも滅多と人が来ない。
 ふと月が流れる雲に遮られた。たちまちにして、庭は深い深い闇に沈み込む。
 満月が若い二人に味方をしたものか、やがてトンジュとサヨンの姿は四方に塗り込められた闇にすっぽりと吸い込まれるようにして見えなくなった。
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