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1-6『そして少女は絶望を見た』

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「でさー」
「えー、マジー?」
「ッベェ、マジベェわ!」
 ガヤガヤと人の行き交う音や話し声が、始業式を終えたとある高校の放課後に賑わいをもたらす。
 全校生徒の約八割が下校した今でも、廊下や中庭、体育館や各学年の教室には未だ生徒たちが何人か残っており、友人と談笑したり校内を歩いて周っていたりと思い思いの時間を過ごしていた。
 時刻は、あと数分で正午になるという頃――。
「――失礼しました。……ふぅ」
 ガラガラと戸を閉める音と共に、赤み掛かった黒髪のお下げを右肩に纏めた背の低い一人の少女が一階の職員室から退室する。
 彼女の手には、学校のハンコが押されたA4サイズの用紙が一枚。アルバイト認可証という文字が記載されたプリントが握られていた。
 張り詰めた面持ちを浮かべる少女は、戸を閉め切るなりホッとした表情で小さく息を吐く。
「おーい、夢子ー。用事済んだー?」
 そんな少女に、廊下の壁にもたれてスマホを眺めていた一人の女子生徒が声を掛けた。
 左に纏めた茶髪のサイドテールと緩まった首元の赤いリボン、そして着崩した制服が特徴的な目付きの鋭い少女だ。一見すると不良やギャルに見間違えられてもおかしくない出で立ちをしている。
 そのせいか、彼女の前を通り過ぎていく生徒たちは皆、俯き気かつ妙に早だ。
 しかし、
「あ、楓ちゃん! うん、終わったよー!」
 夢子と呼ばれた少女はその声に反応するや否や、まるで久しぶりに飼い主と再開を果たした家犬の如く、臆することなく女子生徒――楓の元へ駆け寄った。
 その顔に、満面の笑みを浮かべながら。
「こーら、廊下走っちゃだめでしょ。しかも職員室前で」
「えへへ、ごめんごめん。それより見てよ! ほら、これ!」
「オメデトー、良かったじゃん。中学の頃からずっとやりたがってたもんね、バイト」
「うん!」
 元気溌剌な少女――夢子は、誇らしげに学校のハンコが押された書類を掲げて胸を張る。
 その姿を、楓は祝い半分呆れ半分といった様子で眺めていた。
 そしてヤレヤレと首を振りながら言う。
「にしてもさ、親が出すって言ってんのに、よくバイトする気になンね。それも、『大学費用を全部負担してもらうのは気が引けるから』って動機でさ。……まぁ気持ちは理解出来ないこともないけど、高一いま考えるようなことじゃないっしょ」
「いーの! それに、働いてお金を稼ぐって経験もしたかったし」
 キラキラとした瞳で手の中の紙を掲げる夢子の姿は、容姿も相まって宛らお気に入りの玩具を自慢する子供のようだと、楓は密かに思った。
 もっともそれを口にすると夢子が不機嫌になってしまうことを彼女は知っていたので、決して声には出さないのだが。
 代わりに楓は、微笑ましいものを見るような柔らかな眼差しで、なんてことない軽口を叩くに留めた。
「あーそ。いいんじゃない、好きにすれば」
「ふっふっふ。もし楓ちゃんが食べるものに困ったら、夢子さんがいつでも奢ってあげるよ」
「ちょーし乗んな」
「あぅ」
 ムフーっと自慢げに胸を張る夢子の脳天に楓のチョップが振り下ろされる。途端、夢子の口から情けない声が漏れた。
 通りがかりの男子生徒が「ヒッ」と声を上げて駆け足気味に通り過ぎていく。
 もっとも、彼女たちにとってはこれくらい日常的なやり取りだ。
 その証拠に夢子も、次の瞬間には「やったなー」と楓にじゃれついてみせた。
「それより楓ちゃん、お昼どうする? どっか食べに行く? ファミレスとか――」
 あと数分で正午ということもあり、空腹を感じていたんだろう。昼食は何にしようかと夢子は思考を巡らせる。
 既に彼女の頭の中では、ファミリーレストランやファストフード店、もしくは学校近くのラーメン屋といった数々の飲食店の目処が立っていた。
 ジュルリと、彼女の口元で涎が光る。
「いや、アンタが職員室に向かってる間に、近くのコンビニで適当なの見繕ってきた。どうせ迷子になってムダに時間掛かってただろうし。ハイコレ」
「どうせ迷子にって、ひどいなぁ……。あ、チョココロネだ! ありが――」
「アンタは下校する前に、もっかい校内を見て周んなよ。只でさえ方向音痴なんだから、ちゃんと各教室の場所覚えとかないと。これはその為の腹ごしらえだから」
「あ、あははー……。あ、これパンのお金ね」
 チョココロネに喜んだのも束の間、グイグイと顔を近づけ圧を掛けてくる楓に、夢子は苦笑いを浮かべながらパンを受け取る。
 本当は一刻も早く楓と遊びに行きたいと思っていたのだが、楓の善意と自身の方向音痴を前にNOとは言えなかったのだ。
 また先程、職員室こ前でビクビクしながら見知らぬ先輩にすがりついたこともあり、尚のこと不服を唱えることができなかった。
 夢子は、制服のポケットからガマ口財布を取り出し自身が受け取ったパンの代金を楓に渡すと、どこかションボリとしながら包装袋の両面を引っ張った。
「ん、毎度。ってオイコラ、ここで開けんな。食べるならせめて中庭に行きな。ほら、渡り廊下通ったらすぐだから――って」
 このまま廊下でパンに齧りついてしまいそうな夢子を、楓は慌てて止める。繰り返すが、ここは職員室前だ。
 バイトの許可を貰った直後に廊下での立ち食いなど、もし見つかってしまえば教師側からの心証は大変宜しくないだろう。最悪、認可証を取り上げられるといのもありえない話ではない。
 楓は口を開いた夢子の頬をすかさず摘まむと、窓のすぐ向こうに広がる中庭を指差した。
 その時、
「なに、あれ」
 不意にそんな呟きをこぼした。

 よく晴れた昼時の中庭というのは、パンや弁当といった携帯食を食べるのに絶好のスポットだ。当然、普段は大勢の生徒で大変な賑わいをみせている。
 入学したばかりである彼女達は知らないが、購買の焼きそばパン争奪戦の次のくらいには、本来この場所は激しい場所取り合戦が繰り広げられているのだ。
 しかし今は全校生徒の約八割が下校していることもあり、今この場に屯しているのは男女合わせて十人もいない。まさに、今日限りの特別エリアというわけだ。
 校舎が周りを壁のように囲っていながら、中天の陽は構うことなく中庭に暖かな日だまりを作る。
 そして少女たちは、中庭の中央に立つ日除けに最適な背の低い広葉樹の傍で、のんびりと昼食に舌鼓を打つ。
 そんな他愛のない昼下がりを過ごす筈だった。
 ――この時までは。
「い、いひゃい……。……? どうひひゃの? かえでひゃん?」
「……ほら、あれだよ」
 不意に、夢子の頬を引っ張る楓の動きが止まる。
 続けて楓は、まるでUFOでも目撃してしまったかのような表情で、校舎三階に相当する高さに現れた"異物"を指差した。
「空に、穴?」
 夢子もそれにつられて、楓が指差す方向に目を向ける。
 そして同じように、空に浮かぶ異物を捉えた。
 夢子は、それを穴と呼んだ。

 夢子の言う通り、彼女達が見たソレは、穴という呼称がもっとも相応しいものだった。ただ、より具体的な表現をするならば"ワームホール"とでも呼ぶべきだろうか。
 ダムの排水時にできた水穴を裏返し、そのまま空中に固定したかのような光景だ。また穴の縁には、砕けた鏡を思わせるヒビ割れの跡が幾つもあった。
 中庭に居る生徒達もそれに気付いたようで、皆不思議そうな面持ちで静かにソレを見上げている。
 その時、
「ねぇ、何アレ……。なんか、動いてない?」
 中庭に居る生徒の一人が、不意にそんなことを呟いた。
 謎の緊張感で静まり返った空間には、些細な声もよく響く。
 皆、そう発したの生徒を一瞥すると、そのまま彼女と同じ方向へ視線を向けた。
 しかして視線の先は空の穴ではなく、その真下に続いており――。
『……』
 気付くとそこには、直径100cmほどの黒い球体があり、心臓の鼓動と似た動きをしながら静かに蠢いていた。

※ ※ ※ ※ ※

「夢子、先生呼ぼう。なんかヤバい気がする、アレ」
 真っ先にそう口にしたのは楓だった。
 今がどういう状況かを理解しての発言、というわけではない。そもそも突然現れた黒い球体の正体が分かる者など居るはずもない。
 けれどこの時彼女は、直感的に危機感めいた焦りを覚えていた。
 楓は、呆っと球体を見ている夢子の肩を強く揺さぶる。
「! う、うん。その方がいいよね……」
 そして夢子も、肩を揺さぶられたことでハッとした表情を浮かべると楓を見た。
 あまりに非現実的な光景ゆえに、知らず知らずの内に空の穴と黒い球体を見入っていたのだろう。
 まるで夢から覚めたようにパチクリと瞬きを繰り返しがらも、楓の言葉に慌てて頷き職員室に向き直った。
 その時、
 ピピッ。
「!?」
 中庭にから不意に、スマホのカメラで録画を開始する音が響いた。
 その音に、この場に居る誰もが振り返る。
「ちょっ、やめとけって」
「大丈夫だって。それにこの動画をアップしたら相当バズると思うぜ」
 音の出所は、中庭に集まり弁当を囲っていた男子生徒の一人。空の穴、そして謎の黒い球体を見入っていた内の一人だ。
 しかし男子生徒は、それらが現れて以降なんのアクションも起こしていないことに気付くと、不安や緊張感を投げ捨て嬉々として撮影を始めていた。
 一緒に弁当を囲っていた一人がその行為を窘めるが、お構いなしだ。
 その内、
「私も撮ろ」
「じゃあ俺も」
 男子生徒と同じ考えの者が、一人また一人と増えていく。
 既に彼ら彼女らに、未知の現象に対する不安は無くなっていた。あるのは、(この光景をSNSに投稿すれば、沢山の反応を得られるのでは)という打算に満ちた期待だけ。
 やがて、中庭に居る半数以上の生徒がスマホを構えるまでになっていた。
「頭おかしいんじゃないの、あいつら」
 楓から、小さな呟きがこぼれる。
 それは、目の前で能天気にスマホを構える生徒たちに唖然としながらも、口にせずにはいられない言葉だった。
「か、楓ちゃん、アレ……」
 そんな時、声を震わせた夢子が怯えた様子で黒い球体を指差す。続けて半歩、後ずさる。
 楓はその声にハッとした表情を浮かべると、再び黒い球体に視線を戻した。
 そして、目にする。
 黒い球体"だった"モノが、徐々に形を変え、まったく別の姿へと変化していく様を。
 やがて変化が収まった時、誰からともなく声が上がった。
「あれって、トカゲ……?」
『……』
 言葉の通り、彼女たちが目にした"ソレ"はまさしく、巨大なトカゲのような姿をしていた。
 そう思うのは、地べたを這うための四本足と、胴より少しだけ高い位置にある頭。そして胴に対して異様に長い尻尾など、一般的なトカゲが持つ特徴と大きく一致する点が幾つもあったからだ。
 ただ、普通のトカゲとは大きくかけ離れた相違点も散見された。
「気持ち悪っ……」
 楓はそう言うと、あからさまに顔をしかめる。
 また、そんな反応を見せたのは、彼女だけじゃない。この場に居る誰もが、彼女と同じ嫌悪感を示した。
 その理由は、一目でわかる。
 黒い球体から変化したトカゲ(に似た生き物)の頭は、あろうことか頭蓋骨とその中身が剥き出しになっており、飛び出た眼球がギョロギョロと絶え間なく辺りを探るように動いていたのだ。
 端的に換言するならば、グロテスクなトカゲのゾンビとでも呼ぶべきか。頭の中身も黒一色なのが、絵面としては唯一幸いだった。
 流石にこの変化に恐怖を感じた者も多かったようで、生徒たちは一転して表情を強張らせながらゆっくりと後ずさり始める。
 だが、もう遅かった。
「みんな、逃げて!!」
「ちょ、夢子!?」
 咄嗟に、夢子は窓から身を乗り出し中庭の生徒たちに向かって叫ぶ。
 それとほぼ同時に、
『GUGAAAAAAAAAAAA!!!』
 トカゲは、突然口を大きく"十字"に開くと、けたたましい咆哮を上げ動き出した。
「うわああああああああ!?」
「きゃああああああああ!?」
 忽ち、中庭に悲鳴が木霊する。続けて逃げ場を求める生徒たちが、ドタバタと一階の窓や渡り廊下から校舎に雪崩れ込んだ。
 黒い球体から変化したトカゲの体高は、生徒たちの背丈を悠に越え、全長もかなりあることから、襲われれば到底無事で済まないことは明らかだっからだ。
 そんな存在が、グロテスクな口を開いて迫ってくる。これ以上の危険と恐怖が他にあるだろうか。
「夢子、早く逃げよう!」
「う、うん!」
 けれど幸いなことに、トカゲは逃げ惑う生徒たちに反応すれど特定の狙いを定めてる様子はなく、未だ中庭で右往左往していた。
 であれば、今が逃げるのに好機であることは言うまでもない。
 楓は、夢子と共にこの場から離れるため、彼女の手を引き走り出す。
 しかし、
「――ッ!?」
 いざ一歩踏み出した途端、楓は一瞬大きく身体を震わせると、まるで石になったかのようにピタリと動きを止めた。
「ど、どうしたの、楓ちゃん……?」
「……ッ」
 突然足を止めた楓に、夢子は心配そうな表情で呼び掛ける。が、返事はない。
 ただ目を見開きダラダラと額から汗を流す楓の姿を見て、夢子は彼女に何かあったのだと容易に察することができた。
 直後、
「ねぇ、楓ちゃ……ッ!」
 再び楓に呼び掛けようとした夢子は、背中に度し難い悪寒を感じて背筋をビクリと震わせる。
 そして恐る恐る振り返ると――。
『……』
 先程まで忙しなくギョロギョロと動いていたトカゲの目玉が、狙い済ますように自分達を一点に捉えていることに気付いた。
 否、"自分達を"というより楓を・・捉えて離さなかったというべきか。
 それに気付いた途端、夢子は顔から血の気が引いていく感覚に襲われた。
「ご、ごめん、夢子。なんか、足が思うように動かない。アンタだけでも逃げ――」
 震えを押し殺すような声で、楓は夢子にすがる。
 彼女は察してしまったのだろう。突然押し黙った夢子の反応から、自分達が危機に瀕しているのだと。
 そして、この状況で危機と呼べるものなど一つしかない。
 ゆえに楓は、夢子を巻き込むまいと震える唇で懸命に言葉を吐き出す。
 「私のことはいいから、早く逃げて」と。
 けれど無情にも、その言葉は途切れることになる。
「だ、大丈夫だよ、楓ちゃん。わ、私が、なんとかするから……!」
 他ならぬ、夢子の突拍子もない行動によって。
「夢子!?」
 夢子が震える声で呟いた直後、タッタッタとトカゲが居る方向へ駆ける足音が廊下に響いた。そしてその足音が誰のものか、楓にはすぐに分かった。
 思わず楓は夢子に向かって叫んでいた。するとどうだろう、先程までの硬直が嘘のように解け、彼女の身体は自由を取り戻す。
 けれどそんなことを一々気にしていられないと、楓は夢子の奇行を止めるため急いで振り返った。
 その時、
 ドガンッ! バリバリバリッ!
 間近でビルの解体工事でもやっているのかと思える程の轟音と、ガラスが砕ける音が同時に響く。
 直後、
 ビシャッ。
「……え?」
 楓が振り返った刹那、まるで路肩に溜まった水が車の通過で跳ねるように、鉄臭い赤い液体が彼女の頬にこびり付いた。
 途端、呆然とした声が楓の口からこぼれる。
 そして少女は、絶望を見た。
『GURUUUUU……』
「あ……あぁ……」
 廊下の壁に大穴を開け、千切れた"誰か"の下半身を咥えて唸る大トカゲと、その足元で横たわる上半身だけになった夢子の姿を。
 夢子は虚ろな眼差しを楓に向けながら、今にも掻き消え入りそうな呻き声を漏らしていた。
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