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1-4『魔法戦士マジカル☆ナイト』

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 ビチャッという耳心地の悪い音が、僕の両耳の鼓膜を叩いた。続けてドサリと、何かが倒れる音が足元から鳴る。
 『死神の口車に云々』とか心の中で啖呵を切っておきながら、やっぱり途中で怖くなって目を瞑っていた僕は恐る恐る瞼を開く。
 そして、鮮明になった視界に広がる光景を見て、思わず息を飲んだ。
「これは……ッ!?」
 こればっかりは、言葉に詰まっても仕方ないだろう。なぜなら僕に襲い掛かってきた筈の触手は、どういう訳か僕が握った拳を分水嶺に真っ二つに裂けていたのだから。
 こんなこと、本当に有り得るのだろうか。
 信号機を易々と破壊するような触手に、なんの変哲もない人の拳が打ち勝つなんて。
 その時、僕はふと気付く。僕の両拳にいつの間にか、黒くて硬いグローブのようなものが填められていたことに。
「こんなの、着けてなかったような」
 見た目は、ボクシンググローブを五本指仕様にして且つスマートにした感じ、と表現すればいいんだろうか。指の付け根と第二間接の間に緩衝材らしき膨らみがあるのが特徴的だ。
 一瞬考えたけど、間違いない。こんなのさっきまで着けてなかった。
「もしかして、これが触手を……? って、うわっ!」
『GUGAAAAAAAAAAAAA!!!』
 知らぬ間に身に着けていたグローブに目を奪われていた僕は、黒い球体が発する咆哮らしき音に意識を引き戻される。
 残っている三本の触手がビタンビタンと地面アスファルトを叩く姿は、心なしか怒り心頭といった風に見えなくも無い。
 ……そうだった、今は考え事をしている場合じゃない。
 僕は拳を突き出す構えを解き、静かに黒い球体を睨みつける。
 そして、
「逃げる!」
 身体の向きを180度回転させ、もうすっかり人の居なくなった交差点を全力で駆け出そうとした。
『ちょっと待ったーッ!』
 そんな時、僕の頭の中で再び声が響いた。
 どうやら声の主はひどく驚いているようで、たった一言の呼び掛けからでもハッキリと判るくらいの焦りを滲ませている。
 チラリと、僕はさっきまでウサギっぽい生き物が居た物陰に視線を向ける。
 ……まだ居た。心なしかすごく慌てているように見える。
 というかアレは、僕が死に際に見た幻じゃなかったのか。
『逃げるって、それじゃあキミに力を与えた意味がないじゃないか! 大丈夫だから、無抵抗のまま棒立ちでもしない限り余裕で勝てる相手なんだから、勇気を出して!』
「うるさい、何者かは知らないけどうるさい! どう考えてもあんなのに敵うわけないだろ!」
 命を拾い冷静になった上で今の状況を鑑み、僕は即座に判断を行動に移す。即ち逃げの一手。
 頭の中に響く声が喧しいけど、知ったことじゃあない。
 どういう奇跡が起きたのかは判らないが、幸運にもまだ命はある。だったら、調子に乗って立ち向かうより急いでこの場から離れる方がずっと賢明な選択だ。
 僕は一秒でも早くこの場から離脱する為、切羽詰る思いで強く地面を踏み込む。
 その時、不思議なことが起こった。
「へっ?」
 突然ブワッと、激しい突風に背中を突き飛ばされるような感覚が発生し、僕の両足が地面から離れる。
 続けて正面から一瞬だけ、ジェットコースターに乗った時を思い出させる風圧に襲われた。
 そして、自分でも驚くほど間抜けな声を発した次の瞬間――。
 ガシャン! バリッ、バリバリバリッ!
 僕は激しい物音を立てながら、“数十メートル離れた”楽器屋の巨大な窓ガラスに頭から突っ込んでいた。
 その後数瞬遅れて、砕けたガラスの散らばる音が店内に響く。
「き、急に風が、一体どうなって…………あれ?」
『ワオ! もう“潜在技能”を使えるんだね。すごいじゃないか!』
「ちょっと黙っててくれる?」
 声の反応に何故だかイラっときたけど、今はそんなことどうでもいい。そもそも何て言ったのかもよく分からないし。
 代わりに僕は、体の上に散らばったガラス片を払うように起き上がると、急いで楽器屋のカウンターに飛び込み黒い球体から身を隠す。
 そして怪我をしていないかと頭に触れた時、自身の身体の違和感に気付いた。
 こういうお店のガラスは、防犯の都合上一般家庭にある窓ガラスなんかと違って割れにくく、且つそれなりの厚さもあると聞いたことがある。
 そんなガラスに頭から勢いよく突っ込もうものなら、凄惨なことになるのは火を見るよりも明らかだろう。
 だのに、
「痛く、ない?」
 僕の頭には血はおろか、たんこぶや傷、痛みすらもなかった。
 加えて砕けたガラス片を受け止めた肌にも、これといった外傷は見られない。精々、制服の所々に修理代で泣きを見そうな傷が幾つか出来たくらいだ。
 だからといって、僕の触覚がおかしくなった訳でもないらしい。着ている服の感触も、靴底から伝わる床の固さもしっかり感じられるのだから。
 ――どうなっているんだ。僕は、スーパーマンにでもなったのか?
 でも考える猶予は、そこで一旦打ち切られる。
『GUGAAAAAAAAAAA!!!』
 外で再び、黒い球体の咆哮が響く。
 身を隠したことで落ち着くだけの余裕を持つことが出来た僕は、とにかく今は逃げ伸びることが最優先という考えのもと、触手の隙を窺うためカウンターから外を覗き込んだ。
 その時、
 ガシャンッ、ガシャンッ! バリンッ!
「――ッ!?」
 外から伸びてきた触手が、壁や残ったガラスを突き破り店内の床や天井に次々と突き刺さった。
 その中の一本が僕の頭上を勢いよく通り抜け、ゾワリと全身が総毛立つ。叫ばなかった自分を全力で褒めてあげたい。……黒い球体アレに聴覚があるのかは分からないけど。
 何にしてもその敵意剥き出しの行動は、触手が僕をターゲットに定めているという紛れも無い証拠になった。
 だとすれば、
 ――ここも長くは持たない。
 今こうして無事でいられるのは、ホントにただの偶然だ。次も触手が狙いを外してくれるなんて希望的観測は望めない。
 だとすれば、今やれることは一つだけ。
 僕は触手が引き抜かれ再び襲い掛かってくる前に、急いでカウンターから飛び出した。
 でも突き刺さる触手を見た瞬間、僕はその判断を全力で悔いることになる。
 けれど気付いたところで引き返すわけにもいかず、僕はどうにか触手の隙間を縫いながら外に出た。
 そして、絶望を目にする。
「――冗談キツイだろ」
 諦めに近い感情を孕んだ言葉が、僕の唇からこぼれた。

 正直なところ、触手が楽器屋の壁を貫いた時から、薄々感じてはいた。『あれ? なんか触手多くない?』って。ただ気のせいだと信じたい理性が、無意識に正常な認識を拒んでいたのかもしれない。
 つまりどういうことかというと、交差点の中央に佇む黒い球体は、全身からウニの棘のように触手を無数に生やして僕を待ち構えていたのだ。
 逃げ道は、幾つかの触手が阻むように横倒しになっているせいで完全に失われていた。
「……。……はぁー」
 途端、逃げ道だけでなく遂には言葉も失う僕は、思わずクシャクシャと頭を掻きながら大きな溜息を零す。
 人間、あまりにどうしようもない状況に立たされると、反って冷静の極致に至れるのだと今この場で思い知った。もっとも人は、それを観念したと表現するのだが。
 僕の表情は、それはもう絶望に染まり切ってることだろう。
 けど次の瞬間、
「もう、どうにでもなりやがれっ!」
 半泣きの僕は地面を強く踏み込みながら、黒い球体目掛けて勢い任せに駆け出していた。

※ ※ ※ ※ ※

 正直に言おう。この特攻は、ただの自棄であると。
 今向かっているのも何もしないで串刺しになるのは嫌だと思ったからであって、策と呼べるものは一つも無い。
 ただ、あまりに分が悪いけど、この特攻はある種の“賭け”という側面を孕んでいた。
「頼む……!」
 頼みの綱は、両手のグローブ。ハッキリ言って命を賭けるには誰が見ても取るに足らない装備だ。
 それでも、声の言う通り強く拳を握ったら襲い掛かってきた触手が真っ二つになっていたという事実はあった(目を瞑っていたから実際に見た訳じゃないけど)。
 だったらもう、これに縋るほか無い!
「来た……っ!」
 思った通り、真っ直ぐ向かってくる僕に黒い球体は触手を伸ばす。
 だから僕はそれに合わせて、過剰なほど強く握った右拳を勢いよく振り抜いた。
 すると、
 ズババババッ!
 それはもう見事なほど鮮やかに、割けるチーズかって思うくらい滑らかに、伸びてきた触手の一本が軌跡を描くように真っ二つに裂けたのだ。
「っしゃあああああああああああ!?」
 それに賭けていたとはいえ、動揺を隠し切れない僕は威勢だけはいい困惑の声を上げる。でも、走る足は決して止めない。
 未だに自分がやったことへの驚きはあるし、怖いって気持ちも心の大半を占めている。
 でも触手アレをどうにか出来ると判ったのなら、今更躊躇などしていられない。
 そして遂に、僕は黒い球体に拳が届く間合いまで迫った。

「うおおおおおおおお!」
 悲鳴にも似たヤケクソ気味の雄叫びが、正午を過ぎたばかりであるにも関わらず、人気ひとけが一切無い大交差点に響き渡る。
 そんな魂の叫びと共に僕が繰り出したのは、この世に生を受けて16年、喧嘩や争い事とは無縁の人生を過ごしてきた人間らしい、締まりの無い隙だらけの大振りな拳。
 格闘技経験者を相手にしようものなら鼻歌と共にヒラリとかわされた後、即座にカウンターを叩き込まれるに違いない一振りだ。
 もしそうなってしまえば、きっと10カウントを与えられようと僕は立ち上がることが出来なかっただろう。
 けど、そんな素人丸出しの一撃は――。
『IGYAAAAAAAAAAAAA!!!』
 目の前で断末魔を上げる、ウニのように全身から触手を生やした大型トラックに匹敵する巨大な黒い怪物を、砂の城を蹴散らすが如く軽々と粉砕した。
 辛うじて残った怪物の下半分が音を立てて崩れていく様は、爆破解体され根元から倒壊する高層ビルによく似ている。
 でも、その光景を目の当たりにした僕は、
「ホ、ホントに、僕がこれを……?」
 未だ拳を振り抜いた姿勢のまま、きつねつままれたような表情かおを浮べていた。
 しかし激しく鳴り響く心臓の鼓動と、両手に装着した黒くて硬いグローブの上からでも分かる拳に残った感触が、これが現実であると高らかに主張する。
『やったね、マジカル☆ナイト守多。最高の初陣じゃないか!』
「芸人みたいな呼び方止めてくれるかな!?」
 そんな時、ハイテンションという概念に命を吹き込んだかのような甲高い声が、よくやったと言わんばかりに僕に話しかけて来た。
 その声でハッと我に返った僕は、頭の中に直接響く声の発生源を探すため辺りを見回すと、ズボンの裾を引っ張られる感触に気付いて視線を下げる。
 そこに居たのは、
『やっぱり、ボクの見込みに間違いはなかった。期待していた通り、キミは最高の逸材だよ!』
 満足げに頷きながら歓喜する、サッカーボールサイズのウサギっぽい真っ白な毛玉が一匹。
 長い耳をピンと立て、大きな蒼い瞳と桃色の小さな鼻を持ち、トテトテと二足歩行するその姿は、小さい頃に姉と見たプリティでキュアなアニメに出てくるマスコットキャラクターを連想させた。
『やあやあやあ、毛玉呼ばわりとはヒドイじゃないか。ボクには……いや、名前なんてどうでもいいか』
「いや、どうでもはよくないと思うぞ。っていうか、これは一体――」
 辺りを見回す。
 僕が立っているのは、数分前とは打って変わり惨状が広がる大交差点のド真ん中。
 アスファルトの地面には至る所に亀裂が入り、これまで交差点の秩序を守っていた四つの信号機は無残にも全て折れ曲がり、一部倒壊したお店のガラス片があちらこちらに散らばっている。
 まるで大地震が起きた直後を思わせる光景に、僕は改めて呆然と立ち竦み言葉を失う。
 いや、言いたいことや知りたい事は山程あるんだけど、混乱しているせいか上手く言葉に出来ないんだ。
『それよりボクは、キミに用があって来たんだ。所謂スカウトというやつなんだけどね』
 そんな僕を無視して、真っ白な毛玉ことウサギっぽい小動物はそう言うと、風も無いのにフワリと浮かび上がる。
 そしてそのまま僕の胸元近くにまで寄ってくると、ビシッと僕を指差して言った。
『キミ、魔法戦士マジカル☆ナイトになってみる気はない?』
 ……一体、何がどうしてこうなったのか。
 僕は未だこの状況を理解することが出来ず、右手で顔を覆いながら溜息混じりに空を見上げるのだった――。
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