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1-3『黒い球体』

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 ――結構長いんだよなあ、ここの信号。
 時刻は、正午まで残り十数分という頃。
 バイトの荷物を取りに一度帰宅した僕は、パンクした自転車を修理してもらうため、そのまま着替える間も無く近所のサイクルショップへと向かっていた。
 最初は寄り道する気なんてなかったんだけど、バイトの帰りや明日の登下校の手間を考えたら、出来る時にやっておいた方がいいと思ったんだ。
 そして今は、道の途中にある大きな交差点で信号待ちをしている真っ最中。
 ――にしても、今日は随分と人通りが多いな。
 偶々なんだろうけど、ふとそんなことが気になった。
 ふだん僕がこの交差点を横断することは滅多に無い。大体は、人込みを傍目に曲がり角を通り過ぎていくばかりだからだ。
 でもこうして紛れる側になってみると、また見え方も変わってくる。
 立ち並ぶ雑居ビルや、歩道側が大きなガラス張りになっている楽器屋。ピエロのマスコットが店頭に設置されたファストフード店に、見てくれからすでに喧しいパチンコ店。他にも大小様々な建物の群れ。
 どれも普段から見慣れているはずなのに、視点が変わるだけでなんだか全く新しい街に来たような気分だ。
 ――あ、信号変わった。
 と、そんなことを考えている間にも、歩行者用の信号が青に変わり人の群れは波となって移動を始める。
 当然群れの只中に居る僕もその例に漏れず、自転車が周りの人にぶつからないよう気をつけながら歩き出した。
 その時、
 バリンッ!!
「また……?」
 再び、ガラスが砕けるような音がした。
 しかも今聞こえたソレは、学校で聞いたものよりもずっと激しさを増しており、尚且つすぐ近くに感じられた。
 僕は思わず、その場で足を止めてキョロキョロと辺りを見回す。
 でも、これといっておかしいと感じられることはない。周囲の人達も音が聞こえていない様子で、皆揃って前を向き足を止めている。
 ――ん? “足を止めている”って、どういうことだ?
 でも、そんな疑問を覚えたのも、ほんの数瞬のことだった。
「な、なんだコレェ!?」
 突然、驚く人の声が交差点の中央から上がる。
 それと同時に、人の波がざわつき始めた。
「一体どうし――」 
 反射的に僕の唇からそんな言葉が零れる。
 けど、それを最後まで言い切ることは出来無かった。
 何故なら、
「に、逃げろーッ!!」
 交差点の中央から上がった悲鳴に、僕の喉が音を出すことを憚ったからだ。
 そしてそれは周りの人々も同じようで、悲鳴が周囲に響き渡ると同時に、空間からあらゆる音がピタリと止む。
 けど、次の瞬間――。
「わあああああああああああ!!」
「ぎゃああああああああああ!!」
「た、助けてぇ!」
 交差点の中央から突如、数多の絶叫が木霊した。

「うおっ!?」
「やめろ、押すな!」
「どうなってんだよ!?」
 交差点はたちまち、揉み合う群集の怒号や罵声に包まれた。
 中央に居た人達が何故かその場から離れようと一心不乱に周囲の人を押し退ける一方で、そこで何が起きているのかサッパリ判らない後方の僕らは困惑しながら立ち竦むことしか出来なかったからだ。
 しかし、騒ぎはそれだけに留まらない。
「え、何々? スクープ系? ちょっと、通して通して」
「見えないんだけどー」
「……(無言でスマホを構える)」
 群衆の一番外側でスマホを構えながら、面白半分で割って入ろうとする野次馬達の圧力が加わったのだ。
 皆、自分が当事者になるとは少しも思っていないんだろう。
 ほんな内から外への圧力と外から内への圧力をモロに受け、狭間に居る僕は満員電車に居るようなスシ詰め気分を味わうことになった。
「ぐっ……」
 一体、交差点の真ん中で何があったというのか。
 人込みに圧迫され思うように動けない僕は、呻き声を上げただただ自転車を掴む手が緩まないよう踏ん張りながら疑問を抱くことしか出来ない。
 でも、すぐにその必要は無くなった。
 何故なら、
「な、なんだよ、アレ」
「なんかちょっと、ヤバくない……?」
 交差点の中央から、だけじゃない。
 僕の周りや、そのずっと後ろからも、同じような囁きが聞こえてきたからだ。
 そしてその中には、
「黒い、球体……?」
 僕の声も含まれていた。

 交差点の中央に見えたのは、スライムのような質感を思わせるグレーに近い黒色の球体。
 その大きさは、目視した限り人垣の中からでも丸みを帯びた天辺が見えるくらいはある。
 また膨らみ続ける風船みたいに秒単位で大きくなっていくその姿は、得体の知れない不安を煽るのに充分な存在感を放っていた。
 その時、
「ちょっと、なんか生えてくる!」
 一体誰がそう叫んだか、でもそれは重要なことじゃない。
 なぜなら、わざわざそんな事を言われるまでもなく、この場に居る誰もが謎の黒い球体が見せた変化に気付いていたのだから。
 即ち、黒い球体は大型トラック程の大きさにまで膨れ上がったところで、天辺から発芽する苗のような突起を出し、それをそのままグングンと伸ばし始めたのだ。
 そしてそれは信号の倍ほどの高さにまで伸びると、縦四つに分かれた。
 ――アレ、ヤバイかも。
 根拠は無い。でも不思議なのことに、気付くと僕の脳裏でそんな思考のループが始まった。
 どうしてそう思うのかは、自分でもよく分らない。
 ただなんとなく、ホントにただの直感だけど、ここに居るのはよくないと本能が警鐘を鳴らしていたんだ。
『GI……GYAGYA?』
 果たして、その直感は正しかった。
 黒い球体から生え分かれた四つの苗は、おもむろに交差点の四方に立つそれぞれの信号機に狙いを定める。
 すると次の瞬間、
『IGYAAAAAAAAAAA!!!』
 金属を激しく擦ったような音を発しながら、それぞれの信号機を滅茶苦茶に破壊し始めたのだ。
 そんな理解不能な行動に、この場に居る誰もが固まり言葉を失う。
 でも次に、苗の先端がゆっくりと人々ぼくらに向けられた時、群集の心は一つになった。
 即ち、
「うわああああああああああああ!?」
「きゃあああああああああああ!?」
 僕らは一人残らず悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように交差点の外側へと走り出した。

※ ※ ※ ※ ※
 
 ――逃げないと!
 僕は握っていた自転車のハンドルから手を放し、周りの人達と同じように走り出す。
 高校に入学した頃から毎日使っていた思い入れの深い自転車だったんだけど、流石に命には代えられない。
 幸い外側の野次馬もこの状況に危機感を覚え避難を始めていたようで、人込みに詰まって動けなくなるなんてことはなかった。
 ――大丈夫、これなら……!
 どうやらあの苗――いや、あのウネウネと動いてる様は、もはや触手と呼んだ方がしっくりくる。
 とにかく触手は、フラフラと先端を僕らに向けているものの、どういう訳か襲い掛かろうとする素振りは見られない。というより、まるで観察でもしているような……。まあ何にしても、逃げるなら今が好機だろう。
 ……でも、そんなことを考える余裕を持ってしまったせいで、必死だったなら気付かなかったであろう些細なことに気付いてしまった。
「きゃあ!?」
 女性の悲鳴と、ガシャンと何かが激しくぶつかる音。そしてチリンと短く、けれど乱暴に鳴るベルの音が、僕の耳に鮮明に響いた。
 刹那、逃げ惑う群衆の中で僕だけが、唯一その音に足を止めて振り返る。
 そしてある光景を目にした途端、気付くと僕の身体は逆走を始めていた。
 ――ああ、クソッ。
 思った通り、音の正体は僕が手放した時に横倒しになった自転車だ。そしてその傍には、後部車輪にヒールの踵を挟んだ女性が倒れていた。
 恐らく横倒しなった自転車を跨ぐかそのまま踏み越えて行こうとした時に、誤ってタイヤに足を引っ掛けてしまったんだろう。
 女性はパニックを起こしているらしく、足を引き抜こうとジタバタしながら暴れていた。
 ――行かなきゃ。
 普段の僕なら、たとえ妄想だろうとこんな状況で逆走しようとは考えない。当然だ。消防士や警察官、ましてや軍人でもないのに自身の身の安全すらも分らない渦中に飛び込むだなんて、ハッキリ言って正気の沙汰ではない。
 でも、
 ――ダメだ、それだけは。
 “僕が放置した自転車で人に迷惑を掛けた”という事実が、僕にこの場で知らない振りをすることを許さなかった。
 正直、頭のおかしい行動をしているという自覚はある。
 それでも、
 ――ダメなものは、ダメなんだ。
 周りを走り抜けていく人達と何度か肩をぶつけたりしたものの、僕はどうにか自転車まで辿り着く。
 そして暴れる女性の足首を掴むと、靴を脱がせてそのまま足を引っ張り出した。
 途端、女性は僕や自転車に目もくれず、悲鳴を挙げながら走り去っていく。
「よし、僕も」
 足を捻っていたらどうしよう、なんて最悪な状況を密かに懸念していたけど、どうやら杞憂に終わったようだ。
 走りにくかったのか、女性はもう片方のヒールも脱ぎ捨てて飛ぶような速さで遠ざかる。
 その後姿を見て、僕もそれに続こうと急いで立ち上がった。
 だけど、
「ッ!?」
 突如、巨大な舌で舐め上げられるようなゾワゾワとした悪寒が、僕の背中に走った。
 それと同時に全身の筋肉が強張りだし、身体は僕の意思とは関係なく震え始め、足が思うように動かなくなる。
 こんなところで足を止めている場合じゃないことくらい、僕だって分っていた。でも蛇に睨まれた蛙のように、思うように身体が動かなくなっていたのだ。
 気持ちの悪い汗が、体中からジワリと浮かぶ。
 そんな時、僕は視界の端でウネウネと動くものを捉えた。
 そして周りを見て、ようやく気付く。
「――最悪だ」
 四つ全ての触手が、僕を狙い澄ましていたことに。
 すぐさま理解した。僕はあの触手に、"個"として認識されてしまったんだと。
「……ハ、ハハ」
 ……今の僕は、一体どんな表情かおをしているんだろう。
 無意識の内に自身の唇から零れた音を聞いて、思わずそんなことを思った。軽い現実逃避だ。
 四つの触手が、頭上でユラリと動く。
 僕は恐怖で頬を引き攣らせながら、数秒前の自分の行いを全力で悔いた。
 どうして自転車を押したまま逃げなかったのか、と。
「ごめん、お――」
 ビュッ!
 辞世の句を挙げようとした時、一本の触手が風切り音を立てながら僕の頭目掛けて勢いよく伸びて来た。
 ……哀しいな、遺言を言い切ることすら出来ないなんて。
 防衛本能なのか自然と腕が頭を守るように持ち上がるけど、無意味なことだ。
 きっと瞬と経たず触手は僕の腕を易々と貫き、頭蓋もろとも巨大な風穴を開けるのだろう。
 ――ああ、終わった。
 僕は、死を確信した。
 その時、
『大丈夫、ボクが見込んだんだ。それくらい、キミならどうってことない筈だよ』
「――ッ!?」
 何処かで聞いた覚えのある声が、突然頭の中に響いた。
 それと同時に周囲全ての景色がスローモーションに変わり、あらゆる音が忽然と消え去る。正常に時を刻んでいるのは、僕の思考と脳内に響く声だけだ。
 その時僕は視界の端で、触手でもなければ黒い球体でもない全く別種の異物が、建物の影からこちらを指差している姿を捉えた。
 それはパッと見、二等身のウサギっぽい生き物のようで――。
『まだ生を諦められないなら、まだ死を認められないのなら、騙されたと思って拳を強く握ってごらん? それくらいできるだろう?』
 なんだか分らないけど、随分と挑発的な物言いだ。
 けど、うん。確かに僕は、まだ生きたいと思っているようだ。その証拠に僕の拳は、このスロー空間の中でもハッキリと判るくらい握る力を強めようとしていたのだから。
 ――死に際に、死神の口車に乗ってみるのも乙なものかな。
 お迎えまで、きっと万分の一秒も無い。
 この声が止めば、時は本来の進みを取り戻すだろう。
 でも考えるだけの余裕も、覚悟を決める時間もあった。走馬灯にしては上出来だ。
『それじゃあ、あとはキミ次第だ。応援しているよ』
 そう言い残して、ウサギっぽい生き物はウインクをする。
 すると時間は、元の通りに進み出した。
 そして、
 ビチャッ。
 高所から地面に叩き付けられたトマトを思わせる鈍い音が、交差点に短く響いた。
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