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未来都市での徒然なる日常
2-2『恋を綴る怪文書』
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人が恋に落ちる瞬間というのは、当然だが人によって様々だ。
困っている時に助けられたから、優しくしてもらえたから。
一目惚れだったから、みんなの人気者だったから。
腐れ縁から知らず知らずに想いが実っていた、ということもあるだろう。
人生すら変える劇的なモノから日常の延長線まで、ある程度の共通性はあれど同じものは一つとして存在しない。
その中でも"彼女"の場合は、特に劇的なモノの一つに数えられるだろう。
人生の大半を共にしたボディガードに裏切られ、誘拐の人質として命の危機に瀕し、しかし"彼"によって救われた。
その日から、彼女は自身を救った彼のことを四六時中考えるようになっていた。
裸を見たこと、抱きかかえられたこと、命懸けで銃弾から守ってくれたこと。
やがて想いの火種は炎となり、会えない時間が彼女の気持ちに薪をくべる。
こんな想いは、どうしようもなく初めてで。
だから彼女は、新たにボディガードへ就任した女に相談した。
そして知った。今、自分は恋に落ちているのだと。
そして、それを知り決意した。何がなんでも彼を手に入れてみせるのだと。
さしあたって彼女──アリア・ウエポンは、便利屋アークにメールを送る。
ほんの僅かな、依頼料と共に。
『──って内容の怪文書……もとい依頼文が今朝、便利屋のメールボックスに届いていた。アリア嬢のボディガードを名乗る女の名義でな』
「……待て、待て待て待ってくれ、どういうことだよ一体よォ。てんで意味がわからねェぞ」
通話口で告げられた内容に、ジンは慌てて待ったを掛けた。そして頭痛を堪えるように頭を押さえる。
アリアからデートの依頼があったと社長から報告を受け、どういう事かと問い掛ける前に怪文書──もとい依頼文を聞かされ、それを送ってきたのが彼女の新しいボディーガードという話。
改めて思う、てんで意味が分からない。
「それ、本当にお嬢……アリアのボディガードからの依頼なのか? 悪戯とかじゃなく?」
「俺も、そう思って確認を取ったが間違いなかった。文中にあった通り依頼料も振り込まれている、なら受けない手はないだろう。詳しい話は事務所でしてやるから、とっとと来い」
「あ、おい待っ……切りやがった」
直後、スマコから鳴るプツンという音。
社長は言うだけ言うと、ジンの返答も待たず通話を切った。
途端、流れる静寂。ジンは頬を引き攣らせ、呆然と手中のスマコを見つめる。
結局、状況は何一つ理解できなかった。
「なにやら愉快な単語が漏れ聞こえたが、どんな話だったんだい? 是非、お聞かせ願えないかな?」
そんなジンの正面で、一部始終を眺めていたマーリンが揶揄うように口を開く。その両手には、しっかりと握られたボイスレコーダーと手帳。
知りたがりな情報屋の性か、あるいは好奇心という名の野次馬根性か。
どちらにせよ一つ確かなのは、確実に面白がっているということ。
そんなマーリンの姿に、ジンは呆れ混じりの溜め息を吐いて席を立つ。
「お前さんが思ってるほど愉快なモンじゃねェよ。おマセな子供のお守りを仰せつかっただけだ」
「おや、なんだかんだ言いつつ行くのかい?」
「仕事は仕事だからな。昼飯、あんがとさん」
気になることはゴマンとあるが、それでも貴重な収入源であることに違いはないのだ。それも相手が名家のご令嬢ともなれば拒否する選択肢など無い。
ヒラヒラと手を振るジンはマーリンに背を向けロードバイクに跨がる。
「っし、行くか」
強くペダルを踏み込めば、廻る車輪が前に進み始めた。
※ ※ ※ ※ ※
「──で、こいつは一体どういう状況だい?」
ロードバイクを走らせること十数分。
便利屋に到着したジンは、目の前の光景に困惑を覚えずにはいられなかった。
「いや~ん、なに、この娘! お人形さんみたいで可愛いじゃな~い! おばちゃんキュンキュンしちゃうわぁ~。あ、飴ちゃん食べる?」
ドアを開けるジンの目に飛び込んできたのは、ソファの前で黄色い声を上げる短髪赤髪の女の姿。
背丈はジンとほぼ変わらず、裾の長い灰色のコートを軍人のように着こなしている。
キリリと鋭く尖った目鼻立ちは、宛ら女将官だ。
それだけに、腰を曲げてクネクネと身体を揺らす仕草は中々に奇妙と言わざるを得ない。
また、
「お嬢様、足が痺れてきました。もうそろそろ機嫌を直して下さいお嬢様」
ジンの視線を引いたのは赤髪短髪の女だけではない。
次いで目についたのは、床に正座して何かを訴えているタキシードの女。背丈はジンより頭一つ分ほど低い。斜めに切り揃えた黒い前髪が印象的だ。
正座が辛いのか、女は身体をプルプルと身体を震わせている。
「……」
そして、そんな二人のちょうど間に座る、茹でダコのように顔を赤らめ俯くアリア。
それを居たたまれない眼差しで衝立て越しに眺める社長とノノ。
ジンは、これを混沌と呼称する以外の語彙を持ち合わせていなかった。
「あ、ジンさん! お待ちしていました」
呆然とするジン、そんな彼に真っ先に気付いたのはノノだった。
待ち人が現れたと言わんばかりに、彼女は花が咲くような笑顔を浮かべてジンに呼び掛ける。
途端、集中する事務所中の視線。
中でも特に機敏な反応を示したのは短髪赤髪の女だった。
「おや、アンタが噂のジン坊かい? 話は社長から聞いてるよ、初仕事で大活躍したらしいじゃないかい」
「……お前さんは?」
アリアへの絡みから一転、短髪赤髪の女はジンに詰め寄ると顔を近付ける。
鬱陶しげに顔を引くジンが何者かと訊ねれば、女は胸を叩いて名乗りを上げた。
「アタシはクリス。主婦業の傍ら便利屋に勤めるパートのおばちゃんさ」
そう言って、女──クリスは歯を出して笑顔を浮かべる。
おばちゃんと自称するだけあって、その容姿はお世辞にも若いとは言い難い。
歳は四十代後半頃だろうか、肌の表面には化粧で誤魔化しきれていない小皺が複数確認できる。
それでも目鼻立ちは整っていること、そして一度言葉を交わしただけでも解る竹を割ったような明るさから、若い頃はさぞ人目を惹いたであろうことは想像に容易い。
けれど自己紹介するクリスにジンが思ったのは、容姿とは全く別のことだった。
「クリスってェと、確かアリア救出の時に社長が真っ先に連絡したやつじゃねェか。野郎とばかり思っていたが、女だったのか」
「あはは! よく言われるよ、本名はクリスティーナってんだけどね。でもアタシってクリスティーナって面してなからさ、名前負けして恥ずかしいし縮めて呼んでもらってんの。アンタも気安く呼んでくんな」
「そうかい、なら遠慮なく。よろしく頼むぜ、クリス」
右手を差し出すクリス。握手を求めているのだろう。
ジンも、それに応じて手を握る。
瞬間、
「ほゥ」
触れた手の感触に、ジンは小さく息を溢した。
女性のものとは思えない厚くて硬い皮膚、幾度となくマメが出来ては潰れたと思しきデコボコとした掌。
普通に暮らしていてできるモノではない、少し鍛えている程度でもこうはならない。
例えるならそれは、荒事を常とする者が自然と身に付ける皮の鎧とでも呼ぶべきか。
ジンは瞬時に察する。パートのおばちゃんを自称する目の前の女は、これまで一つ二つでは収まらない修羅場を経験し、それを潜り抜けてきたのだろうと。
アリア救出の際、社長が真っ先に彼女に連絡を寄越すのも納得だった。
一方、
「へぇ……」
深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているように、ジンの手を握り返すクリスもまた、何かを察した様子で片目を瞑った。
その瞳に浮かぶのは感心と興味、そして少しの畏怖。
触れただけで分かる──否、"思い知らされる"。想像も及ばないほどの鍛練と死線の数々、死が身近にある環境で生きてきた者だけが纏う独特な圧を。
自身が感じたものをより理解しようとするかの如く、クリスは彼の手を離そうとしなかった。
その時、
「大変恐縮なのですが、そろそろ此方にも関心を向けては頂けないでしょうか?」
不意にソファの近くから上がる声。
その声は、ひどく震えていた。
「あ、悪い悪い……って、お前さんは?」
「おや、お忘れですかジン様。私は──」
慌てて声の元に視線を向けるジン。
そこには我慢の限界といわんばかりに顔を赤らめる女の姿があった。
女は、ようやく自分の番が回ってきたことに安堵しながら立ち上がろうとする。
しかし、
「あ゛っ」
瞬間、脚全体に迸る度し難い痺れ。正座の影響であることは言うまでもない。
車に轢かれた蛙のような声と共に、うつ伏せに倒れる女の身体。
ビタンッと、乾いた音が事務所に短く響いた。
「………………」
事務所に流れる居たたまれない沈黙。
社長とノノは無言で目を逸らし、ジンは掛ける言葉もなくその様子を眺め、クリスは「あらら」と頬を掻く。
誰も、何も言わない。何も言えない。
そんな沈黙を破ったのは、他ならぬ女自身だった。
「お久しゅう御座いますジン様。私、以前ご主人様のお屋敷にて着付けを担当させて頂きました、元・メイドのメイでございます」
「メンタル鋼か? お前さん」
うつ伏せのままに、もぞりと首を動かしキメ顔で自己紹介する女──メイ。
状況と明らかに見合わない表情と一切の物怖じを感じさせない逞しさに、ジンはドン引きを隠せない。
しかし、メイという名には確かに覚えがあった。
トラーバに案内されたウエポン邸で着付けの手伝いをしてもらったメイドの女、その名で間違いない。
だが果たして、こんな人物だっただろうか。
記憶している彼女と目の前の女の姿に、ジンは疑問と困惑を覚えずにはいられない。
その時、
「誰が、正座を止めて良いと言いましたか?」
「っ!」
ピシャリと、背後のソファから告げられた少女の声。
途端、メイは弾き合う磁石のように床から身体を起こし再び正座する。
その様子を確認した声の主──アリアは、ソファから降りるとスカートの裾を摘まみ恭しくジンに礼をした。
「お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません。……ですが、それはそれとして再びお会いできて感激です、ジン様」
「お、おゥ……」
ニッコリと微笑みを浮かべるその表情に、ジンが入室した際に見せた茹でダコの面影は無い──否、両耳の先には僅かに赤い熱が残っている。
「突然押し掛けた無礼を謝罪します。ですが、これには理由がありまして──」
かくかくしかじかと、捲し立てるように説明するアリア。
その間、正座するメイの顔色は、みるみる蒼く染まっていった。
※ ※ ※ ※ ※
「──……つまり、儂に礼がしたくてメイに相談したら、その気持ちは恋だ何だのとエクストリーム解釈カマされた挙げ句、有ること無いこと書いたメールを勝手に送られたってェことかい?」
「はい、その通りでございます」
「成る程な、そりゃメイが悪い。お嬢がお冠になるのも納得だ」
うんうんと頷くジンに、アリアは「ご理解いただけて感謝の限りです」と胸を撫で下ろす。
彼女が言う礼とは、誘拐犯から救出されたことで間違いない。
つまるところ今回の依頼は、暴走したメイのありがた迷惑なお節介による不手際、というのがことの顛末だった。
ならばメイが床に正座させられていたのは罰を受けていたのだと理解できる。
「しっかし、そうなると今回の依頼は無効になるわけか」
「え?」
全てはメイの誤解と早とちりが生んだ悲劇。であれば、そもそもデートの依頼など初めから存在しなかったことになる。
くたびれ儲けの骨折り損と小さく呟くジンは、やれやれと肩を竦めた。
しかしメイは、耳敏くもその呟きを聞いて声を漏らす。
そんな少女の声に気付かないジンは社長に問い掛ける。
「おい社長。この場合、依頼料はどうなるんだ?」
「言ってみりゃ手違いで振り込まれた金だ、返金が妥当だな」
「まァそうなるか」
「あ、あのぉ……?」
全ては手違いによるもの、正しくその通りだ。当事者がそう主張したのだから否定のしようもない。
全ては誤解だった、ただそれだけのこと。
そして誤解が解けたなら、話はここでお終いだ。
しかし、
「っつー訳だ、お嬢。無事に誤解も解けたことだし、もう帰っても──」
「あ、あの!」
帰宅を促そうとするジンの言葉を遮って、アリアは振り絞るように声を上げた。
途端、シンと静まり返る事務所。この場に居る全員の視線がアリアに集中する。
しまったとアリアは思った。けれど覆水盆に帰らず、誰もが彼女の次の言葉を待つ。
ならばもう、腹を括るしかない。
胸に手を当て一呼吸。それから数秒の沈黙の後、アリアは意を決するように口を開く。
「……多少の行き違いがあったとはいえ、元を辿れば私のせいで恩人であるジン様のお時間を奪ってしまいました。加えて便利屋様にまでご迷惑をお掛けしてしまい……。それなのに誤解だったと言い訳して何もせずに帰るなど無礼の極み、ウエポン家の名に泥を塗る行いです。ですので──」
毅然とした言葉とは裏腹に、そわそわと彷徨うアリアの視線。動揺は明らかだった。
それでも茹でダコのように顔を赤らめながら、少女はたどたどしく口にした。
「返金は不要です。その代わり、実際に私とデートして頂けませんか、ジン様……?」
困っている時に助けられたから、優しくしてもらえたから。
一目惚れだったから、みんなの人気者だったから。
腐れ縁から知らず知らずに想いが実っていた、ということもあるだろう。
人生すら変える劇的なモノから日常の延長線まで、ある程度の共通性はあれど同じものは一つとして存在しない。
その中でも"彼女"の場合は、特に劇的なモノの一つに数えられるだろう。
人生の大半を共にしたボディガードに裏切られ、誘拐の人質として命の危機に瀕し、しかし"彼"によって救われた。
その日から、彼女は自身を救った彼のことを四六時中考えるようになっていた。
裸を見たこと、抱きかかえられたこと、命懸けで銃弾から守ってくれたこと。
やがて想いの火種は炎となり、会えない時間が彼女の気持ちに薪をくべる。
こんな想いは、どうしようもなく初めてで。
だから彼女は、新たにボディガードへ就任した女に相談した。
そして知った。今、自分は恋に落ちているのだと。
そして、それを知り決意した。何がなんでも彼を手に入れてみせるのだと。
さしあたって彼女──アリア・ウエポンは、便利屋アークにメールを送る。
ほんの僅かな、依頼料と共に。
『──って内容の怪文書……もとい依頼文が今朝、便利屋のメールボックスに届いていた。アリア嬢のボディガードを名乗る女の名義でな』
「……待て、待て待て待ってくれ、どういうことだよ一体よォ。てんで意味がわからねェぞ」
通話口で告げられた内容に、ジンは慌てて待ったを掛けた。そして頭痛を堪えるように頭を押さえる。
アリアからデートの依頼があったと社長から報告を受け、どういう事かと問い掛ける前に怪文書──もとい依頼文を聞かされ、それを送ってきたのが彼女の新しいボディーガードという話。
改めて思う、てんで意味が分からない。
「それ、本当にお嬢……アリアのボディガードからの依頼なのか? 悪戯とかじゃなく?」
「俺も、そう思って確認を取ったが間違いなかった。文中にあった通り依頼料も振り込まれている、なら受けない手はないだろう。詳しい話は事務所でしてやるから、とっとと来い」
「あ、おい待っ……切りやがった」
直後、スマコから鳴るプツンという音。
社長は言うだけ言うと、ジンの返答も待たず通話を切った。
途端、流れる静寂。ジンは頬を引き攣らせ、呆然と手中のスマコを見つめる。
結局、状況は何一つ理解できなかった。
「なにやら愉快な単語が漏れ聞こえたが、どんな話だったんだい? 是非、お聞かせ願えないかな?」
そんなジンの正面で、一部始終を眺めていたマーリンが揶揄うように口を開く。その両手には、しっかりと握られたボイスレコーダーと手帳。
知りたがりな情報屋の性か、あるいは好奇心という名の野次馬根性か。
どちらにせよ一つ確かなのは、確実に面白がっているということ。
そんなマーリンの姿に、ジンは呆れ混じりの溜め息を吐いて席を立つ。
「お前さんが思ってるほど愉快なモンじゃねェよ。おマセな子供のお守りを仰せつかっただけだ」
「おや、なんだかんだ言いつつ行くのかい?」
「仕事は仕事だからな。昼飯、あんがとさん」
気になることはゴマンとあるが、それでも貴重な収入源であることに違いはないのだ。それも相手が名家のご令嬢ともなれば拒否する選択肢など無い。
ヒラヒラと手を振るジンはマーリンに背を向けロードバイクに跨がる。
「っし、行くか」
強くペダルを踏み込めば、廻る車輪が前に進み始めた。
※ ※ ※ ※ ※
「──で、こいつは一体どういう状況だい?」
ロードバイクを走らせること十数分。
便利屋に到着したジンは、目の前の光景に困惑を覚えずにはいられなかった。
「いや~ん、なに、この娘! お人形さんみたいで可愛いじゃな~い! おばちゃんキュンキュンしちゃうわぁ~。あ、飴ちゃん食べる?」
ドアを開けるジンの目に飛び込んできたのは、ソファの前で黄色い声を上げる短髪赤髪の女の姿。
背丈はジンとほぼ変わらず、裾の長い灰色のコートを軍人のように着こなしている。
キリリと鋭く尖った目鼻立ちは、宛ら女将官だ。
それだけに、腰を曲げてクネクネと身体を揺らす仕草は中々に奇妙と言わざるを得ない。
また、
「お嬢様、足が痺れてきました。もうそろそろ機嫌を直して下さいお嬢様」
ジンの視線を引いたのは赤髪短髪の女だけではない。
次いで目についたのは、床に正座して何かを訴えているタキシードの女。背丈はジンより頭一つ分ほど低い。斜めに切り揃えた黒い前髪が印象的だ。
正座が辛いのか、女は身体をプルプルと身体を震わせている。
「……」
そして、そんな二人のちょうど間に座る、茹でダコのように顔を赤らめ俯くアリア。
それを居たたまれない眼差しで衝立て越しに眺める社長とノノ。
ジンは、これを混沌と呼称する以外の語彙を持ち合わせていなかった。
「あ、ジンさん! お待ちしていました」
呆然とするジン、そんな彼に真っ先に気付いたのはノノだった。
待ち人が現れたと言わんばかりに、彼女は花が咲くような笑顔を浮かべてジンに呼び掛ける。
途端、集中する事務所中の視線。
中でも特に機敏な反応を示したのは短髪赤髪の女だった。
「おや、アンタが噂のジン坊かい? 話は社長から聞いてるよ、初仕事で大活躍したらしいじゃないかい」
「……お前さんは?」
アリアへの絡みから一転、短髪赤髪の女はジンに詰め寄ると顔を近付ける。
鬱陶しげに顔を引くジンが何者かと訊ねれば、女は胸を叩いて名乗りを上げた。
「アタシはクリス。主婦業の傍ら便利屋に勤めるパートのおばちゃんさ」
そう言って、女──クリスは歯を出して笑顔を浮かべる。
おばちゃんと自称するだけあって、その容姿はお世辞にも若いとは言い難い。
歳は四十代後半頃だろうか、肌の表面には化粧で誤魔化しきれていない小皺が複数確認できる。
それでも目鼻立ちは整っていること、そして一度言葉を交わしただけでも解る竹を割ったような明るさから、若い頃はさぞ人目を惹いたであろうことは想像に容易い。
けれど自己紹介するクリスにジンが思ったのは、容姿とは全く別のことだった。
「クリスってェと、確かアリア救出の時に社長が真っ先に連絡したやつじゃねェか。野郎とばかり思っていたが、女だったのか」
「あはは! よく言われるよ、本名はクリスティーナってんだけどね。でもアタシってクリスティーナって面してなからさ、名前負けして恥ずかしいし縮めて呼んでもらってんの。アンタも気安く呼んでくんな」
「そうかい、なら遠慮なく。よろしく頼むぜ、クリス」
右手を差し出すクリス。握手を求めているのだろう。
ジンも、それに応じて手を握る。
瞬間、
「ほゥ」
触れた手の感触に、ジンは小さく息を溢した。
女性のものとは思えない厚くて硬い皮膚、幾度となくマメが出来ては潰れたと思しきデコボコとした掌。
普通に暮らしていてできるモノではない、少し鍛えている程度でもこうはならない。
例えるならそれは、荒事を常とする者が自然と身に付ける皮の鎧とでも呼ぶべきか。
ジンは瞬時に察する。パートのおばちゃんを自称する目の前の女は、これまで一つ二つでは収まらない修羅場を経験し、それを潜り抜けてきたのだろうと。
アリア救出の際、社長が真っ先に彼女に連絡を寄越すのも納得だった。
一方、
「へぇ……」
深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているように、ジンの手を握り返すクリスもまた、何かを察した様子で片目を瞑った。
その瞳に浮かぶのは感心と興味、そして少しの畏怖。
触れただけで分かる──否、"思い知らされる"。想像も及ばないほどの鍛練と死線の数々、死が身近にある環境で生きてきた者だけが纏う独特な圧を。
自身が感じたものをより理解しようとするかの如く、クリスは彼の手を離そうとしなかった。
その時、
「大変恐縮なのですが、そろそろ此方にも関心を向けては頂けないでしょうか?」
不意にソファの近くから上がる声。
その声は、ひどく震えていた。
「あ、悪い悪い……って、お前さんは?」
「おや、お忘れですかジン様。私は──」
慌てて声の元に視線を向けるジン。
そこには我慢の限界といわんばかりに顔を赤らめる女の姿があった。
女は、ようやく自分の番が回ってきたことに安堵しながら立ち上がろうとする。
しかし、
「あ゛っ」
瞬間、脚全体に迸る度し難い痺れ。正座の影響であることは言うまでもない。
車に轢かれた蛙のような声と共に、うつ伏せに倒れる女の身体。
ビタンッと、乾いた音が事務所に短く響いた。
「………………」
事務所に流れる居たたまれない沈黙。
社長とノノは無言で目を逸らし、ジンは掛ける言葉もなくその様子を眺め、クリスは「あらら」と頬を掻く。
誰も、何も言わない。何も言えない。
そんな沈黙を破ったのは、他ならぬ女自身だった。
「お久しゅう御座いますジン様。私、以前ご主人様のお屋敷にて着付けを担当させて頂きました、元・メイドのメイでございます」
「メンタル鋼か? お前さん」
うつ伏せのままに、もぞりと首を動かしキメ顔で自己紹介する女──メイ。
状況と明らかに見合わない表情と一切の物怖じを感じさせない逞しさに、ジンはドン引きを隠せない。
しかし、メイという名には確かに覚えがあった。
トラーバに案内されたウエポン邸で着付けの手伝いをしてもらったメイドの女、その名で間違いない。
だが果たして、こんな人物だっただろうか。
記憶している彼女と目の前の女の姿に、ジンは疑問と困惑を覚えずにはいられない。
その時、
「誰が、正座を止めて良いと言いましたか?」
「っ!」
ピシャリと、背後のソファから告げられた少女の声。
途端、メイは弾き合う磁石のように床から身体を起こし再び正座する。
その様子を確認した声の主──アリアは、ソファから降りるとスカートの裾を摘まみ恭しくジンに礼をした。
「お見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません。……ですが、それはそれとして再びお会いできて感激です、ジン様」
「お、おゥ……」
ニッコリと微笑みを浮かべるその表情に、ジンが入室した際に見せた茹でダコの面影は無い──否、両耳の先には僅かに赤い熱が残っている。
「突然押し掛けた無礼を謝罪します。ですが、これには理由がありまして──」
かくかくしかじかと、捲し立てるように説明するアリア。
その間、正座するメイの顔色は、みるみる蒼く染まっていった。
※ ※ ※ ※ ※
「──……つまり、儂に礼がしたくてメイに相談したら、その気持ちは恋だ何だのとエクストリーム解釈カマされた挙げ句、有ること無いこと書いたメールを勝手に送られたってェことかい?」
「はい、その通りでございます」
「成る程な、そりゃメイが悪い。お嬢がお冠になるのも納得だ」
うんうんと頷くジンに、アリアは「ご理解いただけて感謝の限りです」と胸を撫で下ろす。
彼女が言う礼とは、誘拐犯から救出されたことで間違いない。
つまるところ今回の依頼は、暴走したメイのありがた迷惑なお節介による不手際、というのがことの顛末だった。
ならばメイが床に正座させられていたのは罰を受けていたのだと理解できる。
「しっかし、そうなると今回の依頼は無効になるわけか」
「え?」
全てはメイの誤解と早とちりが生んだ悲劇。であれば、そもそもデートの依頼など初めから存在しなかったことになる。
くたびれ儲けの骨折り損と小さく呟くジンは、やれやれと肩を竦めた。
しかしメイは、耳敏くもその呟きを聞いて声を漏らす。
そんな少女の声に気付かないジンは社長に問い掛ける。
「おい社長。この場合、依頼料はどうなるんだ?」
「言ってみりゃ手違いで振り込まれた金だ、返金が妥当だな」
「まァそうなるか」
「あ、あのぉ……?」
全ては手違いによるもの、正しくその通りだ。当事者がそう主張したのだから否定のしようもない。
全ては誤解だった、ただそれだけのこと。
そして誤解が解けたなら、話はここでお終いだ。
しかし、
「っつー訳だ、お嬢。無事に誤解も解けたことだし、もう帰っても──」
「あ、あの!」
帰宅を促そうとするジンの言葉を遮って、アリアは振り絞るように声を上げた。
途端、シンと静まり返る事務所。この場に居る全員の視線がアリアに集中する。
しまったとアリアは思った。けれど覆水盆に帰らず、誰もが彼女の次の言葉を待つ。
ならばもう、腹を括るしかない。
胸に手を当て一呼吸。それから数秒の沈黙の後、アリアは意を決するように口を開く。
「……多少の行き違いがあったとはいえ、元を辿れば私のせいで恩人であるジン様のお時間を奪ってしまいました。加えて便利屋様にまでご迷惑をお掛けしてしまい……。それなのに誤解だったと言い訳して何もせずに帰るなど無礼の極み、ウエポン家の名に泥を塗る行いです。ですので──」
毅然とした言葉とは裏腹に、そわそわと彷徨うアリアの視線。動揺は明らかだった。
それでも茹でダコのように顔を赤らめながら、少女はたどたどしく口にした。
「返金は不要です。その代わり、実際に私とデートして頂けませんか、ジン様……?」
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