チキンピラフ

片山春樹

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これはきっと運命の出会い

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そして。
「美樹もそろそろ慣れたろ。日曜日のメンバーに入ってくれないかな・・まだちょっと不安だけど、やればできそうだし」
と、店長に言われたのは、私が高校2年生になってしばらく、いつのまにか桜が散った頃。
「美樹も、もう大丈夫だよ」
と、由佳さんに言われたからだと思う。
「じゃ、日曜。8時間、休憩1時間いれるから。朝9時から夕方の6時まで頼むよ」
うなずこうかどうしようかと迷ってる最中なのに、店長は問答無用な勢いで勤務シフト表に長々と線を引っ張った。あっ・・と言う間もなかった。奈菜江さんも優子さんも美里さんも・・同じ長さの線が引かれてるから・・いつものメンバーなのだけど。
「いつものメンバーが面倒みるから、安心していいよ」
と、言ってくれた由佳さん・・
「でも、それなりの覚悟しといてね」
その一言が本当に笑顔じゃなかったから、かなり恐そうな予感がしたけど、とりあえず。うん・・と返事した。

  家に帰って、土曜日。とりあえず休日。ごろごろしている。どこかに行く用事もないし、誰からも電話はかかってこない。誰かに電話したくても、電話する理由がないのだけど・・。アルバイトを始めてから・・友達とのつきあいが減ったかなぁと思う。そんなことを考えていた夜、あゆみもアルバイトを始めたと電話があった。
「どこで働いてるの?」
と、聞き返すと。
「うん・・駅前でテッシュ配るのよ。ノルマ一日5千個・・でも・・日当7千円。日焼けしちゃってね。制服があって、ちょっとえっちな制服なの。パンツとかがちらっと見えちゃう・・かわいいんだけどね。あまりきわどい下着つけられない」
と、言っていた。
「・・私、長く続けるのって、なんかねぇ。明日まで、3日間だけする事にしたのだけど・・でも、もぉ、真っ黒だよ。お風呂に入るとひりひりしてる」
へぇ~・・そんなバイトもあるんだ。でも・・私にはできそうにないバイトだな・・。
「じゃ・・美樹もがんばってね」
「うん・・」
電話を切って、ふぅぅと、ため息。ゆううつな気分。今の心配ごとの原因は明日。初めての日曜日。
「美樹ももう大丈夫だよ・・」
優子さんも奈菜江さんもそう言っていた。けど、言葉が揺れていたこと私にも解る。そして、
「信じられないくらい忙しくなるから。しっかり休んで、覚悟決めといてね」
それは、かなり深刻な表情で物凄く説得力があった。だから、大丈夫だろうか・・。と不安がおさまらない。
「私たちがフォローするから、安心してよ。そんな顔しないでよ」
と、言ってくれたけど。考えれば考えるほどに、とめどない不安がずしぃーと押し寄せてくる。ごろごろ、ごろごろ。よく休めたようだけど。体はだるい・・・。

  とうとう日曜日。なるようになれ・・な気持ちで出勤したら。鏡を見つめる奈菜江さんが振り向いた。
「美樹、おはよぉ」
「おはようございます・・」
挨拶して。不思議な違和感。今日の奈菜江さんはなぜかスッピン。頬紅は?・・お化粧・・わすれたのかな?・・きょとんと見てると。
「どぉ、スッピンのあたしもかわいい?」
力ない笑顔で訊ねた奈菜江さん。とりあえず。
「・・うん・・」
と、言ってあげると。
「汗かくからねぇ・・・」
不安になる一言。着替えてから休憩室をのぞくと。チーフと店長も深刻な顔してる。
「よっ、美樹おはよぉ」
店長は挨拶してくれたけど。私が挨拶する前に。
「美樹だけが不安なんだ・・。由佳と優子がフォローするけど・・焦って変なミスしないでくれな」
いったい何事が始まるのだろうか・・。休憩室にはいつもの話し声なんて一言もなくて、この、ずしぃーと感じる雰囲気が全然いつもと違う。黙ったままたたずんでいると。
「ハルキは昼からしかこれないし・・。あいつがいないとなぁ・・まぁ、何とか乗り切りますよ」
そうぼやいてるチーフ。
「うそっ・・ハルキ昼からなの・・」
と、目をむいだ由佳さん。
「なんか、用事ができたって・・」
「うそっ・・・」
奈菜江さんまでもが驚いてる・・。ハルキ? あいつがいないと? だれなんだろ。それに、乗り切る?・・。由佳さんと奈菜江さんの驚き方も変だ・・きょろきょろすると、真吾さんも、出勤してきた・・。顔に元気がない・・一緒に来た優子さんも・・どことなく元気がない。けど・・この二人が、腕くんでる。えっ・・? この二人・・と、思って奈菜江さんを見つめると。奈菜江さんは無関心のままでいる。そんな奈菜江さんに。
「表で逢ったんだよ・・家行ったらもう出かけてたろ。化粧する時間の分はやく・・・電話切ってたし」
真吾さんがおろおろした仕草で言い訳している・・少しだけうれしそうな顔をした優子さん・・でも・・すぐに元気のないため息をはいて更衣室に消えた。無関心な奈菜江さん・・無関心なままの真吾さん・・何度もため息をついている。今は、それどころじゃないのだろうか。
「大丈夫ですよね・・・」
由佳さんに聞いたけど・・。由佳さん・・恐い顔でちらっと私を見つめただけだった・・・。私は、なにかとんでもない、選択をしてしまったんじゃないだろうか。歯がかたかたし始めた・・。表に出ると・・。静かに朝食を食べているお客さんが二組。BGMが静かなメロディー、誰も喋らなくて、空気がしぃぃんと張りつめていた。

ぽつりぽつりとお客さんが来始めたのは。みんなが全くの無言でしたごしらえをしている10時半頃。冷蔵庫には、パフェやアイスクリームに盛りつける刻まれた果物があふれている。それに・・スープ・・いつもの10倍くらいの量をチーフがポットに移している。キッチンをのぞくと、オーダーなんて全然入ってないのに、真吾さんと、もう一人始めてみる男の子が黙々と、ハンバーグを焼いている。なぜか、みんなは無言のままだ。だんだん恐くなってきた。そして。
「いらっしゃいませぇヨーコソ・・」
を条件反射で言ってると、どこからこんなに湧いて出てきたのか、だんだん息継ぎができなくなる程にお客さんが入ってきて・・。私が担当する3つのテーブルのオーダーを取っている間に。ざわめきがものすごい音量。それに、店の入り口で待ってるお客さんもいる。店の中は全然知らないうちに、お客さんがあふれていた・・。
「美樹、5番テーブルのドリア・・サラダは出した?」
「美樹、6番テーブルのペスカトーレ・・フォークとスプーンは持って行ってる?」
てきぱきと由佳さんと優子さんが私のオーダーをチェックしてくれて・・。とりあえず、準備はできてるから、安心してテーブルに運ぶけど・・。
「ちょっと、お嬢さん・・こんなモノたのんでないわよ・・」
家族連れのおばさんの一言・・。リズムが突然狂ってしまった。
「えぇ~間違っちゃったの・・どれよ・・どのオーダーなの」
由佳さんが慌てて私のオーダーをチェックしてるまに。
「美樹、7番テーブルのスパ4種・・」
と、カウンターにお料理が出来上がって。
「美樹・・5番のデザート上がってるよ・・・」
と、優子さんの私を呼ぶ声が聞こえて。
「美樹・・6番テーブルのスープは運んだか?」
スープって・・
「美樹・・7番テーブルにタバスコ持っていって」
「美樹・・」
7番テーブルは、タバスコが4つ?
「美樹・・」
5番テーブルのデザートってスパゲティー??
「美樹・・」
もうナニがなんだか全然わからない。
「美樹・・」
パニックを起こしていることはわかっているけど・・。もう、頭の中真っ白だ。美樹・・美樹・・とこだましている声だけしか理解できない。ほかにはなにも考えられない。
「もう・・私がするから・・美樹・・さっきの間違えたテーブル・・確認して」
「美樹・・そんなとこでぼぉっとしてちゃ駄目だよ」
「美樹・・なにしてるの」
「美樹・・5番テーブルにこれ持って行って、あっ違う、6番テーブル」
おろおろ、おろおろ・・全然何が起こっているのかわからない・・。店長の顔つきも血相が変わっている。笑顔のままなのに・・、額に浮き出てる血管。脂汗・・そして・・。
「美樹、なにやってんだよ、そんなとこでつっ立ってるとと邪魔だろ」
と大きく重い店長の声が聞こえたとき・・顔が歪み始めた。
「ったく、邪魔なんだよ・・このぐずっ」
と、言われて・・涙が・・・。
「店長、そんな言い方ひどいでしょ」
優子さんが言い返してくれたけど。
「ひどいもくそもないよ・・ったく、邪魔だって言ってるだろ。どけよ。もぉ」
どたばたしているみんな・・。耳に届く大声。ぐず・・だなんて、そんな怒られ方も生まれて初めてだ。だからといって。
「ったく、泣くんだったら裏に行ってろ。邪魔だって言ってるだろ」
そんな言い方はひどすぎると思う。涙がぽろぽろあふれてしまって・・・肘までしかない袖でごしごし拭いてしまう。それなのに、だれも慰めてくれないし。
「美樹・・もういいから、裏に行ってなさい」
そんな由佳さんまで恐い顔で怒ってるみたい。だから・・涙をごしごし拭きながら、私は裏に逃げたんだ。

休憩室まで、表の雑音が響いてくる。覚悟はしてたと思うのに・・こんなに忙しいなんて・・。それに・・あんなにひどい怒り方なんて、ぐず・・だなんて、絶対ひどすぎる・・。しくしく泣きながら思いついたこと・・。こんなバイトなんて・・辞めてやる。絶対辞めてやる。店長なんか大っ嫌いだ。ぐず・・だなんて、初めてなんだから・・なのに、あんな怒り方なんて絶対ひどすぎる。誰も慰めてくれないし、由佳さんもあんなに恐い顔。だから、もう・・辞めてやる。いいんだ、もう、お金もたまったし。ぶつぶつ考えて・・ぶつぶつつぶやいて、でも・・涙が止まらない。ごしごしと袖で拭いているのに・・全然止まらないよ。むちゃくちゃ悲しい・・。こんなに悲しいのも生まれて初めてだ・・。本当に悲しい・・。鼻水までもが流れだした。手でごしごし拭いてしまう・・そのとき・・。
「おつかれぇーっす。なんだか・・忙しそうだなぁ」
と男の人の声が聞こえて。休憩室の扉ががらっと開いた。うつむいたま開いたドアを見つめていると、ぼろぼろのブーツが目についた、あわてて、もっとうつむいて、泣き顔を隠そうとした。すると。
「あれぇ~・・初めて見る娘だ・・はじめまして」
と、優しいアクセントの声が聞こえた。そぉっと顔をあげてみた・・。涙をごしごし拭きながら・・滲んで見えたのは、じっと私を見つめる優しそうな男の人。その人が、くすっと笑いながらため息をついて、いきなり、ぎゅっと、私のほっぺを両手で固定した。ごわごわと変な感触・・手袋? それに、のけぞりたくなるくらいに顔を近づけて・・。
「どぉした? 店長がなにかひどいこと言ったの? 慰めてあげたいけど・・もっと強くならなきゃ。人生長いんだし・・」
つぶやきながら・・ごわごわした感触の親指で、ほっぺの涙を拭ってくれた・・。きょとん・・と、涙が止まった。
「どぉ、励みになる? この一言」
にこっとした彼・・。真っ黒のジーンズ・・捲れた腕にはヘルメット? が、ぶら下がって・・。腕の半分まである手袋はごちゃごちゃしたロボットの手みたい・・そして、にこっと笑ってる顔がものすごくさわやかな・・。だから、とりあえず、震えるようにうなずいた・・。
「涙は止まりましたか?」
もう一度、震えながらうなずいた・・。震えてる原因は・・その・・目の前の男の人・・こんなに近くで見つめるのは生まれて初めてだから・・。
「美樹ちゃんっていうんだ・・よろしく・・」
そぉっとほっぺから手を放して、手袋のマジックテープ、びりびりとさせながら脱いでいる彼・・。
「かわいいなぁ・・年いくつなの? 彼氏とかいるの? 好きな食べ物は? どこから来てるんだ? ひょっとしてまだ中学生かな? なんて・・ことはいっちゃいけない?」
そんな早口な質問・・頭で整理するのに少しの時間。理解できたのに心にはなにも刺さらなかった。そして、どれから答えようかと思っていると・・
「ヨロシク」
と手を差し出す彼。その手をそぉっと・・無意識に摘んだら・・大きな手がぎゅっと私の手をにぎるから・・言葉に詰まってしまった・・年は・・もうすぐ17才・・と、心の中でつぶやいたのに・・。
「おぉい春樹・・忙しいんだ・・早く入ってくれ・・」
そんなチーフの大声が私の勇気を遮った。
「はいはい・・俺の自己紹介はもういいかな・・よろしく。カタヤマハルキです」
握手していた大きな手が離れてゆく・・男の人の手を握ったのも生まれて初めてだと思う。そのことに気づいてものすごく恥ずかしくなった。そして、もう一度涙を拭ってくれる彼の優しい指先がそのまま髪を透いてる・・それも生まれて初めて。むちゃくちゃ恥ずかしい。そのままほっぺを撫でてくれた優しい指先がなんだかくすぐったい。そのくすぐったさも生まれて初めて。体が硬直してしまった。
「ホント・・かわいいなぁ・・おいしそぉ・・ぷにぷに。やわらかぁ~、綺麗なほっぺだなぁ、笑ってくれるまでぷにぷにしちゃうぞ」
と、ほっぺを摘む指先。生まれて初めて、男の人が私の素肌に触れている・・顔から火が出たような感じ・・。それに・・。かわいい・・おいしそぉ・・ぷにぷに・・何度も回想してしまうシーン、体は動かないし、耳はじんじんしてるし・・。ふるふる震えてしまうし。とりあえず無理やり作った笑顔にほほ笑んで更衣室に消えた、確か。この人がチーフと由佳さんがつぶやいてたハルキさん? どきどきしてる胸を押さえて・・。乱れ始めた呼吸を必死で落ちつかせて・・。じっと更衣室の扉を見つめていると、すぐに、そぉっと更衣室から出てきたハルキさん・・。コックさんの衣装・・。名札には片山春樹・・と書かれてる。その名札、じぃっと見つめてしまった。すると。
「どぉ? 似合う?」
と、笑みを浮かべてる春樹さん・・。私がうなずいたら、くすくす笑っていた。そして、鏡を見つめてる春樹さん・・。無意識な感覚でながめていると、少し上を向いて、鼻の穴を変な顔で覗いてる・・・なんだか変・・だ。ちらっと鏡越しに目があった・・あわてて視線を反らせたけど。鼻の穴を覗いたまま、鏡の中の私に話しかけてくれた春樹さん。
「美樹ちゃん・・勇気を出して、表に出てみなよ。できることをすればいい。テーブルを片づけるとか・・たまった食器を裏に運ぶとか・・こそこそっとやるのがコツだから、目だつと店長・・性格悪いし・・なに言うがわからないから、こそこそっと目だたないようになにかしてみれば」
とりあえず、うなずいてしまった・・。それに・・私の名前・・うつむいて、私の胸の名札を見つめて・・覚えてくれたんだ・・。そぉっと顔をあげて、見つめ直すとまだ鼻毛を抜いている春樹さん・・。そして、むずがゆい顔、鼻をごしごしこすってる・・。なんだかおかしい・・。
「涙の跡はチェックしろよ。とにかく目だたないようにコソコソっとなにかをしてみなよ。少しは自信がつくと思う。美樹ちゃんの任務、お客さんが立ち上がったテーブルを片付けて、スタンバイ出来たら、由香か美里に合図する。できる?」
「はいっ・・」
と返事して。大きくうなずいたら、いつか、どこかで見たことがありそうな、大げさな身ぶりの投げキッス。さわやかなウインク・・。扉の向こうに消えた後の残像・・。思い出す・・鼻毛を抜いてる姿。むずむずしたのかしら、ごしごし鼻をこすってる姿も思い出して・・くすくす笑ってしまった。でも・・手を洗ったのかしら? と、妙なことを思った瞬間・・
「手ぇ洗うの忘れたよ」
戻ってきた春樹さん。テレパシーが通じたのだろうか・・どきっと心臓が跳ねた。手を洗いながら、もう一度、鏡の中の私を見つめた春樹さん。
「美樹ちゃん・・」と私を呼ぶ声に・・
「・・はい・・」とおそるおそる返事したら。
「泣き顔・・似合ってないよ」
振り向いた春樹さん・・くすっと笑った。えっ? と、思ったら、すぐにまた扉の向こうに消えた春樹さん。その、優しい笑顔がまた残像になってる。うつむいた・・呼吸が震えてる・・。顔がじんじんしてる。体の中から経験したことない不思議な気持ちがキュンっと・・だから、深呼吸してみた・・。そぉっと顔をあげてみた・・。すると。
「ほら・・勇気を出してみなよ・・笑いなさい」
まだそこにいた春樹さん・・。その扉から半分だけ覗かせている心配そうな顔・・。私が笑みを取り戻したら、にこっと笑ってくれる。
「かぁわいい」
そうつぶやいてくれた。だから、うなずいて、くすくすと笑い返してみた・・。男の人に「かぁわいい」なんていわれたのも生まれて初めて・・。無茶句茶うれしい。

だから・・。元気を取り戻せたのだと思う。勇気を振り絞ってみた。涙の跡をごしごし拭いて。テンヤワンヤの表に出てみた。お客さんが立ち上がったテーブルを片づけて、スタンバイしたら由香さんに合図。溜まった食器を裏に運んで・・足りないものを裏から運んで・・みんなの邪魔にならないように、言われたとおりにこそこそと。お客さんが立ち上がったらすぐに片づけて美里さんに合図。立ち上がるお客さんを見つけたらすぐにこそこそとテーブルを片付けて、スタンバイして、奈菜江さんに合図。そんな作業をモクモクとこなしていくうちに、慌ただしさがどことなく薄れてゆくのがわかった。冷静な気持ちでみんなを観察できるようになった。みんな、笑顔に余裕ができ始めたみたい。そして、ぽつぽつと空席が目だち始めたのは、3時頃だと思う。時間は全然気にできなかった。そぉっとキッチンを覗いてみた。少ししてから私に気づいた春樹さん。見つめ合うと優しそうな笑顔で返事してくれる。こんなに元気を取り戻せたのはあの笑顔のおかげだと思う。だから、どうしても言いたかった一言。
「ありがとぉ・・」
誰にも聞こえないように、唇だけを動かしながら心の中でつぶやいた声は、春樹さんの耳まで届かなかったと思うけど。
「どういたしまして・・」
大げさに動く唇・・本当にテレパシーが通じた実感。笑顔を傾けてくれて・・。親指をきゅっとたててくれて、手を振ってくれて・・。そのとき。
「美樹・・さっきはひどいこと言ってごめんな・・」
肩を叩かれて、振り向くと店長がいた。そっと手をおろしてうつむいた春樹さん・・一瞬どきっとしたけど・・。私が春樹さんを見つめていたこと、店長は気づいてないようだ。ほっとしてしまった。
「ありがとぉ・・よくがんばってくれて。助かったよ」
私がこそこそとしたこと、見ていてくれたようだ・・。由佳さんも、優子さんも・・奈菜江さんも。
「美樹・・助かったよ。ありがとぉ。美樹って気が利くんだね」
笑顔で私を誉めてくれた。うれしさをもじもじはずかしがってしまった。もう一度、そぉっとキッチンを覗いた・・。春樹さんは、チーフと話していた。なかなか私に気づいてくれない・・でも。
「ほんとうに・・ありがとぉ・・」
それは、もう一度、心の中でそっとつぶやいた言葉。その瞬間、はっと、あわてて気づいたような仕草で私に振り向いた春樹さん。本当にテレパシーが通じてるみたい。くすっと笑って。また手を振ってくれて。でも、不思議な顔してるチーフが振り向く前に私は視線を反らせてみた。

 ランチタイムが過ぎて、そろそろ暇になりだした時、私は春樹さんをものすごく意識しはじめていることに気づいた・・。これって運命なのかもしれない・・彼が赤い糸で結ばれた運命の人? だとしたら・・うししっ。まさかね、なんて全然思わない。ものすごく確かな予感がしている。彼とそんな関係。彼とあんな関係・・。そんなことばかりをずっと考えていることに気づいて、ひとりで自分の想像ににやにやして。
「美樹、レモン切ってくれる?」
由佳さんが言ったとき・・まだ、ぼぉっと春樹さんを見つめていた。理由なんか全然わからない、ただ、どうしても、無意識に見つめてしまう。
「美樹・・どしたの?」
肩を叩かれて、また、春樹さんを見つめていること、すこしだけ恥ずかしく思ってしまった。
「はっ・・はい・・」
あわてた返事をして。振り向くと。
「レモン切ってくれる、ディナータイムの準備・・朝あんなにつくったのに、もうなくなっちゃった」
由佳さんがにこにこしている。よかった・・春樹さんを見つめていたこと・・気づいてないようだ。ほっと落ちついて、渡された包丁・・よく考えると包丁も生まれて初めて持つような・・。でも・・レモン・・どう切るのだろう・・。
「あの・・・」
と、言ったときは、由佳さん、お客さんと話ししていた。だから・・とりあえず、ごしごしと、適当に・・・タッパーに残っているようなレモンの輪切りと同じように。でも・・包丁ってこんなに切れないものなのだろうか・・。悪戦苦闘だな・・どうすれば・・もっとうまく切れるのだろ? 汁ばかりがぐちゃぐちゃと・・。
「ったく・・それじゃレモンの絞りカスだよ・・」
その声、びくっと振り向いたら、春樹さんがお水を汲んでいた・・。
「ったく・・なにしてんだ? 切れないの? 切れない包丁って危ないんだぞ。貸して」
包丁を奪う春樹さんの手が微かに触れて、どきどきし始めた。包丁の刃先に指先を当ててる春樹さん。が、こんなに近くにいる。
「ったく・・・」
ぶつぶつ言いながら、包丁を研いでくれる春樹さん。
「由佳・・切れなくなったら言えって言ったろ、美樹ちゃんけがしたらどうすんだよ」
「えぇ?・・切れなくなってる?」
「なってますよ」
ちらちらと見上げてしまう春樹さん。ずいぶん背が高いな。そぉっと見つめてしまう春樹さん・・結構かっこいいと思うのは、その、真剣な眼差し。
「研いだばかりって、鉄の臭いがつくから、本当は駄目なんだけど・・」
真剣なままぶつぶつ言ってる。水ですすいで、ふきんで拭いて。
「スライスするんだろ?」
たぶん・・と、うなずくと、一瞬目があう・・。けど、どきどきしてしまう。から必死でうつむいてしまう。
「美樹ちゃん?」
本当に、こんな人が彼氏でいてくれたら・・どうか、この人が運命の人でありますように・・なんて・・そんなことを思いついて、もう一度見上げて見つめると、少し恥ずかしい気分。じっと私を見つめている春樹さん。くすっと笑うから。私も・・ぎこちなく・・くすっと・・。
「美樹・・どうかしたか? ぷにぷに」
ぎょっとのけぞってしまった・・。また・・ほっぺを、ぷにぷに・・だなんて・・。
「本当にどうかしたの? 目の焦点が合ってないぞ」
私・・・どうかしてたのだろうか・・。記憶が飛んでいた・・全然、2秒前を思い出せない。
「あの・・その・・」
あわてて言い訳を考えてるけど・・。
「由佳・・スライスするんだろ?」
「うん・・いつも通りに切って」
「はいはい」
どきどきしている。耳がじんじん熱くなってる・・耳に火が着いてる気がする。だけど、そのこと・・どうか春樹さんにはばれませんように・・神様にお祈りしてしまう。私には全然関心がないような仕草でレモンを切る春樹さん。うつむいたまま、レモンを見つめてしまう・・。まるで包丁が吸い込まれるように切れてゆくレモン・・・。
「いいか・・15度位の角度で、すぅぅっと引くように切るの。ほら」
「・・えっ・・」
「かわいいなぁ・・本当に・・どうかしたの? 耳が真っ赤になってますよぉ。はい・・後は自分でする」
ばれてしまったけど・・むちゃくちゃ恥ずかしいけど、それ以上は追求しなかった春樹さん・・。どきどきが治まらない・・。
「ほら・・包丁、持ったことないの? レモン、切ったことないの?」
私の手に包丁を握らせて・・そのまま私の手に手を添えてくれる春樹さん。
「ほら・・こんな感じ・・」
後ろから、そっと抱きしめてくれるような・・背中に感じてしまう体温・・・ひざががたがたしてる・・。体中火照ってる・・こんなに男の人に近づいたのも生まれて初めてだ・・。心臓が爆発しそう・・。
「こんな感じで切るんだよ・・」
耳もとに聞こえるささやき声・・吐息が耳をくすぐってるみたい・・だから、首をすぼめてしまう。それに、すぅぅっと切れるレモン・・。振り向くと、名札が目の前にある・・片山春樹・・何度みつめてもそう書いてある名札。
「わかったか? 簡単だろ」
離れてゆく春樹さん・・。うなずいたけど・・わかったような・・わからないような・・。見つめられたままそぉっと切ると・・。本当に包丁が吸い込まれてゆくように切れたけど・・。
「一つを13枚に切るんだよ・・」
厚みがばらばらなレモンを指さして、春樹さんは笑っていた。とりあえず・・努力はしたと思う。でも・・。厚みがばらばらになるのは・・こんなにドキドキしているからだ、手がこんなに震えているからだ。無意識にもう一つ・・なかなかうまく切れない。だから、もう一つ。そして、思いついたこと。黙ったままじゃ駄目な気がする。なにか一言・・何でもいいから言葉を交わさなきゃ・・そんな気分が押し寄せてる。だから、勇気を振り絞って、そぉっと振り返ろうとすると。
「美樹・・そんなばらばらに切っちゃ駄目だよ・・ったく・・これじゃ、レモンティーにしか入れられないよ。こんなにたくさん切っちまって」
ぎょっ! 背中に感じていた気配は、いつのまにか、ぶつぶつぼやく店長に変わっていた。びっくりした。ちらっと反対の方向に振り返ると、いつのまにかキッチンに戻っていた春樹さん、苦そうに笑っていた。笑い返して・・一言も話せなかったこと、ほっとしたような・・残念だったような。そんな気持ちでうつむいてしまった。
「まぁ・・いいか・・美樹、休憩、まだだったろ? なにか食べておいで」
という店長。そういえば・・休憩があるんだった・・それに・・お店の料理は食べたことがなかった・・。少しだけ楽しみにしていたことを思いだした。安く食べられるんだっけ・・だから。
「・はい・」
と、返事した。でも。
「あの・・」
どう頼んでいいかもわからなかったから、おろおろと振り向くと、
「なに食べる?」
と、聞いてくれる春樹さん・・。戸惑うと、
「チキンピラフなんてどぉ?・・春樹さんの自信作。つくったげようか?」
うなずくと、うれしそうな春樹さん。後ろ姿をじっと見つめて・・。ジュージューいってるフライパンの中、まるでダンスしてるようなご飯と具。器用な手付きをできあがるまでじっと見つめていたら。
「はい、おまたせ」
カウンターにできあがったチキンピラフ・・おいしそぉな匂い。くすっと笑う春樹さんを見つめて・・・あわてて視線を反らせて。
「どのくらいおいしかったか、後で感想文を書くんだぞ」
また・・うなずいてしまった・・。見つめ続けていたことが恥ずかしく思えて・・逃げるように休憩室に隠れた。一人ぼっちの休憩室。もぐもぐ食べて・・味は・・たぶん・・おいしかった・・気がする。どういう訳か胸がいっぱいで・・ただ・・残しちゃ駄目だ・・そんな気持ちだけで、もぐもぐ食べた。とても、おいしい・・かった、と思う。

食べた後。
「おいしい・・かったです・・・」
と、とりあえず・・春樹さんに言った。本当にすてきな笑顔の春樹さんは。
「そぉ・・ありがと」
と、言っただけ。もっと大げさに・・おいしい・・と言えばよかったのだろうか。それから一言もしゃべってくれないから・・少しだけ残念な気持ち。店の中適当に仕事をしていると。ぽつりぽつりとやってくるお客さん。夕方になるとカップルが増え始めるのは日曜日のパターンだと優子さんが言っていた・・。幸せそうな笑顔の恋人達・・うらやましい・・と思ってる自分に気づいた。恋人同士のすてきな笑顔。それが、まるで私と春樹さんが向かい合っているかのようなマボロシが見える・・こんな気持ちも生まれて初めてかなぁ・・。ちらっと春樹さんを見つめてしまう・・冷静になりはじめた気分で・・私・・何を想像してるのだろ? 視線があうとにこっとしてくれる春樹さん・・。笑みを浮かべて返事する。これが・・出逢いというものなのだろうか。こんな気分は本当に生まれて初めてな気分だ。心の底の方からこみ上げてくる気持ちが、どうしても視線を彼に向けてしまう。あの人のことを知りたい・・言葉で表現するとそんな気持ちだと思う。ぶつぶつ考えてしまう。春樹さんって・・どんな人なのだろう・・。優しそうだし・・素敵な雰囲気だし・・。テーブルにつくカップルなお客さんを見つめると、全てが私と春樹さんのように見えるし・・。これって・・予知夢? なんてことを考えていると。
「美樹・・もうあがっていいよ・・6時だし」
と、肩をたたいた店長。慌てて現実世界に戻ってきた私。
「本当に・・今日は本当にひどいこと言ってごめんな。辞めないでくれな。それと・・今日は、よくがんばってくれて、本当にありがとぉ」
本当は優しい人なのかなぁ・・と、思った店長の一言。うなずいて、褒められたことが恥ずかしく思えて、えへへ・・と、笑ってみた。

狭い更衣室で着替えて。店長にもほめられたし、こんなに元気を取り戻せたし。とてもおいしいチキンピラフだったと思うし。だから、春樹さんにだけはお礼を言いたい。それに、私の方から一言も喋っていないし。なにか一言だけでも、口をきいておかないと・・今度逢うまで忘れられてしまいそうな恐さもある。だから、振り絞った勇気で。
「お先に失礼します」
どきどきしながら、キッチンの人達に挨拶に行った。でも、春樹さんは、向こうの方で、キッチンの始めて見る女の子と話ししてた。楽しそうに・・だから、ぷんっとした気持ちで見つめてしまう。立ちすくんでしまう。
「どうかした?」
チーフの声が聞こえて、急に恥ずかしくなって、あわてて、
「失礼します」
逃げ出した。店の中を通るときもきょろきょろキッチンを覗いたのに、おしゃべりに夢中な春樹さん。全然視線があわない。立ち止まってしまう。必死でテレパシーを送ってしまうのに。
「美樹、どうしたの?」
レジにいた由佳さんにそう言われたから、また、あわてて。
「お先に失礼します」
逃げ出してしまった。店を出て、振り返って。残念で悲しい気持ちがあふれている。一言も口をきけなかった。しかたなく自転車の鍵を外して、また、店の中を振り返っても、春樹さんは私に気づいてくれなかった。でも、そこに止まってる大きな真っ黒のオートバイ。透明な曲線にプリントされた、HARUKI・KATAYAMA。その文字を見つけて。こんなのに乗る人なんだ・・。知りたいと思う欲求が一つ満たされた。あの人はこんなオートバイに乗る人なんだ。だから、あんなロボットみたいな手袋、ヘルメット。ふううんと思う。私の自転車の何十倍もありそうなオートバイ。そんなオートバイにプリントされた名前に。
「本当にありがとう」
つぶやいてみた。それは、ようやく声にできた言葉、それに、本人じゃなかったからすんなり言えたんだと思うけど。とにかく、言えたから、ほっとしてしまった。そして、そぉっとその文字を手でなぞってると・・
「美樹ぃ~。なんか食べてく?」
背中からの声に手をすぼめて・・。どきどきした心臓。う・・うん。とうなずきながら振り向いたら、奈菜江さんが不思議そうな顔をしている。だから、必死でなにもなかった振り。

 私の気持ち、誰にもばれることのなかった運命的な日曜日。美里さん、奈菜江さんと一緒にアイスクリームを食べながら、一人で考えた始めたこと。これは、本当に、運命の出逢い・・・なのかもしれない・・。こんなどきどきしてしまう気分は本当に生まれて初めてだ。これって絶対・・。今まで男の子にこんな気分・・感じたことなんてないから、自信を持って思える。初恋なんだ・・と。
「美樹、どうしたのよ? うっとりな顔して?」
「なにかいいことあった?」
「ひとりでにやにやしちゃって・・なんかヘンだよ」
そんな二人の言葉に、つい・・うなずいてしまった。でも、うなずいたことはなんだか恥ずかしく思う。だから、あわてて首をふって、うなずいたことを否定してしまう。不思議そうな顔をしている二人をみつめて、もうすぐ、人生一度きりの17才になるんだ。私にも、そんな夏がくるんだ。そんなことを予感した。ずいぶん陽が延びた夕暮れ時。
「変なの。でも、本当に今日は助かったよ、だから、おごってあげる。なんでも頼んでいいよ」
奈菜江さんの一言が、アイスクリームをもっとおいしくさせてくれた。一口・・冷たい・・火照ってるほっぺにその冷たさが吸い込まれて、なんだか気持ちいい。
「美樹ぃ~・・本当に・・なにかあったの?」
じぃぃっと私を見つめている二人に。空想の世界に浸ってる自分に気づいてあわてて首を振った。二人は、まだ・・私をじぃぃっと観察している。
「ほっぺが赤くなってるよ・・どうしたのよ?」
「美樹って本当にかわいいよねぇ・・」
ほっぺが赤くなった原因。言い訳を思いつく余裕は全然なかった。
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