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第四部 - 一章 龍姫、協力者を募る
一章九節 - お互いにできること
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「っと、全く心当たりがないわけだが……」
一瞬度肝を抜かれたような顔をした青年は、しかし反射的に慣れない手つきで和雅を抱きとった。
「それと、今日は一応休みなんだがな」
そう文句を言うのは、中州第五位の大臣、水月絡柳だ。与羽の登場は、ややこしい事態のはじまり。絡柳は脱力して戸の枠にもたれかかった。そうすると、結っていない長い髪が、彼の顔を半分覆い隠す。だらしないというほどではないが、普段完璧に身だしなみを整えて姿勢をただしている彼にしては珍しい、隙のある姿だ。
「さらにもう一つ、冗談でもそう言うことは言わないでくれ。誰に聞かれて、あらぬうわさが立たないでもない」
「すみませんでした。でも、とびっきりかわいい子を連れて来てあげましたよ!」
小言を並べようとする絡柳に、与羽はニヤリと笑いかけた。
そこでやっと同伴者に気づいたのか、絡柳の視線が背後を指した与羽の親指を追った。最初にどうしても目につく大柄な雷乱を見て、与羽よりも少しだけ背の高い――しかし雷乱の脇に立つと完全に存在感を消されてしまう線の細い女性に焦点を合わせる。
絡柳の表情が少しだけ変わった。
「青金文官……」
そう呟いて、もう一度与羽を見る。
その瞬間には、与羽の言わんとすることを察していた。
「もしかして、彼女を復職させるつもりか?」
「叶恵先輩だけじゃないですよ。何人か集めたので、絡柳先輩にも会って欲しいんです」
与羽はすでに自身の作戦の成功を察して、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「それは悪くない案だとは思うが……」
一方の絡柳は怪訝な顔で姫君と叶恵を見比べた。
「漏日系官吏を説得しなきゃって話なら大丈夫ですよ。アメに声をかけてあるので」
中州国で官吏の人事を司っているのは、漏日大臣を頂点とする漏日系官吏たちだ。与羽はこの計画を思いついた瞬間に、次期漏日大臣となるであろう学問所の同期に相談し、協力を得ていた。
「なるほど」
絡柳は小さくうなずいた。
その腕の中で、幼子が身じろぎしている。石像に支えられているように変化のない絡柳の腕の中に不満を覚えたのだろう。
「かぁ!」
指の短い小さな手が、離れたところに立つ叶恵に向けられた。母親にだっこをせがむ和雅を見て、絡柳は幼児の脇を抱えて叶恵に差し出した。しかし、二人の間には距離がある。仕方なく叶恵はすり足で絡柳に近づいて息子を抱きとった。
「久しぶりだな、青金文官。銀工町で一緒に働いて以来か。あのときは世話になった。あなたが『あの』暁月地司をなだめ続けてくれなかったら、俺は今もまだ銀工町にいたかもしれない」
その隙を見逃さず、絡柳が声をかける。
「ご無沙汰でした。でも、それは買いかぶりすぎと言うものです」
顔を見るのも恐れ多いといった感じで、叶恵はうつむいたままつぶやき、再び雷乱の後ろへ戻っていく。そのあまりに自信なさげな様子に息をついたのは誰だったか。彼女以外の全員が「もっと胸を張れば良いのに」と内心で呟いた。
「それで? お前は俺に何を望む?」
両腕が自由になった絡柳は、長い髪を背に流してから中州の姫君を見た。
「古狐の別宅に関係者を全員集めてあるので、まずはそちらに来ていただければ……。お休み中にお仕事の話で申し訳ありません」
与羽は頭を下げたが、これは仕方のないことだとも思う。絡柳は多忙すぎるのだ。勤務中に他の仕事を差し込む余裕が全くないので、彼と話すためには休日や退勤後の深夜を狙うしかない。
「気にするな。どうせ仕事のことをしていたしな」
整った顔に小さく笑みを浮かべて絡柳は自室を振り返った。彼の体が動くとほのかに墨の匂いが漂ってくる。絡柳の脇から見える室内には、大きな机とそこを埋めて、床にまで溢れた資料や書き物が広がっていた。
部屋の間取りは土間と居室のみで、風呂と便所がないのは叶恵の長屋と変わらない。ただ、外観同様こちらの方が清潔で、広い。
「お片付け、手伝いましょうか?」
「いや、いい。このままにしておく」
絡柳はしぐさで与羽たちを長屋の外に止めると、手早く筆記用具をまとめて、帳面や数冊の本とともに包んだ。
「どんな人を集めたんだ?」
準備を終えた絡柳は、与羽と並んで歩きながら彼女の青くきらめく黒髪を横目で見おろした。
「仕掛け人として辰海とアメを、あとは――」
与羽が名前をあげたのは、さまざまな事情で文官を退いたものの、能力と働く意志を持った人々だ。その中でも、与羽は人事関係の仕事をこなすアメに頼んで、絡柳と面識のある人を探してもらった。彼らがうまく官吏に復帰できれば、さらに多くの人に手を差し伸べるつもりだ。
「よく見つけ出したな」
「アメと辰海が手伝ってくれましたから」
与羽が頼めば、有名文官家の跡取りが二人も動く。彼女はその凄さに気づいているのだろうか。おそらく気づいていないだろう。官吏が彼女の頼みを無償で聞くのは、中州の姫君にとって当たり前のことだから。
「あと、辰海が今日の話が終わったあとに、相談したいことがあるって言っていましたよ。この間話していた貸本屋の件の草案ができたそうです」
しかも、姫君に従う少年は非常に優秀なのだ。
「本当か? たった数日でできるようなことではないだろう」
絡柳でさえ土地や予算などをまとめきれず、奏上するのを控えてきた案件だ。いくら文官筆頭古狐家の血を継ぎ、高等な教育を受けてきた辰海でもできるわけがない。
「事前の草案ですから。でも、私が素人目に読んだ感じは良さそうでした。中州や天駆で学問所を作った時や、他国の政策に似たようなものがあるから参考にしてみたとかなんとか」
「『他国の政策』!」
絡柳は目を見開いた。
「そんな資料が中州にあるなんて聞いたことないぞ」
「そうなんですか?」
古狐家にはあらゆる資料があるが、その「あらゆる」の想定範囲が城主一族の与羽と、当事者である辰海、そして庶民出身の絡柳の間で違うようだ。中州建国から城主一族を支えてきた古狐家は、絡柳が思っていた以上に深く広いことまで知っているのだろう。何百年も様々な国に切れない糸を張って。
伝統的な文官家と一般人から官吏になった絡柳の差はこんなところにもある。たとえ、庶民出身の文官が増えても、何十年何百年も独自の知識と手法を蓄えてきた名門出身の文官にはかなわないのかもしれない。
絡柳はわずかに振り返ると、息子と手を繋いで歩く青金叶恵を盗み見た。できるだけ身ぎれいにしているのだろうが、やつれ、歳の割に老けて、疲労が目立つ。
同年代の文官の中でも賢い方だと思っていたが、夫が病にふせると看病のために官吏の仕事を休みがちになり、徐々に城で顔を見る回数が減っていった。
「絡柳先輩?」
表情はいつも通りだったはずだが、与羽は絡柳の雰囲気がいつもと少し違うことに気付いたらしい。
「気にするな。ちょっと考えごとをしているだけだ」
与羽がそんな答えを望んでいるとは思わなかったが、今はそうごまかすしかない。筆記用具と帳面を包んだ荷物を抱える手に力がこもる。ちょうど城前の広場にたどり着いたので、城を眺めるふりをして与羽から表情を見えなくした。
絡柳は唇をかんだ。今の顔が美青年で通っている涼しげな顔とほど遠いのは分かっている。
「でもですね。私は、庶民の出だからこそできることってたくさんあると思うんですよ」
与羽の独り言のような声が聞こえる。
「もちろん、歴史ある文官家の出身だからできることもあるでしょう。『協力』って言うのか、『住み分け』って言うのか――」
わざとなのか偶然なのか、与羽は視線を正面に向け続けている。
「あうこー!」
「歩こー」
彼らの後ろから、和雅の嬉しそうな声とそれに応える母親の優しい言葉が聞こえた。
一瞬度肝を抜かれたような顔をした青年は、しかし反射的に慣れない手つきで和雅を抱きとった。
「それと、今日は一応休みなんだがな」
そう文句を言うのは、中州第五位の大臣、水月絡柳だ。与羽の登場は、ややこしい事態のはじまり。絡柳は脱力して戸の枠にもたれかかった。そうすると、結っていない長い髪が、彼の顔を半分覆い隠す。だらしないというほどではないが、普段完璧に身だしなみを整えて姿勢をただしている彼にしては珍しい、隙のある姿だ。
「さらにもう一つ、冗談でもそう言うことは言わないでくれ。誰に聞かれて、あらぬうわさが立たないでもない」
「すみませんでした。でも、とびっきりかわいい子を連れて来てあげましたよ!」
小言を並べようとする絡柳に、与羽はニヤリと笑いかけた。
そこでやっと同伴者に気づいたのか、絡柳の視線が背後を指した与羽の親指を追った。最初にどうしても目につく大柄な雷乱を見て、与羽よりも少しだけ背の高い――しかし雷乱の脇に立つと完全に存在感を消されてしまう線の細い女性に焦点を合わせる。
絡柳の表情が少しだけ変わった。
「青金文官……」
そう呟いて、もう一度与羽を見る。
その瞬間には、与羽の言わんとすることを察していた。
「もしかして、彼女を復職させるつもりか?」
「叶恵先輩だけじゃないですよ。何人か集めたので、絡柳先輩にも会って欲しいんです」
与羽はすでに自身の作戦の成功を察して、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「それは悪くない案だとは思うが……」
一方の絡柳は怪訝な顔で姫君と叶恵を見比べた。
「漏日系官吏を説得しなきゃって話なら大丈夫ですよ。アメに声をかけてあるので」
中州国で官吏の人事を司っているのは、漏日大臣を頂点とする漏日系官吏たちだ。与羽はこの計画を思いついた瞬間に、次期漏日大臣となるであろう学問所の同期に相談し、協力を得ていた。
「なるほど」
絡柳は小さくうなずいた。
その腕の中で、幼子が身じろぎしている。石像に支えられているように変化のない絡柳の腕の中に不満を覚えたのだろう。
「かぁ!」
指の短い小さな手が、離れたところに立つ叶恵に向けられた。母親にだっこをせがむ和雅を見て、絡柳は幼児の脇を抱えて叶恵に差し出した。しかし、二人の間には距離がある。仕方なく叶恵はすり足で絡柳に近づいて息子を抱きとった。
「久しぶりだな、青金文官。銀工町で一緒に働いて以来か。あのときは世話になった。あなたが『あの』暁月地司をなだめ続けてくれなかったら、俺は今もまだ銀工町にいたかもしれない」
その隙を見逃さず、絡柳が声をかける。
「ご無沙汰でした。でも、それは買いかぶりすぎと言うものです」
顔を見るのも恐れ多いといった感じで、叶恵はうつむいたままつぶやき、再び雷乱の後ろへ戻っていく。そのあまりに自信なさげな様子に息をついたのは誰だったか。彼女以外の全員が「もっと胸を張れば良いのに」と内心で呟いた。
「それで? お前は俺に何を望む?」
両腕が自由になった絡柳は、長い髪を背に流してから中州の姫君を見た。
「古狐の別宅に関係者を全員集めてあるので、まずはそちらに来ていただければ……。お休み中にお仕事の話で申し訳ありません」
与羽は頭を下げたが、これは仕方のないことだとも思う。絡柳は多忙すぎるのだ。勤務中に他の仕事を差し込む余裕が全くないので、彼と話すためには休日や退勤後の深夜を狙うしかない。
「気にするな。どうせ仕事のことをしていたしな」
整った顔に小さく笑みを浮かべて絡柳は自室を振り返った。彼の体が動くとほのかに墨の匂いが漂ってくる。絡柳の脇から見える室内には、大きな机とそこを埋めて、床にまで溢れた資料や書き物が広がっていた。
部屋の間取りは土間と居室のみで、風呂と便所がないのは叶恵の長屋と変わらない。ただ、外観同様こちらの方が清潔で、広い。
「お片付け、手伝いましょうか?」
「いや、いい。このままにしておく」
絡柳はしぐさで与羽たちを長屋の外に止めると、手早く筆記用具をまとめて、帳面や数冊の本とともに包んだ。
「どんな人を集めたんだ?」
準備を終えた絡柳は、与羽と並んで歩きながら彼女の青くきらめく黒髪を横目で見おろした。
「仕掛け人として辰海とアメを、あとは――」
与羽が名前をあげたのは、さまざまな事情で文官を退いたものの、能力と働く意志を持った人々だ。その中でも、与羽は人事関係の仕事をこなすアメに頼んで、絡柳と面識のある人を探してもらった。彼らがうまく官吏に復帰できれば、さらに多くの人に手を差し伸べるつもりだ。
「よく見つけ出したな」
「アメと辰海が手伝ってくれましたから」
与羽が頼めば、有名文官家の跡取りが二人も動く。彼女はその凄さに気づいているのだろうか。おそらく気づいていないだろう。官吏が彼女の頼みを無償で聞くのは、中州の姫君にとって当たり前のことだから。
「あと、辰海が今日の話が終わったあとに、相談したいことがあるって言っていましたよ。この間話していた貸本屋の件の草案ができたそうです」
しかも、姫君に従う少年は非常に優秀なのだ。
「本当か? たった数日でできるようなことではないだろう」
絡柳でさえ土地や予算などをまとめきれず、奏上するのを控えてきた案件だ。いくら文官筆頭古狐家の血を継ぎ、高等な教育を受けてきた辰海でもできるわけがない。
「事前の草案ですから。でも、私が素人目に読んだ感じは良さそうでした。中州や天駆で学問所を作った時や、他国の政策に似たようなものがあるから参考にしてみたとかなんとか」
「『他国の政策』!」
絡柳は目を見開いた。
「そんな資料が中州にあるなんて聞いたことないぞ」
「そうなんですか?」
古狐家にはあらゆる資料があるが、その「あらゆる」の想定範囲が城主一族の与羽と、当事者である辰海、そして庶民出身の絡柳の間で違うようだ。中州建国から城主一族を支えてきた古狐家は、絡柳が思っていた以上に深く広いことまで知っているのだろう。何百年も様々な国に切れない糸を張って。
伝統的な文官家と一般人から官吏になった絡柳の差はこんなところにもある。たとえ、庶民出身の文官が増えても、何十年何百年も独自の知識と手法を蓄えてきた名門出身の文官にはかなわないのかもしれない。
絡柳はわずかに振り返ると、息子と手を繋いで歩く青金叶恵を盗み見た。できるだけ身ぎれいにしているのだろうが、やつれ、歳の割に老けて、疲労が目立つ。
同年代の文官の中でも賢い方だと思っていたが、夫が病にふせると看病のために官吏の仕事を休みがちになり、徐々に城で顔を見る回数が減っていった。
「絡柳先輩?」
表情はいつも通りだったはずだが、与羽は絡柳の雰囲気がいつもと少し違うことに気付いたらしい。
「気にするな。ちょっと考えごとをしているだけだ」
与羽がそんな答えを望んでいるとは思わなかったが、今はそうごまかすしかない。筆記用具と帳面を包んだ荷物を抱える手に力がこもる。ちょうど城前の広場にたどり着いたので、城を眺めるふりをして与羽から表情を見えなくした。
絡柳は唇をかんだ。今の顔が美青年で通っている涼しげな顔とほど遠いのは分かっている。
「でもですね。私は、庶民の出だからこそできることってたくさんあると思うんですよ」
与羽の独り言のような声が聞こえる。
「もちろん、歴史ある文官家の出身だからできることもあるでしょう。『協力』って言うのか、『住み分け』って言うのか――」
わざとなのか偶然なのか、与羽は視線を正面に向け続けている。
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