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  外伝 - 第六章 炎狐と龍姫

六章十四節 - 強さの秘訣

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「お前みたいな弱いやつに、与羽ようは守れないよ」

 冷たい言葉に、鼻の奥が痛くなった。その通りかもしれない。しかし、そんなにはっきり言わなくても良いではないか。

「これから、……強くなります」

 辰海たつみは必死に涙をこらえながら、声を絞り出した。

「強く……」

 しかし、強くなりたいと思えば思うほど、目頭が熱くなるのだ。今の自分がどれほど弱いか、現実を感じてしまうから。辰海は大斗だいとに涙を見せたくなくて、両腕で目元を覆い隠した。

「お前は弱いよ。腕っぷしも弱けりゃ、心も弱い。与羽の負担にしかならない」

 辰海は言い返せなかった。辰海のあごと胸は、大斗の全体重がかかっているのではないかと思えるほど強く抑え込まれている。嗚咽おえつをこらえるので精一杯で、声を発する余裕などなかった。

古狐ふるぎつねの跡取りがこんな奴だなんて許せないな。与羽が――」

 大斗はそこで言葉を切ったが、辰海を押さえる力加減の変化でわかる。彼が辰海に対して心から怒りを感じていると。与羽のために本気で怒っていると。大斗にとっても、与羽は本当に本当に大切な存在なのだ。

 辰海は石垣から落ちた与羽に駆け寄る大斗の顔を思い出した。ふとした拍子に涙を落としそうな、我を忘れて叫び出しそうな、年相応の少年の顔をしていた。

「与羽にもしものことがあったら、俺は、お前を、絶対に許さない」

 きっと今も、自分が官吏であることも、九鬼くきの人間であることも忘れているのだろう。そんな生々しく、恐ろしい声色だった。与羽のためならば、己の立場など捨てて行動を起こす気でいる。そして、その覚悟は辰海も同じはずだ。

「僕だって……」

 辰海は声を絞り出した。

「これからは、僕が与羽を守るんだ」

 自分に言い聞かせるように。

「絶対に」

 涙をこらえるために強く閉じたまぶたの裏に、大好きな少女の顔が見える。笑っていたり、心配そうにしていたり、悲しそうにしていたり――。表情豊かで、やさしくて、ちょっといたずら好きな与羽。

「僕が、与羽を――」

「本気で与羽を守る気なら、そうやってうじうじしてないでとっとと強くなったら? 今この瞬間にもできることはあると思うけど」

 彼は何を言っているのだろうと、辰海は一瞬考えた。

 剣術や体術を一朝一夕で磨くことは不可能だ。しかし、考え方や心構えならば辰海の意思次第で今すぐ変えられる。大斗が言っているのは、そういうことかもしれない。辰海は不安だから、怖いからと言い訳を並べ、目指すべき理想の実現をためらい続けている。大斗はそれが気に入らないのだ。辰海が改めなければならない部分。逃げずに、立ち向かわねば。

「……すみません」

 辰海はつぶやいて息を吸った。大斗に踏みつけられたままの胸で深呼吸するのは苦しかったが、それでもできる限り息をして自分の心を落ち着けた。

「与羽に会いに行きたいので、放していただけませんか?」

 まだ涙目だったが、辰海は大斗を見て依頼した。与羽を守りたいのなら、与羽のそばに。まずは、ちゃんと与羽と話すところから。

「俺がどけてやると思う?」

 しかし、大斗に辰海を解放する気はないようだ。その口元には、辰海の変化を楽しむような淡い笑みが浮かんでいる。辰海を試しているのかもしれない。高慢な態度に少し腹が立った。

「どけてください」

 辰海は両手で大斗の足首をつかんだ。しかし、重い大斗の体はぴくりともしない。経験を積んだ中級武官の拘束を、十二歳の少年が解くのは難しい。
 知恵を絞らなければ。大斗に対抗できる部分があるとすれば、きっとそれだ。

 辰海にのしかかる大斗は、自分の体重で辰海を押さえつけている。単純だが、体格と筋力が劣る相手には非常に有効だ。身をよじってももがいても抜け出せない。

「……」

 しかし、少し体を動かしたことで気づいた。大斗は辰海の胸を右足で踏みつけた状態でしゃがみ込んでいる。手を伸ばせば、大斗の股間に届くのではないか。
 金的への攻撃。きっと軽く叩くだけでも効果があるだろう。この状態から抜け出せるかもしれない。しかし、それは許されることなのだろうか? 辰海は考えた。

 急所への不意打ちは、試合や稽古けいこなら指導を受けること間違いなしだ。しかし、この場にいるのは辰海と大斗のみ。

 ――やってみる価値はある。

 辰海は脳内でそう結論づけると、大斗の体勢を確認して、素早く拳を振った。しかし、そこに大斗の体はない。辰海の攻撃が当たる直前に、大斗が勢いよく横に転がったのだ。

「視線でバレバレだよ。体の緊張と筋肉の動きも隠せてない」

 ため息交じりの声が聞こえたが、辰海の目的は大斗を殴ることではなく、自由を得ること。それが達成できるのならば、過程はさほど重要ではない。辰海は肋骨が軋むのを感じながらも、なんとか立ち上がった。

「でも、意外だったかな」

 大斗もすでに立ち上がり、額の汗を乱暴に拭っている。その表情には驚きと焦りの余韻が見えた。彼の言葉通り、辰海が金的を狙ってくるなど全く想定していなかったようだ。

「みんな僕のことをまじめと言いますが、僕だって必要があれば卑怯な手でもなんでも使います」

 大斗に気圧されないように、辰海はめいいっぱい釣り目を鋭くして大斗を睨み上げた。

「覚えておくよ」

 いつの間にか、彼の口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。

「話したいことがそれで終わりなら、とっとと与羽のところに行ったら?」

 しかし、大斗の笑みはすぐに消えた。辰海への興味を失ったようにやぐらを登るはしごに手をかけている。

「そうします」

 大斗に返答する辰海の声は尖っていた。大斗の態度はあまりにも不愉快だ。挑発的で攻撃的。筆頭武官家の跡取りがこんなので良いのだろうかと思うと同時に、少しだけ安心した。大斗がこんなに自分勝手でわがままでも許されているのだ。辰海ももっと自由に生きられる。

「与羽を突き放した僕が言う言葉ではないとわかっていますが、与羽の力になってくださってありがとうございました」

 はしごを上る大斗の背に、辰海は言った。事前に用意していた言葉よりは短くなってしまったが、とりあえず一番伝えたかったことは口にできたので、良しとしよう。

「…………」

 大斗は眉間にしわを寄せて、物言いたげな顔で振り返ったものの、結局なにも言わずに櫓の上まで登り切った。

「それでは、僕はこれで」

 毅然きぜんとした態度を心がけつつも、辰海は丁寧に頭を下げると城へときびすを返した。大斗からの挑発や奇襲を警戒したが何もない。辰海が与羽に危害を加えることはないと判断したようだ。
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