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  外伝 - 第四章 文官登用試験

四章七節 - 夏の化身

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辰海たつみ!」

 アメが言い淀んでいる隙に、与羽ようはどんどん進んでいく。空き部屋をいくつか通り過ぎて、辰海の部屋の前へ。

「辰海、入るよ」

 与羽は入室の許可を得る前に、アメが閉め切った部屋の戸を力強く開いた。アメの位置から辰海の声は聞こえない。わかったのは、与羽が満面の笑みでその部屋に飛び込んだことだけ。

 一方の与羽には、突然差し込んだ夏の日差しに目を細める辰海が見えた。

「何?」
「辰海!」

 辰海が低い声で言うのと、与羽が明るく呼ぶのがほとんど同時だった。

 与羽が勢いよく辰海の前に座ると、彼女のまとっていた夏の空気が熱い風になって辰海に吹き付ける。息苦しくなる湿気と、緑の匂い。少しでも暑さをしのぐためにむき出しにした、良く日に焼けた腕。同じ目線の高さに入り込んでくる、大きな青紫色の瞳。まぶしい夏日の庭園を背景に座る彼女は、夏の化身のように見えた。

「辰海」

 与羽はとがった犬歯を見せて、にっこり笑っていた。

「四次試験一位通過おめでとう!」

 明るい声での賞賛。

 そういえば、夏は好きな季節だった。緑色が鮮やかで、虫の息づかいを感じられて、世界全体が生命に満ち溢れているから。脳内を埋め尽くす夏の記憶と目の前の眩しい笑顔に、辰海のほほは自然と緩んでいた。そうすると、自分の吐く息さえも熱をもって、夏の息吹の一つのように感じられる。

 しかし、ダメなのだ。辰海ははっとして、表情を引き締めた。

「当たり前のことだよ」

 できるだけ冷たく聞こえるように答える。

「当たり前のことを当たり前にがんばれるって、すごいことじゃん」

 それでも、与羽のまとう熱は消えない。自分のことのように喜んでいる与羽を見ると、心が乱れた。嬉しいような。いらだたしいような。この結果に一番感動して、安心しているのは辰海であるはずなのに、目の前の与羽は辰海以上に大きな感情を見せている。

「……与羽」

 久しぶりに本人の前でその名前を呼んだ気がする。

「僕の邪魔をしないで」

「こういう日くらいハメ外して喜んで、遊んでもいいじゃん。ほら、アメたちと一緒にさ」

 与羽はアメがいるであろう方向を腕全体で指した。

 五次試験の面談は、辰海の家柄ならば合格確実。六次試験は官吏見習いとしての実務なので、辰海の文官登用試験は四次試験を通過した時点で終わったようなもの。しかし――。

「遠慮しておく」

 反射的にそんな言葉が辰海の薄い唇から飛び出した。

「なんで?」

「そういう気分じゃないから」

 今まで何度となく繰り返してきた答え。与羽はアメと同じように怒るだろうか。辰海が冷めた視線を送る前で、与羽の表情はめまぐるしく変わった。悲しそうな顔をしたと思ったら、怒りを見せ、呆れたように息をつこうとして、結局笑顔に戻る。

「それなら、しかたない、か」

 残念そうに、少し寂しさの見える笑顔で与羽は納得を示した。ゆっくりと立ち上がり、退室の意志まで見せている。

「まぁ、さ。辰海。繰り返しになるけど、四次試験一位通過おめでとう。あんたは当たり前のことって言うけど、私は今までいっぱい勉強して努力した結果だと思う。本当に、すごいと思う」

 辰海が口をはさむ間もなく言い切って、与羽は退室していった。「じゃ」と言う短い別れの言葉だけを残して。

 突然やってきて、言いたいことだけ言って、すぐに帰っていく。強い風が吹き抜けたような衝撃だった。しかし、彼女の言葉にアメのような不満は一切なく――。

 ――なんだろう。

 与羽は辰海を褒める言葉しか言わなかった。にもかかわらず、アメと話した時以上に神経がいら立っている。感情を乱す熱い塊に、辰海は自分の胸を押さえた。ひたひたと与羽の素足の足音が遠のいていく。騒々しい、でも、元気な気配。

「やめてよ」

 辰海はほほをなでるぬるい風につぶやいた。与羽は部屋の戸を少し開けた状態でいなくなったようだ。辰海が暑くないように。辰海が大好きだった風景が見えるように。
 顔をあげれば、頭痛を覚えるほど強烈な夏の日差しに照らされた庭園がある。光の帯があたりを白くかすませ、その中で桜の若木が緑の葉をめいいっぱい伸ばしている。辰海が生まれた時に植えられた、山桜の木だ。それが一番よく見えるから、かつての辰海はこの場所を自分の定位置にしたのだった。顔をあげれば、すぐに好きな風景が目に飛び込んでくるように。辰海はすっかり忘れていたが、与羽はそれを覚えていて、戸を開けたまま行ったのだろう。

「あぁ」

 小さく漏れた吐息は、感嘆にも絶望にも思えた。とてもきれいだ。

 どれだけ与羽を敵視しても、与羽はずっと辰海の味方でいてくれる。与羽に感謝するべきなのはわかっている。しかし、心がそれを許さない。与羽を憎めと大声で叫ぶ。

 ――救いようがない。

 自分に非があると知っていても、改められない。ふと浮かんだ諦めの感情に、乱れた心が落ち着くのを感じた。

 ――本当に、救いようがない。

「僕は、いい官吏にはなれないよ」

 虚空につぶやいた辰海のほほを、熱いしずくが伝った。
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