上 下
142 / 201
  外伝 - 第四章 文官登用試験

四章六節 - 挑発

しおりを挟む
「…………。そう……」

 辰海たつみの返答までは間があった。

「君は僕より上に行けると。そう思ってるんだ?」

 彼の声にはわずかな敵意が感じられる。アメの発言は彼の矜持プライドを傷つけたらしい。

「今の辰海が相手ならね。理由はもう何度も言ったから、わかってると思うけど」

 官吏の世界は甘くない。最近の辰海の態度は官吏に適していない。

「でも、今ならまだ首席を目指せると思う。五次試験はまだ始まっていないから。でも、君次第だ。一応言っておくけど、僕は君ために手加減するなんてことはしないよ。僕だって、家のためにも、ラメのためにも、自分のためにも、全力で上を目指してる」

 そろそろ辰海との話も終わりだろうか。アメは、深くうつむく学友を眺めながら思った。言いたいことはすべて言った。辰海のためを思って、本音で説得したが少しでも彼の助けになれただろうか。できることならば、もっと明るく話したかったが……。

「辰海……。大丈夫?」

 アメは表情を見せない親友の名を呼んだ。

「いや……。少し、考えたい」

 ちらりをアメを見上げた辰海の目は、激しい感情のせいでうるんでいた。

「五次試験まではあまり時間がない。早く答えを出した方がいいよ」

「うん」

 辰海のまとう空気は陰鬱いんうつだ。

与羽ようは僕よりももっと辰海の心配をしてるんじゃないかな。君には君の気持ちや矜持きょうじがあるんだろうけど、それが上を目指す障害になっているなら捨てたほうがいいと思う。上に行くよりも、自分の感情が大切って言うならそれでもいいけど」

「…………」

 辰海は答えない。

 アメは気性が穏やかで、誰とでもうまく付き合えるのが長所だ。この場は、「一緒に良い官吏になろう」と笑顔で言って別れるべきなのだろう。しかし、辰海の態度には、さすがのアメでも腹が立つ。怒った様子で友人を追い出す時もあれば、不安いっぱいの弱々しい姿を見せる時もある。助けようと助言をしても、「心が」「気持ちが」と言い訳をして改めない。辰海は与羽のことを「優柔不断で甘えてばかり」と評価していたが、今の辰海はそれ以上に優柔不断で、自分を変える勇気が持てず、甘えたことばかり言っている。

「官吏としてがんばる気なら、今すぐにでも与羽と和解するべきだ」

 少し迷ったものの、アメは自分の気持ちを吐露とろすることにした。昔の尊敬していた辰海に戻って欲しかった。

「…………」

 しかし、辰海の言葉はない。彼の態度や表情からは、穏やかで良く笑っていたかつての面影がほとんど消え失せていた。鋭く尖っていて、誰も寄せ付けないようにしている。

「君の態度は良くわかったよ」

 もしかすると、アメが知る昔の辰海は消えつつあるのかもしれない。彼は全く違う人間になろうとしているのかも。そして、辰海自身がそれを望んでいるのなら――。

 アメは立ち上がった。

「今年の首席は、僕がもらっていくから」

 厳しい声で捨て台詞を吐いて、辰海の部屋を出た。これで辰海が自己を改められないなら、それまでだ。

「はぁ」

 怒り任せに戸を閉めたところで、アメの口から大きなため息が漏れた。
 夏の強い日差しに照らされた庭園がまぶしい。いたるところから聞こえるセミの鳴き声は力強くて、耳に残る。先ほどまでの重苦しさが幻だったのではないかと思うほど、外の世界は生気に満ちて明るかった。

 ――与羽にもお礼を言いに行かなきゃ。

 明るい世界にそう思うと、気持ちが少しずつ楽になった。アメは眩しさにくらみそうな目をゆるく閉じた。

 与羽の部屋は同じむねを少し戻ったところ。体の向きを変え、外庭よりいくぶん暗い回廊かいろうに目を馴らそうとまばたきし――。

「アメ……」

 小さく自分の名を呼ぶ声に、アメはまだよく見えない目を細めた。のきの影に宝石のように輝く黒髪が見える。

「四次試験通過、おめでとう」

 与羽だ。自分の部屋から顔を出し、笑っている。しかし、その笑顔は控えめで、不安な様子がぬぐえなかった。アメが辰海の部屋から出てきた点が気になるらしい。

「与羽、君にも試験のお礼言わなきゃって思ってたんだ」

 彼女を安心させるために笑顔を浮かべて、アメは与羽に歩み寄った。

「辰海と話しとったん?」

 小さな声で問いかける与羽の表情やしぐさには、緊張の余韻よいんが見えた。アメが辰海と話している間、息を殺して様子をうかがっていたのだろう。

「あ、聞こえちゃった?」

 アメはわざと明るい声を出した。

「ううん……」

「ならよかった」

「……けんかしたん?」

「そういうわけじゃないけど……」

 変わらず不安そうな表情を浮かべる与羽にどう返答するべきか、アメは笑顔のまま少し考えた。

「辰海は一生懸命ながんばり屋さんだから、あんまりいじめんで欲しい」

 アメが答えを見つける前に、与羽が言う。

「それは、わかってるよ」

 与羽は本当に思いやり深い少女だ。誰よりも辰海に拒絶されているにもかかわらず、誰よりも辰海を心配して気遣っている。

 ――でも、だからこそ。

 そのやさしさが、辰海の矜持を傷つけているのかもしれない。

「難しいね」

「?」

 与羽はアメの言葉の意図がつかめずに、首をかしげている。

 ――複雑な悩みなんかなくなって、みんな素直に生きられればいいのに。

 そう思っても、世界は何も変わらない。

「ごめん、こっちの話。これから、ラメのところに行くんだけど、与羽も一緒に来ない? 四次試験を手伝ってくれたお礼に、甘いものとか何かおごるよ」

「いや……。私、辰海にも試験通過おめでとうって言いたくて……」

 与羽の声は彼女らしくないほど小さくて、もごもごと聞き取りにくかった。辰海に声をかける勇気が湧かず、長い間自室で悶々もんもんとしていたのだろう。そして、悩む与羽よりも先にアメが辰海の部屋に入ったので、その様子をうかがっていた。

「いっておいでって言いたいけど。ごめん。今の辰海は僕のせいで機嫌が悪いかも」

「やっぱりけんかしたんじゃん」

 与羽は少し機嫌を損ねたようだった。眉間に小さくしわを寄せ、唇を尖らせてアメを見ている。

「……ごめんなさい」

 アメは素直に謝罪することにした。それで与羽の機嫌が直ることはないだろうが。

「私、おめでとうって言ってくる」

 しかし、アメの言動の何かが与羽の心を動かしたらしい。

「待って」

 心配顔をアメに対する怒りの表情に変えて歩き出そうとする与羽を、アメは慌てて止めた。

「辰海の態度が気に入らんのは私もだけど、試験を一位で通過した実力と努力はちゃんと褒めるべきだと思う。アメさ、試験のお礼を言いに来たって言ったよね? それなのにけんかするのは良くないと思う」

「う……」

 確かに与羽の言う通りかもしれない。辰海の態度が少し軟化していたからと、言いたいことを自分勝手に吐きつけてしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異世界でのんびり暮らしてみることにしました

松石 愛弓
ファンタジー
アラサーの社畜OL 湊 瑠香(みなと るか)は、過労で倒れている時に、露店で買った怪しげな花に導かれ異世界に。忙しく辛かった過去を忘れ、異世界でのんびり楽しく暮らしてみることに。優しい人々や可愛い生物との出会い、不思議な植物、コメディ風に突っ込んだり突っ込まれたり。徐々にコメディ路線になっていく予定です。お話の展開など納得のいかないところがあるかもしれませんが、書くことが未熟者の作者ゆえ見逃していただけると助かります。他サイトにも投稿しています。

スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活

昼寝部
ファンタジー
 この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。  しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。  そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。  しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。  そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。  これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

(完結)異世界再生!ポイントゲットで楽々でした

あかる
ファンタジー
事故で死んでしまったら、神様に滅びかけた世界の再生を頼まれました。精霊と、神様っぽくない神様と、頑張ります。 何年も前に書いた物の書き直し…というか、設定だけ使って書いているので、以前の物とは別物です。これでファンタジー大賞に応募しようかなと。 ほんのり恋愛風味(かなり後に)です。

迷子のあやかし案内人 〜京都先斗町の猫神様〜

紫音@キャラ文芸大賞参加中!
キャラ文芸
【キャラ文芸大賞に参加中です。投票よろしくお願いします!】 やさしい神様とおいしいごはん。ほっこりご当地ファンタジー。 *あらすじ*  人には見えない『あやかし』の姿が見える女子高生・桜はある日、道端で泣いているあやかしの子どもを見つける。 「”ねこがみさま”のところへ行きたいんだ……」  どうやら迷子らしい。桜は道案内を引き受けたものの、”猫神様”の居場所はわからない。  迷いに迷った末に彼女たちが辿り着いたのは、京都先斗町の奥にある不思議なお店(?)だった。  そこにいたのは、美しい青年の姿をした猫の神様。  彼は現世(うつしよ)に迷い込んだあやかしを幽世(かくりよ)へ送り帰す案内人である。

リリゼットの学園生活 〜 聖魔法?我が家では誰でも使えますよ?

あくの
ファンタジー
 15になって領地の修道院から王立ディアーヌ学園、通称『学園』に通うことになったリリゼット。 加護細工の家系のドルバック伯爵家の娘として他家の令嬢達と交流開始するも世間知らずのリリゼットは令嬢との会話についていけない。 また姉と婚約者の破天荒な行動からリリゼットも同じなのかと学園の男子生徒が近寄ってくる。 長女気質のダンテス公爵家の長女リーゼはそんなリリゼットの危うさを危惧しており…。 リリゼットは楽しい学園生活を全うできるのか?!

惣菜パン無双 〜固いパンしかない異世界で美味しいパンを作りたい〜

甲殻類パエリア
ファンタジー
 どこにでもいる普通のサラリーマンだった深海玲司は仕事帰りに雷に打たれて命を落とし、異世界に転生してしまう。  秀でた能力もなく前世と同じ平凡な男、「レイ」としてのんびり生きるつもりが、彼には一つだけ我慢ならないことがあった。  ——パンである。  異世界のパンは固くて味気のない、スープに浸さなければ食べられないものばかりで、それを主食として食べなければならない生活にうんざりしていた。  というのも、レイの前世は平凡ながら無類のパン好きだったのである。パン好きと言っても高級なパンを買って食べるわけではなく、さまざまな「菓子パン」や「惣菜パン」を自ら作り上げ、一人ひっそりとそれを食べることが至上の喜びだったのである。  そんな前世を持つレイが固くて味気ないパンしかない世界に耐えられるはずもなく、美味しいパンを求めて生まれ育った村から旅立つことに——。

金の羊亭へようこそ! 〝元〟聖女様の宿屋経営物語

紗々置 遼嘉
ファンタジー
アルシャインは真面目な聖女だった。 しかし、神聖力が枯渇して〝偽聖女〟と罵られて国を追い出された。 郊外に館を貰ったアルシャインは、護衛騎士を付けられた。  そして、そこが酒場兼宿屋だと分かると、復活させようと決意した。 そこには戦争孤児もいて、アルシャインはその子達を養うと決める。 アルシャインの食事処兼、宿屋経営の夢がどんどん形になっていく。 そして、孤児達の成長と日常、たまに恋愛がある物語である。

深淵に眠る十字架 The second

ルカ(聖夜月ルカ)
ファンタジー
皆の力と智恵により、ようやく宝石の中に封じ込められたルシファーだったが、奴は諦めてはいなかった。 ちょっとした偶然から、ルシファーはついに復活を遂げ、リュタン達への復讐が始まる。 ※「深淵に眠る十字架」の続編です。 ぜひ本編の方からお読みください。 こちらはコラボではありません。 ※表紙画像はシンカワメグム様に描いていただきました。

処理中です...