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  外伝 - 第三章 龍姫と賢帝の雛

三章七節 - 謝罪と感謝

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 古狐ふるぎつね本家東殿の東端。辰海たつみにあてられた部屋は、初夏の暑さを和らげるために戸が開けられ、淡く墨の匂いが漂っていた。彼は本当に熱心だと思う。

「辰海」

 彼の邪魔はしたくないが、必要なことだ。与羽ようは遠慮がちに縁側から辰海の勉強部屋を覗き込んだ。部屋の半分は板敷きの書庫。もう半分は畳の書斎しょさい。勉強部屋と表現するには立派すぎる空間で大きな一枚板の机の前に座っていた辰海は、与羽の声に顔を上げた。よほど集中していたようで、ぼんやりと与羽の顔を見たあと、ゆっくりと自分に話しかけてきた相手と状況を理解したようだった。

「なに?」

 彼の眉間にしわが寄ると同時に、冷たい声が薄い唇から漏れる。

「私、辰海に謝らんといけんことがあったと思って」

 与羽は唾液を飲み込んで、辰海の書斎に踏み込んだ。大きな机の向かい側に座って、視線を落とす。机に置かれているのは、中州国の出納帳のようだった。辰海の手元にある紙には複雑な計算式が書き込まれ、そろばんには八桁の大きな数字が入力されている。

「そんなこと、聞いてる暇ない」

「けど、私は話したいし、話さんとって思うんじゃ……」

 与羽は辰海の手がそろばんに伸びるのを見ながらつぶやいた。

「辰海が私に言ったこと、全部正しいと思う。辰海はいつだって正しい」

 白い手が慣れた手つきでそろばんの数値をゼロに戻す。上段の玉を動かす音が、ビッと気持ちよく響いた。

「私は辰海に頼りすぎとった。辰海なら何でもしてくれるって思いこんで、わがままばっかり言ってしもうた……」

 辰海はぱちぱちとそろばんの玉をはじいて、新たな計算をはじめている。

「だから、それは、本当にごめん。辰海の親切心に付け込んで、勝手ばっかりした。本当に、ごめんなさい……。あと、不満でいっぱいだったろうに、何年も私を助けてくれて、本当にありがとう。心から感謝しとる」

 辰海の手は止まらない。彼の顔はひたすらにそろばんと自分の書いた式を見比べ、間違いないように計算し続けている。しかし、その手の動きはゆっくりだ。与羽は彼が自分の言葉を聞いてくれていると確信した。

「辰海からしたら、私は無知で未熟かもしれんけど、これからは私も辰海の力になりたい。今まで助けてもらった分、いや、それ以上に私からも辰海を助けたい。だから――」

 また昔みたいに仲良くして欲しい。そう言いかけて、与羽は口を閉じた。それは与羽から言って良い言葉なのだろうか。

「だから……」

 より辰海の利になる言葉を考えた。

「だから……」

 しかし、浮かんでくるのは自分に都合の良い言葉ばかりだ。

「話し終わったのなら出ていって」

 辰海の厳しい声。

「でも」

 与羽は一生懸命首を横に振った。

「私は、辰海と話し合いたい。だって、突然一方的に縁を切ってくるとか卑怯じゃん」

「突然じゃないよ。小さな積み重ねだって、君も理解したんでしょ?」

「早く言ってくれれば、改善できた。今だって辰海を頼らんで済むようにがんばっとる。あんたの不満は、少しずつ改善されてきたと思う」

 少なくとも、この数ヶ月は辰海とほとんどかかわりを持つことなく生活できた。ここに辰海のためになる行動を加えれば、問題ないはずだ。

「僕にとっては、全然改善されてないよ。君がいるだけで、集中が乱れる」

「それは……、ごめん」

 与羽の存在そのものが、辰海に怒りを抱かせる原因になっているのだろうか。

「それなら、私はどうしたらいいん? 一緒に暮らして、お兄ちゃんみたいだったのに、他人になって避け合うとか、寂しすぎるじゃん……」

「それは、君だけの感想だよ。僕は、何も困らないし、寂しいとも思わない」

 辰海の吊り上がった目が与羽を見る。怒りをはらんだ威圧するような目つきだった。

「そう……」

 話し合って解決策を見つけたいのに、難しい。与羽が歩み寄ろうとしても、どんな条件を付けても、辰海は拒絶する。

「私がいなくなって、辰海が楽しくて幸せそうなら良い。けど、最近の辰海はずっと不機嫌で、つらそうじゃん……。だから、何とかしてあげたいって思って……」

「余計なお世話だよ」

 辰海の怒気が増す。

「余計でもお世話したい。辰海の力になりたいんだって!」

 与羽の声も次第に大きくなっていった。

「君には無理なんだよ! 人の気も知らないで!」

 バンと辰海の手が机をたたいた。その拍子にそろばんが動き、数値が乱れる。

「チッ」

 辰海は大きな舌打ちとともに、計算途中だったそろばんをご破算にした。

「ごめん」

 ゼロに戻されたそろばんに、与羽は謝った。

「わかったでしょ? 君と話し合っても何も変わらないんだよ。僕を一人にしてほしい」

「けど、ひとりって寂しいじゃん……」

 それは以前も辰海に言った言葉だ。たった一人で勉強する辰海は、とても寂しそうに見えるのだ。

「恵まれた君にはわからないよ」

「辰海だって、……一緒じゃん」

 確かに与羽は恵まれている。城主一族の姫に生まれ、それだけでたくさんの人が与羽の味方になってくれる。しかし、それは筆頭文官家出身の辰海だって同じはず。

「全然違う。僕が欲しかったものは、全部君に奪われた。だから、君さえいなければ――」

 辰海の声には憎しみがこもっている。これは辰海の本音だ。与羽は彼から何を奪ってしまったのだろう。心底憎むような大切なものだ。それなのに、与羽には見当がつかない。同じ家に住み、同じ食事を食べ、着るものにもまったく困らない。同じ学問所に通い、同じ学友に囲まれ――。

「辰海が欲しかったものって、なに?」

 恐る恐る、与羽は尋ねた。

「それは――」

 辰海の唇が動く。しかし、それが言葉として発されることはなかった。

「なに? 私が辰海から奪ってしまったものなら、返せるかもしれん。返したいから、教えて欲しい」

 それを知ることさえできれば、きっと話し合える。この問題を解決できるかもしれない。

「…………」

 再び、辰海の唇が声にならない言葉を紡いだ。発声をためらっているのか、彼自身も言葉にできないものなのか。

「……君さえいなければ」

 しばらくして出た言葉は、先ほどと同じものだった。今の彼が与羽に望むのは、きっとそれだけなのだろう。ちゃんと話し合うには、辰海の心が解けるのを待つしかないのかもしれない。

「僕のそばから、いなくなって欲しい。君がいると、心が乱れる」

「なんで……?」

「…………」

 与羽が問いかけても、答えはない。

「……わかった」

 結局、与羽はそううなずくしかなった。謝罪しても、感謝を伝えても、何も変わらなかった。話し合えなかった。

「できるだけ、辰海の邪魔をせんように努力する」

 鼻の奥が痛むのをこらえて、与羽は立ち上がった。

「私はいつだって辰海の幸せと成功を祈っとるから」

「余計なお世話だよ」

 辰海の声は変わらず冷たい。それでも――。

「あんたに、龍神様と桜と古狐の加護を――」

 余計なお世話と言われても、無駄でも。できることをやりたいから。心の底からそう祈って、与羽は辰海の書斎をあとにした。
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