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  第三部 - 一章 雪花舞う

冬の患者と雷乱[下]

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 雷乱らいらん比呼ひこが向かったのは、屋敷の離れにある処置室だ。

「お前は患者が暴れないように押さえといてくれりゃいい」

 処置室の清掃を行なっている奉公人になたを渡しながら、雷乱は比呼の仕事を説明してくれた。石床の処置室は、華金かきんでもめったに見ない玻璃ガラス窓がいくつもあって明るい。四畳半ほどのこじんまりした部屋を衝立ついたてで仕切った片方には、処置に使う道具類が目立たないように置かれていた。患者の恐怖心をやわらげるためだろう。

「いつもありがとうございます」

 奉公人は受け取ったなたの包みを解くと、衝立に隠された火鉢の上に置いた。赤い炎が刃をあぶるのが見える。

「あとは患者の勇気が固まるまで待つか」

「わかった」

 処置室から少し離れた場所にある小部屋に、比呼と雷乱は腰を下ろした。ナギは薬湯の準備をするそうで、この場にはいない。

「雷乱、薬師くすし家の手伝いもしてるんだね」

 千斗せんと同様、数日おきに比呼の様子を見に来てくれる雷乱の新たな一面だ。

「よっぽど力仕事がいる時だけな」

 地の底から響くような低い声で答える雷乱は、多少ガラが悪いものの面倒見の良い兄のような雰囲気だ。

「特に人の手足を落としたり、歯を抜いたりって力仕事は、ここの奉公人もやりたがらないからやらせてもらってる。まぁ、ちょっとした小遣い稼ぎだ」

「それ、力仕事というより、精神的につらい仕事だよね……」

 比呼は先ほどの雷乱の言葉を思い出した。たとえ必要なことだとしても、ためらいなく人の四肢を切り落とせる人はそういない、らしい。

「まぁ、オレの心配はすんな」

 雷乱の大きくて重い手が比呼の頭を乱暴に撫でる。

「お前はどうだ? 困ったことはないか?」

「全然」

 それ以上この話をしたくなかったのか、比呼の現状に興味が向いたのか。急な話題転換だったが、比呼はすぐに応じた。

「退屈もしてないか?」

「退屈?」

 その問いは予想外だった。考えたこともなかったから。比呼にとって城下町での暮らしは毎日が新鮮だ。

「この国は過ごしやすいが、時々退屈に感じる……」

 雷乱は遠くを見るように目を細めた。

「小娘がいないと特にな。城の雪かきして、朝飯を食ったら、お前の様子を見に行くか、通りの雪を川まで運ぶか、氷を切り出して氷室ひむろに収めるかのどれかだ。毎日毎日同じことの繰り返し。しかもめちゃくちゃ寒いときた」

「僕は、そういう繰り返しがすごく幸せ、かな」

「なら、お前の方がオレよりもここでの暮らしに向いてるのかもな」

 雷乱の眉間のしわが浅くなった。そうすると、彼が意外と女性的できれいな顔をしていることがわかる。

「まぁ、退屈を感じ始めたら小娘のところに行くと良い。あいつのそばは暇しない」

 彼も比呼同様、与羽ように救われた一人なのだ。

「うん」

 比呼はうなずいた。

「じゃあ、そろそろ準備するか」

 細く開けた戸の隙間から、三十前後の男性が処置室に入っていくのが見えた。凪が出血と痛みを緩和させる薬湯を渡して、飲むように促している。

「洗いたての着物に着替えて、肘まで丁寧に手を洗うぞ。爪の中もだからな」

「うん。わかってる」

 比呼は長い髪を団子状にまとめて頭巾に隠した。雷乱も同様にしている。

「こいつが終わったら何かうまいもんでも食いに行こうぜ」

「凪の許可が出たらね」

「なんだお前、もう尻に敷かれてんのか?」

「そう言うわけじゃないけど……」

 陽気に笑う雷乱に、比呼も笑みを返した。

玉枝京たまえきょう経帯麺けいたいめんって人気だったろ? それに近い物を出す店を城下町で見つけたんだ」

 経帯麺とは、小麦粉にかん水などを加えて作った薄い紐のような中華麺だ。華金の王都では、しょうゆ味か塩味の汁で食べるのが一般的だった。

「僕、あれ好き」

 濃い味の汁とそれがたっぷり絡んだ麺を思い出して、比呼はつばを飲み込んだ。祖国の思い出にも、楽しい記憶があったらしい。過去のすべてを封じようと考えていたが、その必要はないのかもしれない。

「華金は貧乏人には暮らしにくいが、金さえあればいくらでもうまいもんが食えたよな。肉に魚に、変わった料理、舶来はくらい品の菓子や香辛料、酒の種類も多かった」

 雷乱は着替えながら遠い目をした。比呼も一緒になって華金の飲食物に思いをはせる。中州でふるさとの話ができるとは思わなかった。同郷の雷乱には、友人のような親しみを感じる。
 与羽や彼女を取り巻く人々は、ほとんどが上流階級の出身か高位の官吏だが、雷乱はそのどちらでもない。気安く頼れる貴重な存在だ。

「っと、大事な仕事の前に気を抜きすぎちまったな」

 思い出したように言って、雷乱は自分のほほをバチバチと叩いた。

「そうだね」

 比呼もうなずく。これから、患者の命に関わる処置を行うのだ。

「行こうぜ。食いもんの話は仕事が終わったあとだ」

 雷乱は真っ白な作業衣の袖を肩までまくり上げて、控え室を出ようとしている。あとは手を洗って、患者に薬湯の効果が出始めるのを待って、処置に移るだけ。

「うん」

 比呼も衣装を整え終わったので、雷乱のあとに続いた。彼がいてくれれば、華金と中州の違いに悩むことも少ないだろう。新しい世界になじもうとする比呼を助けてくれる人は、意外と多い。

 きっとうまくやっていける。春までは、もう少しだ。
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