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第三部 - 一章 雪花舞う
柚子茶と九鬼千斗[3]
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「……おいで」
千斗は品定めするように比呼を見たあと、背を向けた。
「え……?」
比呼が戸惑いの声を発する間に、千斗ははるか前方まで移動している。やはり彼の動作はゆっくりに見えて、とてもすばやい。瞬間移動しているようにすら感じられる。
「あ、九鬼さん、待ってください」
比呼は慌てて千斗を追いかけた。転ばないように気を付けながら歩く比呼の前で、千斗が振り返った。
「『千斗』でいい。親父や兄貴とややこしくなるから」
彼の父親は武官一位、兄は武官二位、そして千斗自身も上級武官。呼び方の区別が必要だと言う。
「わかりました」
「そこがうち」
千斗は比呼の返事にうなずくことさえせず、通りの先を指さした。
「川側が八百屋、城側が鍛冶屋」
「武官家なのに家業が二つもあるんですか?」
人を雇って営んでいるのだろうが、大変そうだ。
「うちはもともと鍛冶職人のとりまとめ役。八百屋はおふくろの実家の家業」
千斗は口数が少ないものの、必要なことはすべて説明してくれるのでありがたい。比呼は紹介された二軒の建物を見た。鍛冶屋の方は火を扱う場所なので暖かいらしく、細く開けた戸口の前は雪が解けている。雪に濡れていない地面を見たのは久しぶりだ。八百屋の方は通りに面した陳列棚に中年の女性が野菜や果物を並べているところだった。
「おふくろ」
千斗は一人で開店準備をしている女性に歩み寄って行く。彼女が彼の母親らしい。
「あら? お使いが終わったらすぐ城に行くんじゃなかったんか」
彼女は枯れた声で言いながら息子を見て、その斜め後ろに立つ比呼に気が付いた。
「こりゃまたべっぴんさんを連れてきたねぇ」
そんな感想を漏らしている。
「薬師家の居候」
「比呼、です。……はじめまして」
千斗の紹介に比呼は名乗って頭を下げた。
「あらあらご丁寧に。息子がお世話になっとります。九鬼数子です。よろしゅう」
数子は前掛けで手をぬぐうと、お辞儀を返してくれた。社交的で人当たりよさそうな女性だ。
「あの、これ薬師家の凪と香子さんからです」
千斗に肘で小突かれて、比呼は手に持っていた小壺を差し出した。
「前回いただいたゆずで作った柚子茶です。体を温める生薬も入っているので、寒さを感じるときに、お湯で解いてお飲みください」
「こりゃまた丁寧に」
比呼が両手で差し出した柚子茶を受け取るために、数子も両手を差し出す。あかぎれの多い、傷だらけの手だった。
「ただでいただいちゃっていいのかね?」
代金を気にするところが、商人らしい。
「もちろん。いつもお世話になっていますから。あ、でも、もし気に入られたら、たくさん買いに来ていただけると嬉しいです」
「試供品ってやつね。あんた商才あるよ」
比呼がふと思いついて付け足した商売文句は、数子の気に召したようだ。
「試してみて良かったら、うちのお客さんにもオススメしとくからね!」
「あはは、ありがとうございます。――では、僕はこれで……」
柚子茶を渡し終わったら、薬師家に帰らなければ。きっと凪や香子が心配しながら待っている。
「待ちなよ」
しかし、数子にそう呼び止められた。
「千斗もだよ。黙ってどこに行くんだい?」
数子はさらに声を大きくして叫んでいる。彼女の笑顔が突然消えたので、比呼は驚いた。その声も先ほどまでの枯れ声が幻のように、良く響く気合いがこもっている。普段はこの声で商品の案内をしているのだろう。
比呼は数子の視線を追った。その先にいる千斗は、一歩進んだ体勢で止まっている。
「……仕事」
気配なく去ろうとしたところを母親に見つかって、千斗は仕方なく振り返った。
「だとしても、黙って行くやつがあるかい。ねぇ、比呼くん」
「えっと……」
話を振られて、比呼は最適解を探した。しかし、こんな親子喧嘩に巻き込まれた経験はない。
「あの……。お忙しい中、ここまで案内してくれてありがとうございました」
ずれた回答な気もするが、結局比呼は一番伝えたい言葉を口にすることにした。
「何かあったらいつでもおいで」
千斗の口の端がわずかに動く。笑みを見せてくれたように感じられなくもない。
「夕食は家で食べる。行ってくる」
次に千斗は母親を見た。
「はいはい。いってらっしゃい。気を付けるんだよ!」
数子はすでに遠くなりつつある息子の背中に叫んだ。
「まったく、すばしっこいんだから」
千斗の素早さは、おそらく特殊な技術を身に着けた成果なのだろうが、それを「すばっしっこい」の一言で片づける数子に、比呼は内心で舌を巻いた。
千斗は品定めするように比呼を見たあと、背を向けた。
「え……?」
比呼が戸惑いの声を発する間に、千斗ははるか前方まで移動している。やはり彼の動作はゆっくりに見えて、とてもすばやい。瞬間移動しているようにすら感じられる。
「あ、九鬼さん、待ってください」
比呼は慌てて千斗を追いかけた。転ばないように気を付けながら歩く比呼の前で、千斗が振り返った。
「『千斗』でいい。親父や兄貴とややこしくなるから」
彼の父親は武官一位、兄は武官二位、そして千斗自身も上級武官。呼び方の区別が必要だと言う。
「わかりました」
「そこがうち」
千斗は比呼の返事にうなずくことさえせず、通りの先を指さした。
「川側が八百屋、城側が鍛冶屋」
「武官家なのに家業が二つもあるんですか?」
人を雇って営んでいるのだろうが、大変そうだ。
「うちはもともと鍛冶職人のとりまとめ役。八百屋はおふくろの実家の家業」
千斗は口数が少ないものの、必要なことはすべて説明してくれるのでありがたい。比呼は紹介された二軒の建物を見た。鍛冶屋の方は火を扱う場所なので暖かいらしく、細く開けた戸口の前は雪が解けている。雪に濡れていない地面を見たのは久しぶりだ。八百屋の方は通りに面した陳列棚に中年の女性が野菜や果物を並べているところだった。
「おふくろ」
千斗は一人で開店準備をしている女性に歩み寄って行く。彼女が彼の母親らしい。
「あら? お使いが終わったらすぐ城に行くんじゃなかったんか」
彼女は枯れた声で言いながら息子を見て、その斜め後ろに立つ比呼に気が付いた。
「こりゃまたべっぴんさんを連れてきたねぇ」
そんな感想を漏らしている。
「薬師家の居候」
「比呼、です。……はじめまして」
千斗の紹介に比呼は名乗って頭を下げた。
「あらあらご丁寧に。息子がお世話になっとります。九鬼数子です。よろしゅう」
数子は前掛けで手をぬぐうと、お辞儀を返してくれた。社交的で人当たりよさそうな女性だ。
「あの、これ薬師家の凪と香子さんからです」
千斗に肘で小突かれて、比呼は手に持っていた小壺を差し出した。
「前回いただいたゆずで作った柚子茶です。体を温める生薬も入っているので、寒さを感じるときに、お湯で解いてお飲みください」
「こりゃまた丁寧に」
比呼が両手で差し出した柚子茶を受け取るために、数子も両手を差し出す。あかぎれの多い、傷だらけの手だった。
「ただでいただいちゃっていいのかね?」
代金を気にするところが、商人らしい。
「もちろん。いつもお世話になっていますから。あ、でも、もし気に入られたら、たくさん買いに来ていただけると嬉しいです」
「試供品ってやつね。あんた商才あるよ」
比呼がふと思いついて付け足した商売文句は、数子の気に召したようだ。
「試してみて良かったら、うちのお客さんにもオススメしとくからね!」
「あはは、ありがとうございます。――では、僕はこれで……」
柚子茶を渡し終わったら、薬師家に帰らなければ。きっと凪や香子が心配しながら待っている。
「待ちなよ」
しかし、数子にそう呼び止められた。
「千斗もだよ。黙ってどこに行くんだい?」
数子はさらに声を大きくして叫んでいる。彼女の笑顔が突然消えたので、比呼は驚いた。その声も先ほどまでの枯れ声が幻のように、良く響く気合いがこもっている。普段はこの声で商品の案内をしているのだろう。
比呼は数子の視線を追った。その先にいる千斗は、一歩進んだ体勢で止まっている。
「……仕事」
気配なく去ろうとしたところを母親に見つかって、千斗は仕方なく振り返った。
「だとしても、黙って行くやつがあるかい。ねぇ、比呼くん」
「えっと……」
話を振られて、比呼は最適解を探した。しかし、こんな親子喧嘩に巻き込まれた経験はない。
「あの……。お忙しい中、ここまで案内してくれてありがとうございました」
ずれた回答な気もするが、結局比呼は一番伝えたい言葉を口にすることにした。
「何かあったらいつでもおいで」
千斗の口の端がわずかに動く。笑みを見せてくれたように感じられなくもない。
「夕食は家で食べる。行ってくる」
次に千斗は母親を見た。
「はいはい。いってらっしゃい。気を付けるんだよ!」
数子はすでに遠くなりつつある息子の背中に叫んだ。
「まったく、すばしっこいんだから」
千斗の素早さは、おそらく特殊な技術を身に着けた成果なのだろうが、それを「すばっしっこい」の一言で片づける数子に、比呼は内心で舌を巻いた。
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