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第三部:袖ひちて -ソデひちて-
序章一節 - 冬の中州
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中州国の冬は雪が良く降る。
比呼は屋根の上から白銀の世界を見渡して、ほおっと息をついた。この国に来て初めての冬は、とても美しい。
西にあるはずの山脈は、平坦な雪雲に隠されて見えない。葉を落とした山地の木々は白い雪を満開に咲かせ、町外れの農地は日に日に降り積もる雪を厚くしている。目の前の大通りでは、大人たちが牛や馬を使って雪を運んでいた。この城下町を囲む川に捨てるらしい。子どもたちはそれを手伝っているのか、邪魔しているのか。楽しげな声が響いている。
「比呼、急がないと今日の雪回収が終わっちゃう」
後ろから声をかけられて、あたりの風景に見入っていた比呼ははっと我に返った。
「ごめん、凪。すぐやるね!」
屋根の高いところに立つ女性に言って、比呼は慌てて足を踏み出した。屋根や庭に積もった雪を早く通りに出さなければ。
「あ! 瓦の上は凍ってるから気をつけて!」
凪の焦り声が響く。慣れている中州の大人でも、滑落する人が後を絶たないのだ。初めて中州の冬を暮らす比呼には、しっかりと注意を促さなくては。
「うわ……!」
しかし、彼女の言葉は少し遅かった。比呼の足が滑る。慌ててもう片方の足に力を込めて踏ん張ろうとした瞬間、そちらも抵抗を失った。
「比呼!」
叫んだ凪は動けない。目の前の雪に亀裂が入ったから。これは危険だと直感した。
「比呼!」
もう一度、凪の甲高い叫び声が響いた。いつもどこかに冷静さを残している彼女が、取り乱すのは珍しい。
顔をあげた比呼が見たのは、屋根を滑り落ち始めた大きな雪塊。そして、雪崩の先で、比呼に手を伸ばす凪。到底届くはずない距離であるにもかかわらず、めいいっぱい白い手のひらを差し出している。その恐怖と焦りの表情――。
――凪に心配はかけられない。
そんなことを思った瞬間、比呼の顔つきが変わった。驚きで開けた口を一文字に引き結び、細めた瞳に影が落ちる。かつて、常に心に留めていた緊張感を呼び起こす。
比呼は屋根の縁を足がかりに、大きく跳んだ。ふわりと長めの浮遊感。その後、全く体勢を崩すことなく大通りに着地した。
それとほぼ同時に、どうと大きな音を立てて雪が落ちる。目の前に広がる雪煙に、比呼は安堵の息をついた。
「比呼! 大丈夫!?」
できる限り急いで、凪が屋根にかけた梯子を降りてくる。
「大丈夫。けがはないよ」
比呼は彼女を安心させようと笑みを浮かべた。その顔に、先ほど見せた闇はない。
「いつもみたいに大股で歩いちゃったし、雪を踏んじゃったし、良くなかったね」
自分の間違った行動が招いた結果だ。建物が平屋だったので無事に飛び降りられたが、これが二階建てや三階建ての屋根なら大変なことになっていた。
「いえ。あたしの説明不足だったわ。あなた、雪国暮らし本当に全く初めてなのね」
「……うん」
比呼の故郷は南にある華金国。その中でも彼の暮らしていた玉枝京はほとんど雪が積もらない。屋根や間口の雪を取り除く習慣は知識として知っているものの、実際にやるのは初めてだった。
この町では幼子でもできることが、比呼にはまだできないのだ。何事かと様子をうかがう人々の視線を感じる。好奇と憐憫と、少しの敵意――。
「でも、絶対慣れてみせるよ! ここの景色や一生懸命働く人たちが好きだから」
彼らにも伝わるように、比呼は大きな声で言った。
「期待してるね」
凪が笑みを浮かべる。毛織物の首巻きをあごまで下げた彼女の頬は、寒さで薄紅色に染まっていた。
比呼も自分の表情が伝わりやすいように首巻きを緩めて、ほほえみ返した。冷たい空気が肌を刺すが、彼女のためならば気にならない。凪は比呼の素性を知ったうえで、受け入れてくれるやさしい希望なのだ。
比呼は屋根の上から白銀の世界を見渡して、ほおっと息をついた。この国に来て初めての冬は、とても美しい。
西にあるはずの山脈は、平坦な雪雲に隠されて見えない。葉を落とした山地の木々は白い雪を満開に咲かせ、町外れの農地は日に日に降り積もる雪を厚くしている。目の前の大通りでは、大人たちが牛や馬を使って雪を運んでいた。この城下町を囲む川に捨てるらしい。子どもたちはそれを手伝っているのか、邪魔しているのか。楽しげな声が響いている。
「比呼、急がないと今日の雪回収が終わっちゃう」
後ろから声をかけられて、あたりの風景に見入っていた比呼ははっと我に返った。
「ごめん、凪。すぐやるね!」
屋根の高いところに立つ女性に言って、比呼は慌てて足を踏み出した。屋根や庭に積もった雪を早く通りに出さなければ。
「あ! 瓦の上は凍ってるから気をつけて!」
凪の焦り声が響く。慣れている中州の大人でも、滑落する人が後を絶たないのだ。初めて中州の冬を暮らす比呼には、しっかりと注意を促さなくては。
「うわ……!」
しかし、彼女の言葉は少し遅かった。比呼の足が滑る。慌ててもう片方の足に力を込めて踏ん張ろうとした瞬間、そちらも抵抗を失った。
「比呼!」
叫んだ凪は動けない。目の前の雪に亀裂が入ったから。これは危険だと直感した。
「比呼!」
もう一度、凪の甲高い叫び声が響いた。いつもどこかに冷静さを残している彼女が、取り乱すのは珍しい。
顔をあげた比呼が見たのは、屋根を滑り落ち始めた大きな雪塊。そして、雪崩の先で、比呼に手を伸ばす凪。到底届くはずない距離であるにもかかわらず、めいいっぱい白い手のひらを差し出している。その恐怖と焦りの表情――。
――凪に心配はかけられない。
そんなことを思った瞬間、比呼の顔つきが変わった。驚きで開けた口を一文字に引き結び、細めた瞳に影が落ちる。かつて、常に心に留めていた緊張感を呼び起こす。
比呼は屋根の縁を足がかりに、大きく跳んだ。ふわりと長めの浮遊感。その後、全く体勢を崩すことなく大通りに着地した。
それとほぼ同時に、どうと大きな音を立てて雪が落ちる。目の前に広がる雪煙に、比呼は安堵の息をついた。
「比呼! 大丈夫!?」
できる限り急いで、凪が屋根にかけた梯子を降りてくる。
「大丈夫。けがはないよ」
比呼は彼女を安心させようと笑みを浮かべた。その顔に、先ほど見せた闇はない。
「いつもみたいに大股で歩いちゃったし、雪を踏んじゃったし、良くなかったね」
自分の間違った行動が招いた結果だ。建物が平屋だったので無事に飛び降りられたが、これが二階建てや三階建ての屋根なら大変なことになっていた。
「いえ。あたしの説明不足だったわ。あなた、雪国暮らし本当に全く初めてなのね」
「……うん」
比呼の故郷は南にある華金国。その中でも彼の暮らしていた玉枝京はほとんど雪が積もらない。屋根や間口の雪を取り除く習慣は知識として知っているものの、実際にやるのは初めてだった。
この町では幼子でもできることが、比呼にはまだできないのだ。何事かと様子をうかがう人々の視線を感じる。好奇と憐憫と、少しの敵意――。
「でも、絶対慣れてみせるよ! ここの景色や一生懸命働く人たちが好きだから」
彼らにも伝わるように、比呼は大きな声で言った。
「期待してるね」
凪が笑みを浮かべる。毛織物の首巻きをあごまで下げた彼女の頬は、寒さで薄紅色に染まっていた。
比呼も自分の表情が伝わりやすいように首巻きを緩めて、ほほえみ返した。冷たい空気が肌を刺すが、彼女のためならば気にならない。凪は比呼の素性を知ったうえで、受け入れてくれるやさしい希望なのだ。
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