上 下
88 / 201
第三部:袖ひちて -ソデひちて-

序章一節 - 冬の中州

しおりを挟む
 中州なかす国の冬は雪が良く降る。

 比呼ひこは屋根の上から白銀の世界を見渡して、ほおっと息をついた。この国に来て初めての冬は、とても美しい。
 西にあるはずの山脈は、平坦な雪雲に隠されて見えない。葉を落とした山地の木々は白い雪を満開に咲かせ、町外れの農地は日に日に降り積もる雪を厚くしている。目の前の大通りでは、大人たちが牛や馬を使って雪を運んでいた。この城下町を囲む川に捨てるらしい。子どもたちはそれを手伝っているのか、邪魔しているのか。楽しげな声が響いている。

「比呼、急がないと今日の雪回収が終わっちゃう」

 後ろから声をかけられて、あたりの風景に見入っていた比呼ははっと我に返った。

「ごめん、ナギ。すぐやるね!」

 屋根の高いところに立つ女性に言って、比呼は慌てて足を踏み出した。屋根や庭に積もった雪を早く通りに出さなければ。

「あ! 瓦の上は凍ってるから気をつけて!」

 凪の焦り声が響く。慣れている中州の大人でも、滑落する人が後を絶たないのだ。初めて中州の冬を暮らす比呼には、しっかりと注意を促さなくては。

「うわ……!」

 しかし、彼女の言葉は少し遅かった。比呼の足が滑る。慌ててもう片方の足に力を込めて踏ん張ろうとした瞬間、そちらも抵抗を失った。

「比呼!」

 叫んだ凪は動けない。目の前の雪に亀裂が入ったから。これは危険だと直感した。

「比呼!」

 もう一度、凪の甲高い叫び声が響いた。いつもどこかに冷静さを残している彼女が、取り乱すのは珍しい。

 顔をあげた比呼が見たのは、屋根を滑り落ち始めた大きな雪塊。そして、雪崩なだれの先で、比呼に手を伸ばす凪。到底届くはずない距離であるにもかかわらず、めいいっぱい白い手のひらを差し出している。その恐怖と焦りの表情――。

 ――凪に心配はかけられない。

 そんなことを思った瞬間、比呼の顔つきが変わった。驚きで開けた口を一文字に引き結び、細めた瞳に影が落ちる。かつて、常に心に留めていた緊張感を呼び起こす。

 比呼は屋根の縁を足がかりに、大きく跳んだ。ふわりと長めの浮遊感。その後、全く体勢を崩すことなく大通りに着地した。

 それとほぼ同時に、どうと大きな音を立てて雪が落ちる。目の前に広がる雪煙に、比呼は安堵の息をついた。

「比呼! 大丈夫!?」

 できる限り急いで、凪が屋根にかけた梯子を降りてくる。

「大丈夫。けがはないよ」

 比呼は彼女を安心させようと笑みを浮かべた。その顔に、先ほど見せた闇はない。

「いつもみたいに大股で歩いちゃったし、雪を踏んじゃったし、良くなかったね」

 自分の間違った行動が招いた結果だ。建物が平屋だったので無事に飛び降りられたが、これが二階建てや三階建ての屋根なら大変なことになっていた。

「いえ。あたしの説明不足だったわ。あなた、雪国暮らし本当に全く初めてなのね」

「……うん」

 比呼の故郷は南にある華金かきん国。その中でも彼の暮らしていた玉枝京たまえきょうはほとんど雪が積もらない。屋根や間口の雪を取り除く習慣は知識として知っているものの、実際にやるのは初めてだった。
 この町では幼子でもできることが、比呼にはまだできないのだ。何事かと様子をうかがう人々の視線を感じる。好奇と憐憫れんびんと、少しの敵意――。

「でも、絶対慣れてみせるよ! ここの景色や一生懸命働く人たちが好きだから」

 彼らにも伝わるように、比呼は大きな声で言った。

「期待してるね」

 凪が笑みを浮かべる。毛織物の首巻きをあごまで下げた彼女の頬は、寒さで薄紅色に染まっていた。
 比呼も自分の表情が伝わりやすいように首巻きを緩めて、ほほえみ返した。冷たい空気が肌を刺すが、彼女のためならば気にならない。凪は比呼の素性を知ったうえで、受け入れてくれるやさしい希望なのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

夫から国外追放を言い渡されました

杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。 どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。 抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。 そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……

【完結】後妻に入ったら、夫のむすめが……でした

仲村 嘉高
恋愛
「むすめの世話をして欲しい」  夫からの求婚の言葉は、愛の言葉では無かったけれど、幼い娘を大切にする誠実な人だと思い、受け入れる事にした。  結婚前の顔合わせを「疲れて出かけたくないと言われた」や「今日はベッドから起きられないようだ」と、何度も反故にされた。  それでも、本当に申し訳なさそうに謝るので、「体が弱いならしょうがないわよ」と許してしまった。  結婚式は、お互いの親戚のみ。  なぜならお互い再婚だから。  そして、結婚式が終わり、新居へ……?  一緒に馬車に乗ったその方は誰ですか?

初恋が綺麗に終わらない

わらびもち
恋愛
婚約者のエーミールにいつも放置され、蔑ろにされるベロニカ。 そんな彼の態度にウンザリし、婚約を破棄しようと行動をおこす。 今後、一度でもエーミールがベロニカ以外の女を優先することがあれば即座に婚約は破棄。 そういった契約を両家で交わすも、馬鹿なエーミールはよりにもよって夜会でやらかす。 もう呆れるしかないベロニカ。そしてそんな彼女に手を差し伸べた意外な人物。 ベロニカはこの人物に、人生で初の恋に落ちる…………。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

処理中です...