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  第二部 - 六章 龍の涙

六章五節 - 水龍の舞

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  * * *

 舞殿まいでんの控え所に到着すると、本番まではすぐだった。

与羽よう姫、これを舞殿の中央へ。龍神の加護を祈ります」

 わずかに緊張を見せる与羽に空は梅の枝を渡した。紅白の花が満開に咲いている。半月前に神域から持ち帰ったものを咲かせたのだそうだ。

「ミサ」

 与羽が小さく名を呼ぶと、実砂菜みさなは両手に持った鈴を大きく振った。その唇は一文字に引き結ばれ、緊張しつつも覚悟をにじませている。

 鳴り続ける鈴の音を聞きながら、与羽は両手で梅の花枝を捧げ持って舞台へと足を踏み出した。正方形の舞殿は前と左右に壁がなく、集まった人々から良く見えるようになっている。
 舞殿の四隅でかがり火が焚かれているおかげで、あたりは夜であるにもかかわらず明るい。与羽が舞台の中央で梅の花を掲げると、集まった民衆の驚くざわめきとともに、火の粉が舞った。炎の熱と、ひしめく人でのぼせそうだ。

 与羽は人々に満開の梅を見せたあと、舞台のやや後ろにある祭壇へそれを生けた。青緑色の磁器の花瓶には細かく金で龍が描かれている。この花は春花の姫の奇跡として、元日の神事が終わるまでここに祭られるだろう。

 鈴の音は与羽の入台とともに消えているが、空主神殿から響く鐘の音はまだ鳴り続けている。年が変わるまで響き続ける高く澄んだ音。

 与羽はそれに誘われるように再び正面を向いた。波紋が広がるように、与羽を中心にあたりが静まっていく。誰もが固唾かたずをのんで見守る中、与羽は舞台の前方に進み出た。帯に挟んでいた扇を抜き取り、両手でゆっくり開く。誰もが金属がこすれ合うしゃらりと澄んだ音を聞いた気がした。

 すっ、と。与羽が扇を持った右手を前に差し出した。準備は整った。

 辰海たつみは横目で左右に座る仲間を見て、横笛に口を当てた。演目は、「水龍の舞」。

 笛の音に合わせて与羽がゆっくりと動いた。水龍の舞は龍神水主みなぬしを題材とした踊り。川のように流れ、雨のように屈伸し、嵐のように跳び上がる。穏やかでやさしい舞かと思えば、嵐が渦を巻いて吹きすさぶように激しく踊る。水のように滑らかに動くのはもちろん、様々な水をいかに緩急をつけて踊り分けるかが水龍の舞を演じる上で重要だ。

 大斗だいとの三味線は与羽の舞にさらなる力強さを加えてくれる。絡柳らくりゅうが一定間隔で叩くつづみは、与羽の動きと辰海の演奏を繋ぐ大切な指揮。あれだけ緊張していた実砂菜の鈴も、普段通りに楽しげだ。舞台袖からは空と舞行まいゆきが見守っているのを感じる。

 与羽が流れるような動作で腕を挙げると、扇についていた黄水晶の飾りが炎の光を乱反射させた。彼女の動きは円を描くように滑らかで、指先まで神経を行き届かせた精密さがある。羽根のように軽やかであるにもかかわらず、龍のような猛々しさを合わせもつ。

 与羽が体を回すと真っ白い袖や紅の袴の裾が大きく広がった。そのさらに外側を扇の飾り紐が鞭のように追いかける。飛び跳ねるところでは高く飛び、どれだけ激しく舞っても体の軸がぶれることはない。与羽が扇を振ると、かがり火から火の粉が舞った。その様子は風を操っているようにも見える。

 与羽の動きひとつひとつに息を飲む人々を見て、辰海は誇らしい気持ちになった。そして、辰海自身も与羽の舞に見惚れた。与羽の一挙手一投足から目が離せない。

 ――永龍姫えいりゅうき

 中州城下町での彼女の愛称が浮かぶ。ながく幸せに生きて欲しいと願われた、龍の姫。今の彼女は、まさに龍神だった。美しくありながら猛々しい。

 与羽の動きに合わせて、腰に飾られた玻璃ガラス細工が水滴のようにきらきらとあたりの光を虹色に反射した。玻璃ガラスとは違う煌めきに視線を上げれば、炎に透かされた黒髪が青と黄緑色に光っている。見慣れているはずなのに、幻想的な色彩。
 普段の無邪気さが感じられない代わりに、近寄りがたく神々しい雰囲気を醸している。

 ――本当に、綺麗だ。

 与羽の視線が一瞬、辰海を向く。それだけで全身を熱いものが駆け巡った。

 辰海は夢中で与羽の動きを追っていたように思う。そんな彼を引き戻したのは、大斗の小さなため息だった。
 はっとした。笛はちゃんと吹き続けてるが、無意識で吹いていた。今は水龍の舞のどの部分だろう? そう考えた瞬間、汗が噴き出した。

 水龍の舞にない旋律。いつの間にか即興で吹いていたようだ。与羽があまりにも自然に舞い踊るので気づかなかった。

 絡柳と実砂菜は一定間隔で楽器を鳴らせばいいだけなので問題ないが、三味線で伴奏する大斗には本当に申し訳ないことをした。それはため息もつきたくなるだろう。なんとか辰海に合わせてくれているのが奇跡に思える。
 辰海はつなぎ方が変にならないよう細心の注意を払って、元の囃子はやしへと戻した。舞を見る人の中に違和感を持った者はいないだろう。たとえ水龍の舞を知っていたとしても、中州流の改変を加えたものだと思ったはずだ。

 与羽は「水龍の舞」に戻ってもしばらくの間、本来の舞とは違う踊りを舞っていた。「もう少し即興で吹いてくれてもよかったのに」とでも言うような態度が、いかにも与羽らしい。

 中州の龍姫と官吏たちによる舞の奉納は、当事者にしかわからない失敗を起こしつつも、大成功に終わった。
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