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  第二部 - 五章 龍の舞

五章二節 - 月神の瞳

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「あんたの目、ちょっと赤くなってない?」

 しばらくして、与羽ようは低めた声で言った。辰海たつみの目は、母親譲りの濃灰色だったはずだが、今はそこに淡く赤みがさして見える。

「え……?」

 辰海は瞬きした。自分では何もわからない。

「それは本当ですか?」

 与羽の声を聞きつけて空が歩み寄ってくる。

 幸いなことに、「与羽、辰海くんにちゅーするのかと思った」と呟いた実砂菜みさなの言葉を聞いたのは、大斗だいとだけだ。

 空の赤い目が辰海の顔を覗き込んだ。

「もしかして、神域で月主つきぬし様とお会いしましたか?」

「……少しだけ」

 辰海は正直に答えた。

「『祝福』ってやつ?」

 与羽が記憶をたどる。空は以前、自分の赤い目のことをそう言っていた。

「相当薄いですが、そのようですね。しかしご心配なく。これはあなたを縛り付けるものではありません。今まで通りに過ごしてくださって問題ありませんので」

「わかりました」

 天駆あまがけに残って神職に就くよう言われなくてよかったと、辰海は内心で胸をなでおろした。

「ただ、目の色を指摘されることはあるかもしれませんが……」

古狐ふるぎつねはもともと大昔に城主一族から分かれた家じゃし、卯龍うりゅうさんの目も赤っぽいし、特に変には思われんじゃろ」

 与羽は辰海を安心させようとしているのか、明るい声で言いながら彼の肩を叩いてくれる。

「そうだね」

 これは決して口には出さないが、むしろ良かったのかもしれない。辰海の父――卯龍までは龍の血を継いでいることを示す灰桜色の目を持っていた。しかし、辰海には龍の特徴が何もない。後天的にでも、それが得られるのなら――。

「うん、へーき」

 辰海はにっこり笑ってうなずいた。この祝福を与えてくれた月主には感謝さえ覚える。

「目のことを聞かれても、月主様の話をする必要はありませんので……」

 月主は悪い神と語られることが多い。空はそのあたりも心配しているようだ。もしかすると、彼自身が月主神官として肩身の狭い経験をしてきたのかもしれない。

「大丈夫ですよ。中州で月主様はさほど嫌われてませんから」

 中州国は月主の涙と言われる月見川の恩恵を大いに受けている。民にとって月主は、時に水害を起こす夜の支配者でありながら、恵みや戦勝の神でもある。

「それなら、いいのですが……」

 空は辰海の言葉に納得していない様子だ。

「もらってしまったもんは仕方なかろう」

 与羽は空の顔に手を伸ばした。そっと彼の前髪をかきあげ、赤い目を見上げる。

「何か不満があるんなら、あんたも中州に来る?」

 急にそんなことを口走るので、辰海も空も驚いた。感情の薄い空の目が大きく見開かれるのを見て、与羽の口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。いたずらを成功させた子どものような……。

 しかし、空の瞳が揺れたのはほんの短い間だけ。彼はゆっくり目を閉じると、与羽の手をやさしく払いのけた。

「素敵なお誘いですが、お断りしますよ。わたしにはここでやるべきことがありますので」

 その声も低く落ち着いている。

「やるべきことねぇ。特に忙しそうにも見えんけど」

 ほかの神殿ならば正月神事の準備であわただしい時期であるにもかかわらず、空やこの神殿にそんな様子は見えない。

「いろいろあるのですよ。言えないことがいろいろと」

 それは空の疲れ切ったくまの濃い目とも関係しているのだろうか。空は手櫛てぐしで前髪を整えると、与羽に背を向けた。

「早く朝食を食べてください。天駆のお屋敷で舞行まいゆき様たちが首を長くして待っておられますよ」

 この話はここでおしまいだ。空の話題転換は言外にそう伝えていた。

「空の言う通りじゃな」

 与羽はうなずいて、正座したままの辰海に手を差し出した。辰海の目は、陽光が強く当たる部分だけがほのかに赤い光を帯びて見える。

「私はその目の色、綺麗だと思うよ」

 それはきっと与羽の正直な感想なのだろう。

「ありがとう」

 辰海は与羽の手を取って立ちあがった。

 無事に生きて彼女の元へ戻ることができた。温かい手、きれいな髪と目。日に焼けた健康的な肌。大きな目はこの世のすべてを楽しむように、好奇心旺盛に輝いている。時折見せるいたずらっぽい悪い笑みも、彼女のわがままに振り回されるのも大好きだ。だからこそ。

 ――与羽のやさしい理想を叶えるために。

 辰海にはこれからこなすべき大切な仕事がある。

 辰海は与羽の横顔を見た。与羽の心にもきっと引っ掛かり続けているはずだ。今はふりだしに戻っただけ。本当の願いは、この先にある。
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