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  第二部 - 四章 龍と龍姫

四章三節 - 神官の賭け

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  * * *

 枯れ川を掘り起こす作業は朝から昼過ぎまで。帰りが遅くなっては絡柳らくりゅうにいぶかしまれるので、二日目は日没よりだいぶ早く戻った。そのおかげもあってか、三日目の外出も容易に許可が出た。

 一日目は時間不足であまり進めなかったが、二日目は朝から昼過ぎまで箒で掃いて、一里(四キロメートル)以上進んだ。空の見立てでは、三日目の今日で作業の半分が終わるらしい。

「ふぅ」

 与羽ようは箒を振る手を止めて、息をついた。今日はどれくらい進めただろうか。木々の間から見える龍山は大きくなっているようだが、それでも遠い。

「日が傾きはじめた。そろそろ戻るよ」

 大斗だいとが号令をかけるのが聞こえる。彼の指示に従わなくては。与羽は後ろに立つ大斗を振り返った。

「いえ、今日はもう少し……」

 しかし、それを拒否する者がいた。空だ。

「ダメだよ。約束と違う」

 大斗はすでに与羽の箒を奪い取り、神殿へ連れて戻る気でいる。

「まだ半分を過ぎたくらいなんでしょ? あと少し進めば目的地に着くって言うならまだしも――」

 彼の言う通りだ。もちろん与羽にも先を急ぎたい気持ちは強くある。しかし、神域を進み続けるためには大斗の協力が不可欠なのだ。彼の機嫌を損ねてはいけない。

「予感がするのですよ」

 空は前髪をかきあげて、赤い目で大斗を見据えた。

「ここで押し問答をするのは、最も無駄な行為です。もしよければ、賭けをしませんか?」

「賭け?」

 その単語はわずかながらも大斗の興味を引いたらしい。

 空がすっと頭上を指さした。それにつられて上を見たが、何の変哲もない葉をほとんど落とした梢と彩度の低い薄青の空しかない。

「わたしがあの木の葉を射落としたら進むことにしませんか?」

「無理だよ。角度があるし、風もある。手前の枝も邪魔だ」

 武官二位の大斗は冷静にそう判断した。

「無理だと思うなら、賭けに乗って下さっても良いのでは?」

 空の穏やかな物腰は崩れない。

「…………」

 大斗は思案した。
 あんなに高い位置にある木の葉を射貫ける者は、中州の上級武官にもそういない。洗練された高度な技術と運を持ち合わせてやっと可能になる神業だ。賭けに乗っても空が負けて神殿へ戻ることになる可能性の方がはるかに高いだろう。しかし、もしこの神官が勝ってしまったら? 与羽を無事に中州城下町へ連れ帰るのが、一行を護衛する大斗の使命だ。勝ちが濃厚な賭けでも断るべき。

「中州でも有数の強者つわものであるあなたに、素晴らしい弓技をお見せしますよ」

 空が浮かべる笑みにはいつもより意思が感じられた。自信と、賭けに消極的な大斗への挑発。彼は清廉無垢な神官ではない。そんな予感はしていたが、今確信に変わった。とてもずる賢く、したたかな男だ。

 大斗は上を見た。もし彼があの木の葉を射落とせるのなら、それを見たいと思う自分がいる。

「……進むのはあと半刻(一時間)だけだよ。それ以上は認めない」

 好奇心には勝てなかった。もともと余裕をもって時間管理をしているので、半刻伸ばすだけならば、問題なく宿坊しゅくぼうまで帰り着ける。

「わかりました。では――」

 空はうなずいて、背負っていた弓を手に取った。

「ちょっと待ちな」

 しかし、賭けを了承したはずの大斗が静止をかける。

「貸して」と空の手から弓と矢を奪い取った。

「先に俺が射落としたら俺の勝ちだから」

「構いませんよ」

 空の答えを聞きながら、大斗は慣れた様子で弓に矢をつがえ――。途中で動きを止めた。

「ふふん? 見かけによらず強い弓を使ってるじゃない」

 普段大斗が使っている弓よりも、弦の張りが強い。

 大斗は足の間隔を調整すると、先ほどよりも力を込めて弓を引きなおした。固く唇を引きむすぶ。木の葉は小さな風でも大きく揺らめき、狙いにくい。大斗が目を細めると、彼の周りだけ時間が止まったように、すべてが静止した。

 次の瞬間、彼の手から弦が離れた。矢は目で追えないほど速く飛び、幾本かの枝を断ち落とした。しかし、本来狙うべき葉からは少しそれている。当たり前だ。的は小さく、手前には木の枝が重なり、そのすべてが小さな風で動いてしまう。

「…………」

 大斗は無言で弓を空に突き返した。その表情には悔しさが垣間見える。本気で狙って外したのだ。

 次に、空が弓を構えた。

「新緑のたてがみ、陽光の瞳――」

 彼の唇が小さく風をつかさどる龍神――風主かざぬしを讃える言葉を紡ぐ。ざわりと一陣の風が吹き抜けた。それに誘われるように、空の指から矢が離れる。

 次の瞬間、ぱつんと。矢は葉の根元を切り落とした。

「あ……」

 ひらひらと舞落ちる葉に、与羽の目と口は丸くなった。

「ふー……」

 空はゆっくりと息を吐きながら、姿勢を戻した。

「賭けはわたしの勝ちということで」

「……お前、なんで神官なんかやってんの?」

 大斗の口から不機嫌に放たれた言葉は、彼なりの称賛だった。

「神がお求めになるから、ですかね」

 空は答えて再び箒を手にした。

「貴重な半刻をありがとうございます。急いで進みましょう」

「……仕方ないね」

 大斗は与羽に箒を返した。
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