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第二部 - 三章 龍の領域
三章一節 - 月の影
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【第三章 龍の領域】
天駆に着いたのは、月が丸く太りはじめた師走(十二月)十二日。早くのぼった月が、空の高いところから見下ろしている。
辰海は山影の頂に浮かぶ白い光を眺めながら物思いにふけっていた。細く開けた窓から入る風は冷たいが、それが冷静な思考を助けてくれる。
絡柳は天駆領主の依頼を断ると言った。与羽のやさしさや思いやりも大切にしたいが、彼女や仲間の安全を考える絡柳に賛同するべきなのは間違いない。政治的に考えてもそう。たとえ同じ龍神を信仰する同盟国同士だとしても、他国の政治や信仰に手や口を出してはいけない。自国のことは自国で解決しなければ、国のためにも希理のためにもならないだろう。
正しいことだとわかっているのに考えてしまうのは、きっとそれに心がついてこないからだ。与羽の気持ちに沿いたかったから。彼女は困っている人を見捨てられない。自分に流れる龍の血に誇りを持つ彼女は、信仰が形だけのものになりつつある天駆の力になりたいと強く願ったはずだ。
――それでも。
与羽の望みは叶えてあげたいが、彼女の身の安全が前提でなければ。頭の中で、繰り返しそう言い聞かせる。そうしたところで、罪悪感が消えることはなかったが。
「与羽……」
呟いたその名は、白い月光にとけていく。
辰海は心を落ち着かせるために、横笛を取り出した。そっと唇に当てて、息を吹き込む。奏でるのは、神事の舞で使われる囃子だ。神の存在に感謝し、人や国をこれからも見守り、助けてほしいと祈る曲。
――こんなもので龍神様や与羽への慰めにはならないだろうけど。
高い笛の音が響く。
明日から、与羽とどう接しようか。辰海は笛を吹き続けながら考えた。
彼女はたぶん、自分の感情を持て余している。溢れる気持ちを整理して、自分を納得させようとしている最中かもしれない。彼女が絡柳や辰海の考えを理解してくれるまで待つべきだろうか。それとも、もっと言葉を足すべきだろうか。
――与羽。
心の中でその名を呼んだ。
――龍神様、僕たちは国のために正しい判断をしましたよね?
そう許しを請うた。いや、神々のことを考えるのなら、希理の頼みを聞くべきだったのだ。きっと、神に国の境目も政治も関係ない。それをわかっているから、こんなにも悩んで、寝られずにいる。
――与羽?
笛を吹きながら、辰海は月明かりに何かを見た気がした。小さな人影。一瞬しか見えなかったが、それは髪の長い少女に見えた。まさか与羽が部屋を抜け出して――。ないと思いたいが、今日の不安定な彼女を見ると全くあり得ないとも言えない。時々、想像もつかないような無茶をやってのけるのが与羽だ。
一応確認しておくべきだ。人違いならそれで良い。
辰海は笛をしまうと、部屋の隅に整理した荷物の中から予備の履物を取り出した。それを履いて、防寒着を羽織り、窓から飛び出す。人影が消えた方へ静かに歩いた。
視界の先でまた何かが動く。頭の高い位置で一つに束ねた黒髪が揺れた。
――与羽!
叫ぼうとしたが、声が出なかった。仕方なく、足を速める。その人影は与羽のようにも、与羽でないようにも見える。後ろ姿や身のこなしは、辰海の記憶にある与羽そっくりだ。ただ、少し背が低いような……。しかし、良くは確かめられない。こちらが急げば向こうも早く、歩みを緩めれば遅く。距離がほとんど詰まらないのだ。
戻るべきだろうかとも考えた。しかし、あれが本当に与羽だったなら? 見失うのは絶対に良くない。多少の違和感はあっても、頭の上で揺れる髪や機敏な動きにはどうしようもなく見覚えがある。見間違えるはずがない確信があった。
小さな影は天駆の屋敷の裏門を出て、山道へと入っていく。不思議なことに、門には一人の衛兵もおらず、辰海は誰にも見とがめられることなく屋敷を出ることができた。この森は神域だと、昼間に天駆の神官――空が言っていた。不用意に立ち入るなと。辰海は小走りで影を追いかけながら、唾液を飲み込んだ。
ところどころに石が敷き詰められた山道は緩やかに上っているが、前を走る少女は疲労をかけらも見せない。葉を落とした梢の影を選んで進むその姿は、時折おぼろげにかすんで見えた。もしかすると、幻を追いかけているのかもしれない。辰海はいつの間にか眠ってしまっていて、今は夢を見ているのかも。そんな思考が浮かんだ。
――なんだろう。
この光景には、既視感がある。それを夢としてでも、再びやり直すことができるのなら――。辰海は過去の苦々しい失敗に歯を食いしばった。
神域に対する畏れ、見知らぬ土地や夜の森への恐れ。
すくみそうになる足を、辰海は無理矢理動かした。ここで諦めたら、自分の気持ちも諦めることになりそうだったから。与羽らしき姿を追いかけながら、辰海は過去を思い出していた。辰海は一度、与羽への気持ちを捨てたことがあった。まだ幼く、大きく複雑な感情を受け入れられなかったから。その結果、「あの時」の辰海は与羽を突き放し、彼女の身を危険にさらしてしまった。
天駆に着いたのは、月が丸く太りはじめた師走(十二月)十二日。早くのぼった月が、空の高いところから見下ろしている。
辰海は山影の頂に浮かぶ白い光を眺めながら物思いにふけっていた。細く開けた窓から入る風は冷たいが、それが冷静な思考を助けてくれる。
絡柳は天駆領主の依頼を断ると言った。与羽のやさしさや思いやりも大切にしたいが、彼女や仲間の安全を考える絡柳に賛同するべきなのは間違いない。政治的に考えてもそう。たとえ同じ龍神を信仰する同盟国同士だとしても、他国の政治や信仰に手や口を出してはいけない。自国のことは自国で解決しなければ、国のためにも希理のためにもならないだろう。
正しいことだとわかっているのに考えてしまうのは、きっとそれに心がついてこないからだ。与羽の気持ちに沿いたかったから。彼女は困っている人を見捨てられない。自分に流れる龍の血に誇りを持つ彼女は、信仰が形だけのものになりつつある天駆の力になりたいと強く願ったはずだ。
――それでも。
与羽の望みは叶えてあげたいが、彼女の身の安全が前提でなければ。頭の中で、繰り返しそう言い聞かせる。そうしたところで、罪悪感が消えることはなかったが。
「与羽……」
呟いたその名は、白い月光にとけていく。
辰海は心を落ち着かせるために、横笛を取り出した。そっと唇に当てて、息を吹き込む。奏でるのは、神事の舞で使われる囃子だ。神の存在に感謝し、人や国をこれからも見守り、助けてほしいと祈る曲。
――こんなもので龍神様や与羽への慰めにはならないだろうけど。
高い笛の音が響く。
明日から、与羽とどう接しようか。辰海は笛を吹き続けながら考えた。
彼女はたぶん、自分の感情を持て余している。溢れる気持ちを整理して、自分を納得させようとしている最中かもしれない。彼女が絡柳や辰海の考えを理解してくれるまで待つべきだろうか。それとも、もっと言葉を足すべきだろうか。
――与羽。
心の中でその名を呼んだ。
――龍神様、僕たちは国のために正しい判断をしましたよね?
そう許しを請うた。いや、神々のことを考えるのなら、希理の頼みを聞くべきだったのだ。きっと、神に国の境目も政治も関係ない。それをわかっているから、こんなにも悩んで、寝られずにいる。
――与羽?
笛を吹きながら、辰海は月明かりに何かを見た気がした。小さな人影。一瞬しか見えなかったが、それは髪の長い少女に見えた。まさか与羽が部屋を抜け出して――。ないと思いたいが、今日の不安定な彼女を見ると全くあり得ないとも言えない。時々、想像もつかないような無茶をやってのけるのが与羽だ。
一応確認しておくべきだ。人違いならそれで良い。
辰海は笛をしまうと、部屋の隅に整理した荷物の中から予備の履物を取り出した。それを履いて、防寒着を羽織り、窓から飛び出す。人影が消えた方へ静かに歩いた。
視界の先でまた何かが動く。頭の高い位置で一つに束ねた黒髪が揺れた。
――与羽!
叫ぼうとしたが、声が出なかった。仕方なく、足を速める。その人影は与羽のようにも、与羽でないようにも見える。後ろ姿や身のこなしは、辰海の記憶にある与羽そっくりだ。ただ、少し背が低いような……。しかし、良くは確かめられない。こちらが急げば向こうも早く、歩みを緩めれば遅く。距離がほとんど詰まらないのだ。
戻るべきだろうかとも考えた。しかし、あれが本当に与羽だったなら? 見失うのは絶対に良くない。多少の違和感はあっても、頭の上で揺れる髪や機敏な動きにはどうしようもなく見覚えがある。見間違えるはずがない確信があった。
小さな影は天駆の屋敷の裏門を出て、山道へと入っていく。不思議なことに、門には一人の衛兵もおらず、辰海は誰にも見とがめられることなく屋敷を出ることができた。この森は神域だと、昼間に天駆の神官――空が言っていた。不用意に立ち入るなと。辰海は小走りで影を追いかけながら、唾液を飲み込んだ。
ところどころに石が敷き詰められた山道は緩やかに上っているが、前を走る少女は疲労をかけらも見せない。葉を落とした梢の影を選んで進むその姿は、時折おぼろげにかすんで見えた。もしかすると、幻を追いかけているのかもしれない。辰海はいつの間にか眠ってしまっていて、今は夢を見ているのかも。そんな思考が浮かんだ。
――なんだろう。
この光景には、既視感がある。それを夢としてでも、再びやり直すことができるのなら――。辰海は過去の苦々しい失敗に歯を食いしばった。
神域に対する畏れ、見知らぬ土地や夜の森への恐れ。
すくみそうになる足を、辰海は無理矢理動かした。ここで諦めたら、自分の気持ちも諦めることになりそうだったから。与羽らしき姿を追いかけながら、辰海は過去を思い出していた。辰海は一度、与羽への気持ちを捨てたことがあった。まだ幼く、大きく複雑な感情を受け入れられなかったから。その結果、「あの時」の辰海は与羽を突き放し、彼女の身を危険にさらしてしまった。
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