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第二部 - 二章 龍の額
二章七節 - 炎狐の葛藤
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「与羽、大丈夫?」
絡柳と大斗が退出したのを見計らって、実砂菜が近づいてくる。
「……もちろん」
与羽は努めて気丈にふるまった。ここにいるのが、実砂菜と辰海だけなら弱音を吐いていたかもしれないが、祖父にはあまり自分の情けない面を見せたくなかった。彼には孫娘が立派に成長していると思ってもらいたかったから。そうでなくても心労が多いであろう舞行に、心配の種を増やしたくない。祖父孝行のためにこの温泉旅行を企画したのに、彼を不安にさせては元も子もないのだ。
「けど、やっぱり乗馬は慣れんし、疲れたわ。股と腰が痛い……」
普段の会話を心がけて、言葉を紡ぐ。
「こら! お姫様がそんな下品なこと言わないの!! ダメダメダメ! 女の子がそんなところ触らない!」
実砂菜は内ももを撫でる与羽の手をすばやく払った。
「え……?」
「まさか本気でわかってない? 春本の一冊か二冊送ろうか?」
春本――。つまり男女、時には同性の性的なあれこれを描いた娯楽本だ。
そこでやっと実砂菜の言葉の意味が分かったようで、与羽の表情が固まった。しかしすぐに何度か瞬きすると、その顔を恥ずかしさでひきつらせる。
「そんなのいらんし!!」
怒ったように実砂菜の頭や肩をぺしぺし叩く。意図的なのか偶然なのか、実砂菜の陽気さは与羽の不安を一時的とはいえ押し流してくれる。
「ひえー!」
実砂菜は両腕で頭をかばいながら、間の抜けた悲鳴をあげた。力を込めていないので、与羽の殴打はさほど痛くないはずだ。
「与羽、その辺で!」
慣れた様子で辰海が制止に入ってくる。与羽の腕をつかみ、なだめるようにその背を撫でた。
「無理しなくていいよ」
耳元に小さく吹き込まれた声は、とてもやさしい。触れる彼の体温はその声同様にあたたかくて、心地よかった。
「与羽、体がつらかったら、部屋で休んでてもいいよ。舞行様には僕がついてるから」
次に声を大きくして、そう提案してくれる。
「ミサ、与羽を部屋へ」
与羽の返事を待つことなく、辰海は実砂菜に依頼した。与羽には思考を整える時間が必要だと判断したのだ。
「んもう。しかたないねぇ。与羽! 城下町に帰ったら、お城から水主神殿まで毎日二往復の乗馬特訓だからね!」
明るい調子で与羽を押して進む実砂菜は、彼女の助けになるだろう。
与羽は明るくて元気だが、時折深く悩み込んでしまうときがある。それはきっと彼女の成長につながるものなのだろう。しかし、辰海はそんな彼女をあまり見たくなかった。悩むのも、苦しむのも、自分や他の人々が引き受けるから、与羽にはいつまでも幸せに、希望と理想だけを夢見て――。
「辰海や」
与羽に想いを巡らせそうになった辰海を引き戻したのは、舞行のしわがれた呼びかけだった。
「いつも与羽を気遣ってくれてありがとうのぅ」
しわの多い顔をさらにしわくちゃにしてそう笑っている。
「いえ、それが僕の務めですから」
辰海は自分の胸にこぶしを当てた。
「そうかそうか」
舞行は目元のしわを一層深めた。彼には与羽の不安や葛藤も、辰海の恋慕もすべてお見通しに違いない。それでも、あまり多くを言わず、見守りに徹してくれている。
「そう言えば辰海、部屋の本棚に天駆の本が置いてあったのを見たかの?」
今も彼はそれ以上与羽の話をすることなく、辰海が興味を持ちそうな話題を振ってくれた。
「はい! 見たことのない本もたくさんあって、ここを離れる前に全部読みたいと思っています」
辰海の生家「古狐家」は、歴史や記録を得意とする家。異国の歴史書や神話本には胸が躍るし、趣味として空想の物語を読むのも大好きだ。
「それならここで読まんか?」
舞行はそう提案してくれた。
「悪いんじゃが、何冊かおもしろそうなものを見繕って持ってきてもらえると助かる」
「喜んで!」
辰海はすばやく立ち上がると、広間を出た。冷たい空気で満ちた廊下の左右には、宿泊部屋の戸が並んでいる。そこに与羽や実砂菜の姿はない。すでに部屋で休むなり、語らうなりしているのだろう。
何か声をかけるべきだろうか。辰海は悩みながらも自分にあてがわれた部屋の本棚から、特に気になる書物を十冊ほど抜き取った。
部屋を出て、足を止める。辰海の目は与羽の部屋を向いていた。
――今、与羽に会うのはやめておこう。
少し考えて、最終的にそう決めた。与羽に合わせる顔がない。辰海は天駆の神事で舞いたい与羽の力になれなかったのだ。彼女にとって、辰海は裏切り者。
本を抱え、辰海は足早に舞行が待つ広間に戻った。できる限り気配を消して、与羽に気づかれないように。逃げるように……。
――ごめん、与羽。でも、それが君のためだと思うから。
心の中で何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。
絡柳と大斗が退出したのを見計らって、実砂菜が近づいてくる。
「……もちろん」
与羽は努めて気丈にふるまった。ここにいるのが、実砂菜と辰海だけなら弱音を吐いていたかもしれないが、祖父にはあまり自分の情けない面を見せたくなかった。彼には孫娘が立派に成長していると思ってもらいたかったから。そうでなくても心労が多いであろう舞行に、心配の種を増やしたくない。祖父孝行のためにこの温泉旅行を企画したのに、彼を不安にさせては元も子もないのだ。
「けど、やっぱり乗馬は慣れんし、疲れたわ。股と腰が痛い……」
普段の会話を心がけて、言葉を紡ぐ。
「こら! お姫様がそんな下品なこと言わないの!! ダメダメダメ! 女の子がそんなところ触らない!」
実砂菜は内ももを撫でる与羽の手をすばやく払った。
「え……?」
「まさか本気でわかってない? 春本の一冊か二冊送ろうか?」
春本――。つまり男女、時には同性の性的なあれこれを描いた娯楽本だ。
そこでやっと実砂菜の言葉の意味が分かったようで、与羽の表情が固まった。しかしすぐに何度か瞬きすると、その顔を恥ずかしさでひきつらせる。
「そんなのいらんし!!」
怒ったように実砂菜の頭や肩をぺしぺし叩く。意図的なのか偶然なのか、実砂菜の陽気さは与羽の不安を一時的とはいえ押し流してくれる。
「ひえー!」
実砂菜は両腕で頭をかばいながら、間の抜けた悲鳴をあげた。力を込めていないので、与羽の殴打はさほど痛くないはずだ。
「与羽、その辺で!」
慣れた様子で辰海が制止に入ってくる。与羽の腕をつかみ、なだめるようにその背を撫でた。
「無理しなくていいよ」
耳元に小さく吹き込まれた声は、とてもやさしい。触れる彼の体温はその声同様にあたたかくて、心地よかった。
「与羽、体がつらかったら、部屋で休んでてもいいよ。舞行様には僕がついてるから」
次に声を大きくして、そう提案してくれる。
「ミサ、与羽を部屋へ」
与羽の返事を待つことなく、辰海は実砂菜に依頼した。与羽には思考を整える時間が必要だと判断したのだ。
「んもう。しかたないねぇ。与羽! 城下町に帰ったら、お城から水主神殿まで毎日二往復の乗馬特訓だからね!」
明るい調子で与羽を押して進む実砂菜は、彼女の助けになるだろう。
与羽は明るくて元気だが、時折深く悩み込んでしまうときがある。それはきっと彼女の成長につながるものなのだろう。しかし、辰海はそんな彼女をあまり見たくなかった。悩むのも、苦しむのも、自分や他の人々が引き受けるから、与羽にはいつまでも幸せに、希望と理想だけを夢見て――。
「辰海や」
与羽に想いを巡らせそうになった辰海を引き戻したのは、舞行のしわがれた呼びかけだった。
「いつも与羽を気遣ってくれてありがとうのぅ」
しわの多い顔をさらにしわくちゃにしてそう笑っている。
「いえ、それが僕の務めですから」
辰海は自分の胸にこぶしを当てた。
「そうかそうか」
舞行は目元のしわを一層深めた。彼には与羽の不安や葛藤も、辰海の恋慕もすべてお見通しに違いない。それでも、あまり多くを言わず、見守りに徹してくれている。
「そう言えば辰海、部屋の本棚に天駆の本が置いてあったのを見たかの?」
今も彼はそれ以上与羽の話をすることなく、辰海が興味を持ちそうな話題を振ってくれた。
「はい! 見たことのない本もたくさんあって、ここを離れる前に全部読みたいと思っています」
辰海の生家「古狐家」は、歴史や記録を得意とする家。異国の歴史書や神話本には胸が躍るし、趣味として空想の物語を読むのも大好きだ。
「それならここで読まんか?」
舞行はそう提案してくれた。
「悪いんじゃが、何冊かおもしろそうなものを見繕って持ってきてもらえると助かる」
「喜んで!」
辰海はすばやく立ち上がると、広間を出た。冷たい空気で満ちた廊下の左右には、宿泊部屋の戸が並んでいる。そこに与羽や実砂菜の姿はない。すでに部屋で休むなり、語らうなりしているのだろう。
何か声をかけるべきだろうか。辰海は悩みながらも自分にあてがわれた部屋の本棚から、特に気になる書物を十冊ほど抜き取った。
部屋を出て、足を止める。辰海の目は与羽の部屋を向いていた。
――今、与羽に会うのはやめておこう。
少し考えて、最終的にそう決めた。与羽に合わせる顔がない。辰海は天駆の神事で舞いたい与羽の力になれなかったのだ。彼女にとって、辰海は裏切り者。
本を抱え、辰海は足早に舞行が待つ広間に戻った。できる限り気配を消して、与羽に気づかれないように。逃げるように……。
――ごめん、与羽。でも、それが君のためだと思うから。
心の中で何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。
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