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第一章

第14話/Rumor

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夜が更けたというのに、ストリートは大勢の飲み客で賑わっていた。
俺はとくにあてもなく、ぶらぶらと歩き回っていた。通りには酔っ払いが溢れているから、のんびり散歩とはいかない。けれど、喧騒と酒気に溢れるこの雰囲気はどこか懐かしく感じられた。きっと俺がいた町も、こんなところだったのだろう。

「わはははは!何を言ってんだか!」
「今度はあそこに行こう。大丈夫だって、うまいんだから!」
「ちょっとお客さん!今夜はうちで飲みましょうよ!外れなしですって!」

そんな空気に耳を傾けながら、俺はさっきの、アプリコットとの話を思い出していた。
彼女の言っていた、取るべき“責任”という言葉。先代は途中で身を引いたがために、彼女たちはより苦しい事態へと追い込まれてしまった。しかし、先代には彼女たちを見守り続ける時間が残されていなかった。
先代はどうするのが正解だったのだろう?

「おっと」

考え事に熱中しすぎて、目の前からやってくる酔っ払いに気づかなかった。俺一歩引いて道を譲る。

「ぅおい兄ちゃん、気を付けろぃ!」

千鳥足の酔っ払いががなり立てた。酔っぱらいはあっちにふらふら、こっちでゴミ箱にぶつかりながら去っていった。たく、どっちが“気を付けろ”だよ……

彼の背中をひとしきり見送った後、俺は再び歩き出そうとした。

「うわ!」

びっくりした。いつのまにか、目の前に背を向けた男が立っている。いつ現れたんだ、全然気が付かなかった。

「……兄ちゃん、気ぃ付けろよ」

「す、すみません。人がいるとは思わず……」

「ワシじゃねぇ。あの猫娘のことだ」

「え?」

猫娘?もしかして、アプリコットのことか?

「あなた、彼女のことを知って……?」

「あいにくと、今のワシじゃあ何もしてやれんからな。お前さん、あいつのこと気にかけてやってくれや」

男は相変わらず、こちらを振り向かずに続ける。

「ちょ、ちょっと待ってください。俺の質問に……」

「あ、あとここはおすすめするぞ。一杯ひっかけてきな」

は?なんだって?

「……いらっしゃい」

突然、寡黙な声が聞こえてきた。
ぶつかりそうになった拍子に、俺は道端の屋台に片足を突っ込んでいた。声はそこの店主のものらしい。

「え、いや、俺は」

「……ご注文は?」

俺の話を聞かずに店主が続ける。だけど、さっきの男との話が……

「あれ……?」

いない。さっきの男の姿は、忽然と掻き消えていた。ストリートにはいまだ大勢の人がごった返している。この中から探し出すのは無理だな……

「……まずは席に座ってくだせぇ、ダンナ」

店主は有無を言わさない口調だ。仕方ない、なんだか酔う前から狐につままれた気分だ が、ここで少し飲んでいくか。こういう出店だと、いろんなうわさ話も流れてきそうじゃないか。
暖簾をくぐると、店主のオヤジが一人、四角い鍋の前に立っていた。鍋はいくつかに区切られ、中で具材が煮られている……おでんだな、これは。
丸椅子をきいっと引いて腰かけると、オヤジが鍋を見つめたまま口を開いた。

「……なんにしやしょう」

オヤジの顔はよく日に焼けていた。短い髪は真っ白だったが、がっしりした体つきと鋭い目元が加齢を感じさせない。

「適当に見繕ってくれ」

「へい」

オヤジは熱燗を一本と、適当な具をいくつか鍋からすくった。
熱燗を一口飲むと、胃袋にカーッと熱が満ちていく。俺は目をぱちくりさせながら、オヤジに聞いてみた。

「なぁ、オヤジさん。オヤジさんはこの町のボスって、誰だと思う?」

オヤジは目だけをこちらへ向けた。

「……言ってる意味がよく分かりやせんが」

「深く考えなくていいです。酒の肴に、ちょっと付き合ってもらいたくって」

オヤジはむっつり黙ったままだ。乗ってくれないだろうか? 
俺が次の一言を考えていると、オヤジはおもむろに口を開いた。

「……普通に考えれば、お上でしょうな」

おかみ?ああ、警察や政府といった、いわゆる国家権力のことか。

「ですが、ここは首都から離れっちまってるから、お上の目も届かない。となると、次に来るのはヤクザだとか裏組織だとか、地の下を這う連中だ。実質、奴らがこの町全体を仕切っているようなもんですな」

ヤクザの町。ウィローが言っていた通り、この町の裏社会は大きな力を持つらしいな。俺がヤクザだとわかったら、オヤジはどんな反応をするだろうか。

「が、焦点をここら一帯だけに絞るってんなら、それは変わってくる」

「え?それはいったい、どういう?」

俺は思わず身を乗り出した。カウンターがぎしりと軋む。

「ここら一帯の風俗は、ある人物が握っていやす。最近になって力をつけた、やり手だとか」

なんだ。肩から力が抜けてしまった。知っての通り、これはアプリコットのことだ。

「が、それもまた誤りだ。この辺の店“すべて”を懐に収めてるのが、ここの真の支配者ですよ」

「……なんだって?」

俺の体に再び緊張が走った。

「このへんに店を構えてるもんで知らないヤツはいませんぜ。表向きには風俗街の若手が力を持っているように見えますが、実態はそいつらが裏から糸を引いとるんです」

「……誰なんだ、その黒幕は?」

「さあ。そいつは知りません」

ずる。思わず椅子から転げ落ちそうになった。

「怪しきは嗅ぎまわらないのが、この町で長生きするコツでさぁ。お客さんも火遊びはほどほどにしとかねぇといけませんぜ」

オヤジは俺を試すように、鋭くこちらを見た。
オヤジの言うことはもっともだ。わざわざ藪をつつくことはない。けれど棘(おどろ)の中にしか、俺たちヤクザ者の生きる道はないだろ。

「……人生、太く短い方がいいと思わないか?」

俺はオヤジの視線を真正面から受け止めた。オヤジはしばらく黙っていたが、やがて知りませんぜ、と小さく息を漏らした。

「この通りを一本裏に行ったところに、“ぶら下がり横丁”と呼ばれる裏路地がありやす。そこにはいい“飲み屋”があるんですよ」

「え?」

「あっしのおすすめです。行くかどうかは、お客さんにお任せしやすが」

……なるほど。そこへ行けば、なにか手がかりがあるかもしれないってことか。

「……そうだな。次はそっちにでも行ってみるか。オヤジさん、ご馳走さま。そろそろ行くよ」

「へい」

あ……そうだ。ついでにこれも聞いとこう。

「オヤジさん。席に着く前、俺が話していた男がいただろ?オヤジさん、そいつの知り合いだったりする?」

「……?知りやせんな」

オヤジは不思議そうに一度まばたきをした。

「そうか……この店のこと、そいつは贔屓にしてるみたいだったんだけど」

「いえ、そうではなく。お客さんが話していた男というのが、そもそも分かりやせん。お客さんは、初めからお一人に見えましたが」

「……え?」

すーっと、酔いが引いていくようだった。すると俺は、幽霊にでも会ったのだろうか……?

「……少し飲みすぎたみたいだ」

「そのようですな」

「も、もう行くよ。それじゃ」

俺はカウンターに金を置くと、屋台を後にした。奇妙な店に、奇妙な出来事。今夜のことは、なかなか忘れられなそうだ。



「ぶら下がり横丁……ここ、か」

そう印字されたプレートがあるから、やっぱりここに間違いないのだろう。この、いかにもヤバそうな雰囲気の、暗い通りが……

「……こんなとこに一人なんて」

気が進まないなぁ。
表通りの明るさとは一転、裏路地は店の明かりもほとんどなく、所々に頼りなく明滅する街灯がたたずむだけだった。少し奥まった暗がりには、ゴミや誰かの吐瀉物といった、様々な汚いものが夜の闇に紛れている。

「ん?うわ、あれって……」

ゴミ山の裏に、こんもりと丸まったもの。あれは……人?よく見ると物陰には、ちらほらと人がいた。ただ酔いつぶれているだけなのか、それとも……ふ、深く考えないことにしよう。

俺はそろそろ、闇に包まれた横丁に足を踏み入れた。
街灯から街灯へと、とび島を渡るように歩く。あいだの暗がりでは自然と足が速くなった。
横丁にのっぺりと横たわる、汚泥のような異質な空気に、知らぬ間に俺はずいぶん気を張り詰めていたらしい。だから足元に転がる何かを蹴飛ばしたときは、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。

「っとお!な、なんだ今の?」

俺が蹴飛ばしたそれは、カラカラと地面を転がっていった。街灯の明かりに照らされるそれは……

「ハイヒール……?」

それは黒いハイヒールだった。なんでこんなものが?しかも片足だけ……
蹴飛ばしたそれのところまで歩いていくと、その少し先にもう一足のヒールが落ちていた。そしてさらに先にあるゴミ山、そこに突っ込むように、一人の女が倒れていた。

「うわっ。だ、大丈夫か!?」

慌てて駆け寄ると、その女の頭にはふさふさの耳が生えていた。あれは……猫の耳?よく見れば、破けたスカートからは尻尾がのぞいている。そしてハイヒール……俺の脳内に、コツコツと鳴り響くかかとの音がよみがえった。

「もしかして……アプリコットか?」

「うぅ……あんた誰よ……」

顔だけをこちらへ向けた女は、やっぱりアプリコットだ。だが、さっきの格好とは様子が一転していた。ふわふわの髪はグシャグシャにもつれ、ドレスはズタズタだ。そして何より……

「傷だらけじゃないか!どうしたんだ一体!」

彼女の全身には、切り傷や擦り傷が無数に刻まれていた。ところどころあざやみみず腫れの痕も見える。アプリコットは俺の声に、やかましいと言いたげに顔をしかめた。

「おっきな声出さないでよ……あんた、さっきの。ジジイのとこの新入りね……」

「そうだ。いや、そんなことどうでもいい。早く手当てを……」

俺はアプリコットの肩を掴んで、抱きおこそうとした。だがその時、アプリコットは雷鳴のように叫んだ。

「触らないで!」

俺はびっくりして固まってしまった。
アプリコットは自分の肩を抱いて、はぁはぁと荒い息をしている。興奮というよりは、恐怖の息づかいだ。……この光景は見たことがあるな。怯えるルゥの吐息が、今の彼女とぴったり重なって見えた。

「……今のきみを放っておくことはできない。せめて肩だけでも貸させてくれ」

「うるさいわよ。こんなの、見かけほどひどくないの。あたしだけで平気だから、どっか行ってったら!」

「そうは見えないんだって。今だって立ててないじゃないか」

「あーもう!平気だってば!今は少し……休憩してただけよ!」

アプリコットは怒鳴りながら立ち上がろうとして、どしんと尻もちを着いた。この強情娘、意地でも手を借りないつもりらしい……いいだろう。ならヤクザらしく、強硬手段だ。

「ようし。それならこっちにも考えがあるぞ」

辺りを見回すと、あった!少し潰れているが、空ダンボールがビルの脇に積み重なっている。俺はダッシュでそれをひっつかむと、アプリコットのもとへ飛んで戻った。

「何?そんなものでどうす……きゃあ!やだ、なにすんのよ!」

「おりゃあ!どうだ、これなら指一本触れてないぞ」

俺はアプリコットのお尻を押し込むと、ダンボールごと彼女を抱えあげた。わはは、俺はあくまで箱のほうを持って、体には触れていないからな。。文句を言われる筋合いはない。

「ばかっ、この変態!下しなさい、おろせー!」

しかし、俺の屁理屈はアプリコットには通じなかったようだ。お尻がはまって身動きが取れないアプリコットは、自由な手足でジタバタ暴れまくる。だが、その程度で折れる俺ではない。 
俺は無抵抗という抵抗を決め込んだ。たとえどんなに(バシッ)暴れる彼女に(ボコッ)顔や肩を(ドカッ)殴られても無視し続けた。

「はぁーっ、はぁーっ……」

「……いい加減諦めるんだな。言っておくが、俺は絶対に下さないぞ。大人しく送られろ」

「このっ……バッカじゃないの……」

あきらめたのか、ようやく彼女もおとなしくなった。だいぶ強引な手だったが、こうでもしないと彼女は折れないだろう。しかし……これじゃ助けてるのか、脅してるのか、分からないな。

「ゴホン!よし、とっとと行こう。一度医者に診てもらった方がいいかな。この辺で病院は……」

「……病院はやめて」

アプリコットはふるふる、と首を振った。

「え。しかし、ほかだと……メイダロッカの事務所とかでもいいか?あそこなら救急箱くらいなら……」

しかしアプリコットは、この提案にも首を振った。

「じゃ、どうする?他に行くあてがあるか?」

「……あたしの家、この近くなの。そこまで連れてって」

家?そうか、この辺に住んでたのか。しかし、ここの通りは見るからに怪しく、みすぼらしい。こんな辛気くさいところに、風俗街のボスが住むような豪邸があるのかな。

「わかった。とりあえず、早いとこ傷を見よう。案内してくれ」

「ん……こっちよ」

俺はアプリコットの指示に従って、薄暗い通りを歩いていった。時おり、路地の奥のほうから怒声が聞こえたりしたが、アプリコットはいつものことだというように、顔色一つ変えなかった。
十分ほど歩いただろうか。崩れかけたボロボロの廃屋の前に差し掛かった時、アプリコットが俺を止めた。

「とまって。ここよ」

「え?ここっていっても……」

辺りを探しても、その廃屋以外にめぼしい建物は見当たらない。

「どこ見てんのよ。目の前にあるでしょ」

「えぇ!このボロ家か!?」

「失礼ね。立派なアパートじゃない」

あ、アパート……?これが?辛うじて部屋らしきものは見えるが……蔦が生い茂り、窓ガラスは割れ、扉にガムテープでバッテンがつけられたこの建物を、現役のアパートと分かるやつはいないだろう。

「裏に回って、階段があるから。あたしの部屋、二階なの」

し、しかも二階建てだったのか……こうなると地下室に秘密の実験場があってもおかしくないな?
アパートの裏へ回り込むと、雑草だらけの裏庭があった。草はらからにゅっと天に伸びているのは、期待を裏切らないオンボロ階段だ。

「……これ、のぼって大丈夫だよな」

「当たり前でしょ。もう何度も使ってるわよ」

「そ、そうだよな。よし」

俺は一歩、階段に足を踏み出した。
ギシィ。鉄のステップが嫌な音を立てる。二段、三段……

「あ、でも」

中程に差し掛かった頃、アプリコットが思い出したように呟いた。

「いつもはあたし一人だからかしら。普段よりよっぽど軋んでるわね」

「なに!」

ちょうどそのタイミングで、足下から一際大きな音が立った。ミシシ、バキッ、ギギィー!!

「う、うわあぁぁぁ!」

俺はケツに火が付いたように階段を駆け上った。ドタドタドタ!
そ、底が抜けるかと思った……ぜえぜえ息をする俺を見て、アプリコットはゲラゲラ笑う。

「あははは!うわあ~、だって。なっさけない声ね~!」

「……うるさいな。きみが脅かすからだろ」

アプリコットはひとしきり笑うと、目をこすりながら、ひとつの扉を指さした。

「ここよ。二○一号室」

扉に表札はなかったが、本当にここが彼女の家らしい。
よし、じゃあ彼女を下ろそう。俺が腰を曲げようとすると、アプリコットは何してるの、と箱の中から俺を見上げた。

「もっと近づいてよ。ノブが回せないじゃない」

「え。あ、あぁ、わかった」

一歩前に出ると、アプリコットは片手でノブを握って、アプリコットが戸を開いた。

「開いたわよ。よいしょ」

あれ、これじゃ俺も部屋に入ることになっちゃうぞ?

「えっと……」

「何してんの。早く入ってよ」

「……お邪魔します」

こうなったらとことん付き合おう。俺は薄暗い部屋に足を踏み入れた。

続く

《次回は日曜日に投稿予定です》
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