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プロローグ
しおりを挟む冬が過ぎたが、まだ少し肌寒さを残す時期。
少年は鞄を背負い、靴を履く。
足が重い……心がざわつく。精神的にマイナスな彼は若干の抵抗を見せながら玄関の扉を開ける。
「行ってきます……」
桜木優希《さくらぎゆうき》。名前の由来は優しく希望を持った子になるようにとつけられた。
両親は三年前に他界している。今は家に彼と小学生である彼の妹の二人だけ。金銭的な問題は、母親の友達が最低限の面倒を見てくれているし、もちろん優希自身もバイトをしているため、あまり問題ではない。妹の香苗《かなえ》も、学校では楽しそうにしている。それでも彼の心は常に乱れている。
「よう桜木、昨日ゲーセン行ったせいで今月金がねぇんだわ。……意味分かるよな?」
校門がもうすぐ見える頃、普段から猫背気味の優希に寄りかかるように、背後から肩を組んでそういう彼は、金髪に染め上げた髪に耳にピアスをしている青年。身長は優希よりも大きく、釣った三白眼が一層威圧感を感じさせる。竜崎蒼麻《りゅうざきそうま》は、同じ学校のクラスメイトだ。
優希が通う高校は少し変わっている。
神格高校。まだ創設されてからそれほど経っていない進学校だ。綺麗な外観と整った設備、教師の方もレベルが高く、イベントや部活動も盛んな上、学費なども免除されるという夢のような高校だ。卒業後も大学就職等で生徒の理想をほぼ実現している。入学するにはかなり高い倍率の入試を乗り越えなければならない。しかし、あるクラスだけは特別だ。
それが優希のいる選抜クラスこと二年四組。一から三組は入試を合格しなければならないが、数年に一度、不定期に選ばれる才能を持った人のみ、推薦状というのが届き入学を許される。もともとは普通科のみだったのが、この制度が突然できた理由は公表されていない。
優希もまた、その夢のチケットである推薦状が届いた。評価理由は情報処理の能力だそうだ。パソコンなど家にはないが、中学の授業ではかなりの成績だったからだろうと思い、深くは考えなかった。何せ、学費免除の上、場所も近く、将来も約束される。入学しない訳はなく、入学当時は香苗と大喜びしていた。しかし、今となってはその喜びなど皆無だ。むしろ、多少頑張らないといけないが普通の高校に行けばよかったとつくづく思う。
そんな過去の選択を悔やみながら、優希はポケットから財布を取りだした。大して入っていない薄い財布。そこから千円札を一枚渡す。
「チッ、こんだけしかねぇのかよ。まあいいや、明日はちゃんと持って来いよ」
そう言って竜崎は奪うように受け取った札を懐にしまいながら、とぼとぼと歩く優希を追い越して、先を歩き、待っていたのか竜崎の連れと話ながら、校内へ入って行った。
忙しそうに上履きへと履き替える生徒を横目に、優希は上履きをちゃんと履くようにつま先をトントンとしながら、外靴を下駄箱へとしまう。
優希のクラスは階段を上ってすぐ左、先に校内へ入った竜崎は教室で仲間と話しているだろう。今朝のやり取りなど、今では話にすらされない。それほどまでに今朝のやり取りは当たり前になっていた。
竜崎とは席は離れているが、授業中も彼の視線が気になって仕方がない。背後から突き刺さるような鋭い視線を家に帰るまで味わう毎日。今日もまた、普段と変わらず怯えて過ごすのだろう。そう諦めて優希は教室の扉を開ける。
教室の空気は優希が入ったところで変わらない。竜崎は予想通り机に肘をつきながら、楽しそうに話している。教室に入った優希を一瞥すらせずに。
若干下を向きつつ自分の机に座る。それぞれ仲のいい者同士が集まり、和気藹々と話している空間に、気まずさと居づらさを感じながら、授業が始まるまでの数分を過ごす。竜崎は今のところ優希に興味は無さそうで、すこし安心……出来るわけもなく、
「ちょっと桜木、喉乾いたから飲み物買ってきてぇ。あとでお金渡すから」
優希の視界に入るように、机に手を付いてそう話しかけたギャルっぽい声。机に置かれた手を辿り、その声主を一瞥し、かすれて今にも消えそうな声で、
「でも……この前のお金も……」
「なに?」
上からかけられる威圧的な声に、ビクッとなり喉に何かが詰まったかのように声が出せない優希。
腰あたりまで伸びた赤く染めた髪をいじりながら言う彼女は、三日月香織《みかづきかおり》。この学校では髪を染めることは校則違反ではなく、彼女の大人びた風貌から、その赤い髪はとても似合っていた。なんでも、後輩から“香織様”で通っているらしい。確かに見た目は美人と十分言えるだろう。しかし、彼女の性格を知っている優希には、“香織様”の意味が違って見える。
授業が始まるまであと二分くらい。いまから自販機まで行ってはおそらく遅刻だろう。その上、百円程とは言え、もう何回も買いに行き、一回もお金が返って来たことは無い。おそらく帰ってくることは無いだろう。たとえ返って来たとしてもそれはそれで何か裏がありそうだ。
断るという選択肢は当然存在しない。優希は心の中で深いため息をつきながら席を立つ。床と椅子が擦れる音が、周りの話声でかき消される。そして、こんな時間に教室を出る優希を誰も気にかけることなく、優希もその反応から当たり前のように教室の扉を閉めた。
一番近くの自販機でも、別校舎の食堂前なので歩いて往復五分といったところだ。廊下には誰一人居らず、各教室から聞こえる声を耳に自販機まで歩いていく。
そして、二年四組の教室がある校舎から反対側の校舎に行く途中、優希とは別の道で二年四組のある校舎へと向かう一人の男。
「先生……かな?」
見たことのないその男は、一番白のメッシュが入った紫色の髪に、スラリとした長身と整った顔貌。まさにどこかのモデル雑誌に取り上げられていそうな男だった。
しかし、彼の右手にしているのはどこのクラスかは分からないものの出席簿だという事は分かった。つまり、彼がこの学校の先生である事は間違いないのだが、一年半もこの学校にいる優希が見たことのない人物。もちろん、神格高校の教師を全員覚えているわけではないのだが、あれほど目立つ人だと何かと噂や見た目に記憶がありそうなものだが。
そんな事を考えていると、気付けばもう自販機の前だ。とりあえず通りすがりに見かけた男の事は置いといて、優希は三日月に頼まれた飲み物がある事を確認し、財布を取り出して思い出す。
「そういえば朝殆ど持って行かれたんだっけ……」
財布の中のお札は無く小銭は少々。飲み物を一本買えば、帰るまで何も買えない。他に何かを買う予定はないのだが。
「とっとと買って戻らないと」
授業に遅れる事自体はさほど怖くはない。しかし、竜崎が何を理由にしてくるかは分からない。そっちの方がよっぽど怖い。放課後に呼び出され、授業に遅れたペナルティーとかなんとか言われるのだろう。考えるだけでゾッとする。
優希は最悪の光景が脳裏によぎるのを必死に抑えながら、駆け足で教室に戻った。
********************
優希が教室を出て少し、学校のチャイムがさっきまでの楽しそうな雰囲気に、気怠さをプラスした二年四組の教室。
「先生遅いな。もうとっくにチャイム鳴った けど」
そう気にかけるのは、クラス委員長である逢沢薫《あいざわかおる》。サッカー部のエースで、人をまとめ上げるカリスマ性、文武両道な上に運動しやすいショートヘアと引き締まった体が爽やかさを感じさせ、誰にでも優しく接する彼は、女子生徒から王子様なんて呼ばれている。彼が目的でサッカー部のマネージャーになる人も珍しくない。
「おっは~元気してる? あれ返事がないな~みんないないのかなぁ?」
扉を開けた途端にフランクな挨拶をしてきた男に全員の視線は集中する。そして全員の顔を確認した後、教卓の方まで歩きだす。長い脚と姿勢のいい歩き方、そして何よりその整った容姿に、女児生徒は少しテンションが上がって、教室は賑やかになっていた。
「おーおー元気がいいね。えっとじゃあ自己紹介からしようか。今日は君たちの担任の先生が休みなので代わりに俺がきました。え~神鈴縁巣《かみすずえんす》だ。君たちの紹介は結構、もう知ってるから」
一部白みがかった紫髪の男は神鈴と名乗り、生徒たちの反応を置いてきぼりに、どんどん話を進めていた。
「で、今日ここにいるのは三十九人いるはずだけど……一人足りないな?」
二年四組は四十人で、一人は入学式以降不登校だ。本来留年するはずなのだが、なぜか何の処罰もされていない。それが選抜クラスの特権かどうかは生徒たちが知る由も無い。
「せーんせ、桜木くんは今トイレに行ってるんで、連絡先教えてくださ~い」
「三日月さん、話に関連性が無いぞー」
三日月の対応に笑って返す神鈴に、生徒たちも好感が持てている。
そんな中、神鈴に集まっていた視線は別の場所へと注がれる。
優希が飲み物を片手に教室の戸を開けたのだ。神鈴はそんな優希を見て先ほどとは違った笑顔を向ける。
「おやおや遅刻とはいけないなー。ま、いいから席につきなさい。」
手で先導される優希は神鈴に軽く頭を下げながら自分の席に戻る。途中、三日月のカバンに飲み物は神鈴からは見えないように入れて、絶対にあるはずのない礼が返ってくることを期待して、予想通りの完全無視を決め込む三日月を横目に自分の席えと戻り、椅子を引く。静かな教室ではさっきと違い、椅子の引く音はよく響く。
そして、神鈴は今度こそいるべき全員が揃ったことを確認し、
「さて、じゃあ全員揃ったところで、さっそく始めますか」
そう言った神鈴はチョークを手に取り、黒板に何かを描き始めた。最初に黒板の上下幅限界の円を描き、その中に複数の小さな円と五角形や星などの図形、見たことのない文字などが描かれて、それはまるで魔法陣のような。
「それじゃ、ちょっと眩しいけど我慢しろよ。詳しいことはあっちで説明するから」
何を言っているのか分からず、さっきまでの楽しい雰囲気は疑問と動揺に満ち溢れた状態へと変わり、そんな生徒たちを代表して、薫が神鈴にいくつかある疑問を質問しようとしたその時、
「じゃ、いってらっしゃーい」
パチンと指を鳴らした途端、黒板の魔法陣は七色の輝きを放ち、生徒たちを含め教室中を包み込んだ。
未知の体験に脳の整理がつかず、生徒全員急いで教室を出ようとするものや、動揺して立ち尽くしている者など様々。もちろん優希も何が起こっているか分からず、逃げようにもどうやら腰が抜けた様で動けず、徐々に光が強くなっていく魔法陣を凝視することしか出来なかった。
そして、七色の輝きが収まるころには、教室内の人は誰一人残っていなかった。
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