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【22】内剛外柔~天に在りては比翼の鳥、地に在りては連理の枝
美しくても溝のなか
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宇佐美が言った。
「よくさ、水が合うとか合わないとかって言うじゃん。そういう意味では、俺や杉松やほかの連中もだけど、報国院も御門も、俺らは水があってたんだよな」
幾久は頷く。
そういう意味では、幾久は自分も報国院は水が合っていた。
宇佐美は続けた。
「でも水ってけっこう大事だろ?合わないと死んじゃうし」
幾久は宇佐美の言葉にどきっとした。
「海水の中に淡水魚入れたら死んじゃうじゃん」
宇佐美の言葉は、多分、今の幾久にだからこうして響くのだと幾久も判る。
多分この話を一年前に聞いていても、ただの誰かの経験談でしかなかったに違いない。
そして、宇佐美が幾久に何を言おうとしているのかも、きっと一年前のままなら気づかなかっただろう。
(じゃあ、誉はいま)
もし、この場所が。
例え生まれ育った場所であっても、御堀にはずっと水が合っておらず、その事に気づかず過ごしてきて。
そしてやっと、水の合う場所にたどり着いたのに、こうして元居た場所に戻らされるというのなら。
「―――――誉は、藻掻いてんすかね」
ひょっとしてたった一人で。
息苦しい場所に居るのだとしたら。
考えるだけで、まるで幾久の首は絞められような気分になる。
「そうだとしたら、早めに行かなくちゃな」
宇佐美がそう言い、幾久は「ウス!」と元気よく答えた。
(絶対に、オレが引き上げてやる!)
もうたった一人で堪えさせたりするものか。
隠したって見つけてやる。
そう幾久は気合を入れた。
本振袖の若々しい撫子の地色に、描かれているのは大輪の牡丹。
帯は白練色に惜しげもなく金糸を使った豪華で艶やかな吉祥柄がこれでもかと織り込まれている。
帯揚げは若緑色の絞。
顔は薄くメイクされ、口には美しい紅。
髪はアップにされ、髪飾りは着物とお揃いの牡丹の花、白い美しいリボンは幼さを残す少女に良く似合っていた。
誰が見ても手放しで褒めるだろう、そんな彼女の表情は隠してはいるが憮然としている。
御堀同様、こんな茶番、と思っているのは明らかだった。
小早川(こばやかわ)芙綺(ふうき)は、御堀の幼馴染である、小早川(こばやかわ)織人(おりと)の妹だった。
芙綺の年齢は御堀よりひとつ下で、当然御堀とも幼馴染だ。
だが、こんな茶番にまで巻き込まれるとは思っていなかったのだろう。
お互いを見て表情をゆがめてしまった。
それだけで、互いが似た立場であることは気づいた。
正月三が日目、天満宮でのこれ見よがしの撮影会は、当然お参りをしている人の目を惹いた。
黒紋付羽織袴の御堀と、雪の下の色合わせの振り袖姿の小早川はどんなに隠れても目立った。
あれみて可愛い、兄弟かしら、ひょっとして許嫁かしら、まるで結婚式みたい、可愛い、カッコいい、素敵ねえ。
あ、カメラマンが居る。撮影会よ、やっぱりね。
美男美女でお似合いね。
そんな言葉が聞こえても、御堀にはもう愛想笑いをする気力さえない。
ただ、不機嫌にならないだけで精いっぱいだ。
せめて姉の椿子が居てくれたら、あれこれフォローをしてくれるのだろうけれど、生憎姉には来なくていい、と言ってしまったし、そのほうがきっとトラブルもなく終わるだろうと思ったのは御堀自身だ。
(思った以上に、キツイな)
御堀はそう考えてため息をつく。
ほんの数日の我慢だと思ったけれど、実際家に帰ってから改めて自分の環境や、人々の話を聞いていると、思った以上に自分がおもちゃにされていたことに気づいた。
しかも余計な事に気づくようになってしまったせいで、本音がこれ以上ないほど見えてしまう。
これまでなんとも思っていなかった賞賛の言葉や羨望の眼差しの中に、御堀に対する嘲りや見下しなんてものが目に見えて判るようになってしまっていた。
そしてそれは多分、芙綺も同じで、だからあんなにも奇麗な着物を着ても、心からの笑顔なんて見せないのだろう。
(どうでもいい。早く終わってくれないかな)
賞賛も嘲りも、今の御堀には同じ響きでしか届かない。
あの時とは違う。
桜柳祭のロミオとジュリエットで、大喝采を浴びたあの舞台では、どんな格好でもどんなセリフでも、どんな目で見られても、御堀には誇りでしかなかった。
なぜだろう。
そう思った時だった。
「すみません、彼のほう、こっち向いて貰えますか」
カメラマンから御堀に声がかかった。
「はい」
御堀は頷き、カメラマンの方へ向いた。
丸いレンズがこちらを向いていた。
まるで無感情な視線をまとめてくらっているような気になって、御堀は思わず眉をひそめた。
―――――嫌な気分だった
どうしようもないくらい、息苦しくてたまらない。
誰か。
そう考えかけて、御堀は考えることをやめた。
ずっとここでは、こうしてやり過ごしてきた。
だから、今回もそうするしかないのだから。
天満宮での撮影を終え、昼食の時間となった。
古くからある茶室の一室に、松花堂弁当を用意された。
簡素なものとはいえ立派な懐石で、木の枠に盛られた鮮やかな料理は、いつもであれば楽しめただろう。
だけど目の前にあるのは、御堀にとってただ、見合い前に静かにする為与えられたきれいなだけの餌だ。
どうしたの、と質問されるのが面倒で、箸をつけるも、当然食が進むはずもない。
どんな色とりどりの食材も、まるで食べられるだけの蝋の作り物のようだ。
お人形扱いされて見せびらかされ、食事は蝋なんて、本当に人じゃないみたいだ。
御堀はそう思って笑った。
自分の冗談に御堀が笑ったのだと勘違いした、この席を用意した知り合いの男が、一層機嫌よく笑う。
くだらない。つまらない。
これまで自分はこの空間をどうやってやり過ごしてきたのだろうか。
去年の自分よりはよっぽどものが分かるようになっているはずなのに、今すぐ逃げ出したい程に居心地が悪い。
笑い声がまるで頭の上から悪臭まみれの溝(どぶ)の水でもかけられているように感じる。
御堀の見合い相手の小早川も同じなのだろう。
それとも慣れない帯が窮屈なのか、御堀以上に箸が進んでいない様子だ。
まあこの子ったら、いつもはもっと食いしん坊なのに、照れているのかしらねえ、そう言ってげらげらと笑うのは、さっき御堀が笑ったと勘違いした男の妻だ。
御堀と小早川の婚儀が整えば、自分が仲人として御堀庵にも小早川の家にも顔が立つようになり、御堀と小早川の後見人としてあれこれ口出しできるようになる。
そう思って楽し気な様子を隠さない夫婦に、御堀はもう吐き気すらしそうだった。
去年はもっと、自分は強かったような気がしていた。
もっと上手に、きれいに躱せていたはずだし、こんな事をいちいち気にはしていなかった。
あまりに年明けまでが楽しすぎたせいだろうか。
一気に自分が弱い人間になってしまったような気がする。
みっともない、もっとちゃんとしなくちゃ。
そう思っても、箸はまるで鉛でできているかのように重くて、とうとう御堀は、持っていた箸を下ろした。
宇佐美の言う通り、天満宮はすさまじい人出だったらしい。
毛利邸と天満宮は近所にあるそうなのだが、結局そこへ行くまでに渋滞に巻き込まれてしまった。
巻き込まれないように大回りして逆の方向から向かったのだが、それでも同じことを考える人が沢山いたらしい。
「いやー、順調に渋滞だねえ」
「こういうの順調って言うんスか?」
間に合うかどうかを気にする幾久は、進まない車にはらはらする。
いっそ場所だけ調べて走って行こうかと思う程だ。
そんな焦る幾久に宇佐美は笑った。
「大丈夫だって。もともと余裕もってんだし、いくら渋滞ったって、事故でもない限りはなんとか動くよ。慌てない慌てない」
「慌てたいっす……」
たった一人でやり過ごそうとしている御堀の気持ちを考えたら、幾久はいてもたってもいられなくなる。
スマホをわざと置きっぱなしなんて、桜柳祭の時と同じだ。
それだけ追い詰められているという事だろう。
幾久が頻繁にメッセージを送れば、どうしても見てしまうだろうしひょっとしたら頼ってしまうかも、と御堀の事だから考えたに違いない。
(だったら、助けてって言ってくれたらいいのに)
そう思いながらも、幾久は御堀が決してそんな事を言わないのは判っていた。
特にこんな自分の家の事なんか、幾久にはちっとも関係ない。
だったら絶対に一人でやり過ごしてしまえばいいと御堀だから考えるだろう。
「こんなの正直、オレがやんのはお節介って判ってるんすけど。でも一秒でも早く、誉んとこ行きたいんす」
幾久が言うと、宇佐美は楽しそうに頷く。
「お節介だから、早く行きたいんでしょ?わかるって。だけど焦るな。行動は素早く、だけど落ち着いて」
「宇佐美先輩はどっしりしてるっすね」
焦る幾久とは対照的に、宇佐美はむしろ楽しそうだ。
そういえば、宇佐美は毛利やマスターよりひとつ上とは言っていたが、毛利よりよっぽど落ち着いているように見える。
そういう性格なのかな、とも思っていたけれどよくよく考えれば宇佐美はかなり、年の割に落ち着いているのではないか?
「余裕綽綽って感じで見ててなんかむかついてきた」
幾久が言うと宇佐美が噴出した。
「あっはっはー、すまんすまん。でもしょーがないんだよ。だって海の上じゃないから焦る理由ないじゃん。時間的にもきっと飯食って一休みして移動だし、まだ間に合うよ」
「だったらいいんすけども」
ふう、と幾久は肩を落とす。
気持ちばっかり焦っているのに、車はのろのろとしか進まないし、宇佐美は機嫌がいいくらいだし、やるべきことが分からずに幾久は焦るしかない。
(こう言う時、先輩の助言欲しいよなあ)
困っていたらすぐ高杉や吉田に聞けば、アイディアを出してくれる。
それだけで幾久にとっては安心できるのに、宇佐美は飄々として笑うばかりだ。
苛立ち、焦る幾久に宇佐美が言った。
「なあいっくん、溺れた時にしなくちゃいけないことって何かわかる?」
「えー?今そんな話、いります?」
「まあまあそう言わずに。クイズと思って」
「もー……」
ふう、と幾久はため息をつくも、焦っている幾久を落ち着かせようと宇佐美が言っているのは判るので、ちょっと考えてみることにした。
「えーと、『浮いて待て』」
溺れた時には静かにして体を浮かせることだと、幾久は先輩たちに教わった。
とはいえ、あの海峡では全く意味がないとも言われたが、あくまで普通の知識としてだ。
「よくさ、水が合うとか合わないとかって言うじゃん。そういう意味では、俺や杉松やほかの連中もだけど、報国院も御門も、俺らは水があってたんだよな」
幾久は頷く。
そういう意味では、幾久は自分も報国院は水が合っていた。
宇佐美は続けた。
「でも水ってけっこう大事だろ?合わないと死んじゃうし」
幾久は宇佐美の言葉にどきっとした。
「海水の中に淡水魚入れたら死んじゃうじゃん」
宇佐美の言葉は、多分、今の幾久にだからこうして響くのだと幾久も判る。
多分この話を一年前に聞いていても、ただの誰かの経験談でしかなかったに違いない。
そして、宇佐美が幾久に何を言おうとしているのかも、きっと一年前のままなら気づかなかっただろう。
(じゃあ、誉はいま)
もし、この場所が。
例え生まれ育った場所であっても、御堀にはずっと水が合っておらず、その事に気づかず過ごしてきて。
そしてやっと、水の合う場所にたどり着いたのに、こうして元居た場所に戻らされるというのなら。
「―――――誉は、藻掻いてんすかね」
ひょっとしてたった一人で。
息苦しい場所に居るのだとしたら。
考えるだけで、まるで幾久の首は絞められような気分になる。
「そうだとしたら、早めに行かなくちゃな」
宇佐美がそう言い、幾久は「ウス!」と元気よく答えた。
(絶対に、オレが引き上げてやる!)
もうたった一人で堪えさせたりするものか。
隠したって見つけてやる。
そう幾久は気合を入れた。
本振袖の若々しい撫子の地色に、描かれているのは大輪の牡丹。
帯は白練色に惜しげもなく金糸を使った豪華で艶やかな吉祥柄がこれでもかと織り込まれている。
帯揚げは若緑色の絞。
顔は薄くメイクされ、口には美しい紅。
髪はアップにされ、髪飾りは着物とお揃いの牡丹の花、白い美しいリボンは幼さを残す少女に良く似合っていた。
誰が見ても手放しで褒めるだろう、そんな彼女の表情は隠してはいるが憮然としている。
御堀同様、こんな茶番、と思っているのは明らかだった。
小早川(こばやかわ)芙綺(ふうき)は、御堀の幼馴染である、小早川(こばやかわ)織人(おりと)の妹だった。
芙綺の年齢は御堀よりひとつ下で、当然御堀とも幼馴染だ。
だが、こんな茶番にまで巻き込まれるとは思っていなかったのだろう。
お互いを見て表情をゆがめてしまった。
それだけで、互いが似た立場であることは気づいた。
正月三が日目、天満宮でのこれ見よがしの撮影会は、当然お参りをしている人の目を惹いた。
黒紋付羽織袴の御堀と、雪の下の色合わせの振り袖姿の小早川はどんなに隠れても目立った。
あれみて可愛い、兄弟かしら、ひょっとして許嫁かしら、まるで結婚式みたい、可愛い、カッコいい、素敵ねえ。
あ、カメラマンが居る。撮影会よ、やっぱりね。
美男美女でお似合いね。
そんな言葉が聞こえても、御堀にはもう愛想笑いをする気力さえない。
ただ、不機嫌にならないだけで精いっぱいだ。
せめて姉の椿子が居てくれたら、あれこれフォローをしてくれるのだろうけれど、生憎姉には来なくていい、と言ってしまったし、そのほうがきっとトラブルもなく終わるだろうと思ったのは御堀自身だ。
(思った以上に、キツイな)
御堀はそう考えてため息をつく。
ほんの数日の我慢だと思ったけれど、実際家に帰ってから改めて自分の環境や、人々の話を聞いていると、思った以上に自分がおもちゃにされていたことに気づいた。
しかも余計な事に気づくようになってしまったせいで、本音がこれ以上ないほど見えてしまう。
これまでなんとも思っていなかった賞賛の言葉や羨望の眼差しの中に、御堀に対する嘲りや見下しなんてものが目に見えて判るようになってしまっていた。
そしてそれは多分、芙綺も同じで、だからあんなにも奇麗な着物を着ても、心からの笑顔なんて見せないのだろう。
(どうでもいい。早く終わってくれないかな)
賞賛も嘲りも、今の御堀には同じ響きでしか届かない。
あの時とは違う。
桜柳祭のロミオとジュリエットで、大喝采を浴びたあの舞台では、どんな格好でもどんなセリフでも、どんな目で見られても、御堀には誇りでしかなかった。
なぜだろう。
そう思った時だった。
「すみません、彼のほう、こっち向いて貰えますか」
カメラマンから御堀に声がかかった。
「はい」
御堀は頷き、カメラマンの方へ向いた。
丸いレンズがこちらを向いていた。
まるで無感情な視線をまとめてくらっているような気になって、御堀は思わず眉をひそめた。
―――――嫌な気分だった
どうしようもないくらい、息苦しくてたまらない。
誰か。
そう考えかけて、御堀は考えることをやめた。
ずっとここでは、こうしてやり過ごしてきた。
だから、今回もそうするしかないのだから。
天満宮での撮影を終え、昼食の時間となった。
古くからある茶室の一室に、松花堂弁当を用意された。
簡素なものとはいえ立派な懐石で、木の枠に盛られた鮮やかな料理は、いつもであれば楽しめただろう。
だけど目の前にあるのは、御堀にとってただ、見合い前に静かにする為与えられたきれいなだけの餌だ。
どうしたの、と質問されるのが面倒で、箸をつけるも、当然食が進むはずもない。
どんな色とりどりの食材も、まるで食べられるだけの蝋の作り物のようだ。
お人形扱いされて見せびらかされ、食事は蝋なんて、本当に人じゃないみたいだ。
御堀はそう思って笑った。
自分の冗談に御堀が笑ったのだと勘違いした、この席を用意した知り合いの男が、一層機嫌よく笑う。
くだらない。つまらない。
これまで自分はこの空間をどうやってやり過ごしてきたのだろうか。
去年の自分よりはよっぽどものが分かるようになっているはずなのに、今すぐ逃げ出したい程に居心地が悪い。
笑い声がまるで頭の上から悪臭まみれの溝(どぶ)の水でもかけられているように感じる。
御堀の見合い相手の小早川も同じなのだろう。
それとも慣れない帯が窮屈なのか、御堀以上に箸が進んでいない様子だ。
まあこの子ったら、いつもはもっと食いしん坊なのに、照れているのかしらねえ、そう言ってげらげらと笑うのは、さっき御堀が笑ったと勘違いした男の妻だ。
御堀と小早川の婚儀が整えば、自分が仲人として御堀庵にも小早川の家にも顔が立つようになり、御堀と小早川の後見人としてあれこれ口出しできるようになる。
そう思って楽し気な様子を隠さない夫婦に、御堀はもう吐き気すらしそうだった。
去年はもっと、自分は強かったような気がしていた。
もっと上手に、きれいに躱せていたはずだし、こんな事をいちいち気にはしていなかった。
あまりに年明けまでが楽しすぎたせいだろうか。
一気に自分が弱い人間になってしまったような気がする。
みっともない、もっとちゃんとしなくちゃ。
そう思っても、箸はまるで鉛でできているかのように重くて、とうとう御堀は、持っていた箸を下ろした。
宇佐美の言う通り、天満宮はすさまじい人出だったらしい。
毛利邸と天満宮は近所にあるそうなのだが、結局そこへ行くまでに渋滞に巻き込まれてしまった。
巻き込まれないように大回りして逆の方向から向かったのだが、それでも同じことを考える人が沢山いたらしい。
「いやー、順調に渋滞だねえ」
「こういうの順調って言うんスか?」
間に合うかどうかを気にする幾久は、進まない車にはらはらする。
いっそ場所だけ調べて走って行こうかと思う程だ。
そんな焦る幾久に宇佐美は笑った。
「大丈夫だって。もともと余裕もってんだし、いくら渋滞ったって、事故でもない限りはなんとか動くよ。慌てない慌てない」
「慌てたいっす……」
たった一人でやり過ごそうとしている御堀の気持ちを考えたら、幾久はいてもたってもいられなくなる。
スマホをわざと置きっぱなしなんて、桜柳祭の時と同じだ。
それだけ追い詰められているという事だろう。
幾久が頻繁にメッセージを送れば、どうしても見てしまうだろうしひょっとしたら頼ってしまうかも、と御堀の事だから考えたに違いない。
(だったら、助けてって言ってくれたらいいのに)
そう思いながらも、幾久は御堀が決してそんな事を言わないのは判っていた。
特にこんな自分の家の事なんか、幾久にはちっとも関係ない。
だったら絶対に一人でやり過ごしてしまえばいいと御堀だから考えるだろう。
「こんなの正直、オレがやんのはお節介って判ってるんすけど。でも一秒でも早く、誉んとこ行きたいんす」
幾久が言うと、宇佐美は楽しそうに頷く。
「お節介だから、早く行きたいんでしょ?わかるって。だけど焦るな。行動は素早く、だけど落ち着いて」
「宇佐美先輩はどっしりしてるっすね」
焦る幾久とは対照的に、宇佐美はむしろ楽しそうだ。
そういえば、宇佐美は毛利やマスターよりひとつ上とは言っていたが、毛利よりよっぽど落ち着いているように見える。
そういう性格なのかな、とも思っていたけれどよくよく考えれば宇佐美はかなり、年の割に落ち着いているのではないか?
「余裕綽綽って感じで見ててなんかむかついてきた」
幾久が言うと宇佐美が噴出した。
「あっはっはー、すまんすまん。でもしょーがないんだよ。だって海の上じゃないから焦る理由ないじゃん。時間的にもきっと飯食って一休みして移動だし、まだ間に合うよ」
「だったらいいんすけども」
ふう、と幾久は肩を落とす。
気持ちばっかり焦っているのに、車はのろのろとしか進まないし、宇佐美は機嫌がいいくらいだし、やるべきことが分からずに幾久は焦るしかない。
(こう言う時、先輩の助言欲しいよなあ)
困っていたらすぐ高杉や吉田に聞けば、アイディアを出してくれる。
それだけで幾久にとっては安心できるのに、宇佐美は飄々として笑うばかりだ。
苛立ち、焦る幾久に宇佐美が言った。
「なあいっくん、溺れた時にしなくちゃいけないことって何かわかる?」
「えー?今そんな話、いります?」
「まあまあそう言わずに。クイズと思って」
「もー……」
ふう、と幾久はため息をつくも、焦っている幾久を落ち着かせようと宇佐美が言っているのは判るので、ちょっと考えてみることにした。
「えーと、『浮いて待て』」
溺れた時には静かにして体を浮かせることだと、幾久は先輩たちに教わった。
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