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【16】バッハの旋律を夜に聴いたせいです

立派な檻の中、響くのは美しい(なき)声

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 学生の頃、杉松のそういう所が好きだよ、と宇佐美はよく言っていた。
 それに賛同するように、よしひろが頷き、毛利も俺も、と言っていた。
 気持ち悪い、そう自分は思っていた。
 高校生にもなって男同士で、なにが好きだ、女がいねえからそんな風になるんだろ。
 そう笑っていても、自分より彼らの方がよっぽどモテて、よっぽど女の子からの評価は高かった。


 一体、自分は何が好きだった?
 毒づくことか?
 攻撃することか?
 チェロは、青木がやらないから始めた。
 お陰で上手にできるようになった。
 評価もされた。だからまあいいか、と思った。
 だけど。

 なぜ君は、ダンスミュージックを認められないのかな。それに君は、本当はおしゃべりをしたいんじゃないのかな。チェロの音はね、人の声に近いとも言われているんだよ。楽器の形は人の形に近いともね。君は本当は、誰かを、何かを抱きしめたいのではないのかね。


 そう言って微笑んでいた、報国院の音楽教師を思い出す。
 青木達をバカだと責め、才能がないと吐き捨てる長井に、教師は静かに微笑んだまま言った。
 長井を穏やかに叱責した教師の事を、長井は嫌いだった。

 昔から知っている音楽教室の教師は、上達しない長井に冷たく言った。

『君は到底青木君の足元にも及ばない』

 どこがだ。長井は思った。
 自分はチェロに進み、青木はもうクラシックなんかと遠く離れた。
 寮でもふざけてロックなんかを聞いてばかりで、練習時間は自分に遠く及ばない。
 なのになぜ。
 長井の疑問に音楽教室の教師は言った。

『彼は音楽と喋っているからね。君は違う。音を道具として使っているだけ。上手には使えている。でもそれだけだ』

 なにが音楽と喋っているだ、芸術家かぶれめ。
 地方の個人の音楽教室の、くされ教師ごときに何が判るってんだ。
 俺はお前よりいい学校に行った。
 俺はお前よりいい教師に習った。
 俺はお前なんかが出れない場所で、チェロを弾いてみせたんだ。

(どうせアイツ等だって、そのうちまた高校生の時みたいに、そこらへんでしかできなくなる)

 乞食と同じだ。
 帽子でも置いて、煩いギターでもかきならして、幼稚な言葉を並べて叫んで、どれだけの支持が得られるんだ?

 外ででも弾いてろ。俺は違う。
 きらびやかな場所で、きらびやかな音を。
 金を持って着飾った連中が、ありがたがって金を払って俺のチェロを褒め称えるんだ。
 これまでも、これからも。


『では、名残惜しいですが時間も迫ってきたので、このあたりで私はお暇となります』
 犬養が言うと生徒から、えーっという声が上がった。
 生徒達の声に、犬養は笑顔で応じた。
『と、言ってもですね、本来ならチケットを購入しないと聴けないプロのコンサートですから、勿論、私も職権乱用で聴きますよ!でないと夕方のニュースで喋ることがなくなりますからね』
 犬養の言葉に、どっと生徒から笑いが起きた。
 千鳥だろう、生徒から「今日のニュース?」という声が上がる。
『あ、今日ですね、夜のニュースで流しますよ。ちょっとだけですが、生徒さんも映るかもですよ』
 わー、やったーと声が上がる。
 賑やかなのはやはり千鳥だ。
『週末には、いまからある長井さんのチェロコンサートも放映されますんで、どうぞ皆様、チェックをお願いします!あ、私のツイッターフォローもよろしく!フォロワー少ないんですよ!本当に!』
 どっと生徒から笑いが起き、千鳥の生徒が「フォローしといた!」と声が上がる。
『あ、ありがとうございます!でも今からコンサートがありますからね、先生に叱られない程度に、後からお願いします』
 犬養がそうやって時間を作っている間、長井はチェロを弾く準備に入っていた。
 一端舞台から下がり、チェロを抱えて出てくると生徒から拍手が上がった。

 生徒に一礼すると長井は再び椅子に腰を下ろし、チェロを抱えた。

『では、皆さま、大変お待たせしました。我が報国院の出身でチェロコンクールでも優勝を果たした、世界的チェリスト、長井時雅のコンサートを開始します。まず、最初の曲は、バッハの無伴奏チェロ組曲―――――』

 ブザーが鳴り、ステージの証明が落とされ、長井の所だけにスポットがあたる。
 しんとなった講堂の中、長井は静かに弾きはじめた。

 チェロの音が響きはじめると、その音に皆、心を惹かれた。
(やっぱり綺麗な音だよなあ)
 この音だけを聴いていると、長井はとっても音楽を好きで、チェロを愛している風に見えるのに。

 生徒達が静かにチェロに聴き入るのを見て、長井はいつも通りのチェロを弾いた。
 バッハの無伴奏チェロ組曲。
 昔から何度となく、というより弾かない日はないだろう。
 学生の頃からずっとこの曲とともに過ごした。
 誰も居ない御門寮の防音室で、一人静かにチェロを響かせた。
 邪魔の入らない環境は最高だったはずだ。
 それなのに、長井はいつも苛立っていた。

 聞えるはずのない、青木達の奏でる音。
 届くはずのない、自分の奏でるチェロの音。

 どれだけ練習しようが、しまいが、防音の部屋では判らない。
 青木達が遊んでいる間にも、ずっと練習しているのに、誰も長井を誉めなかった。
 音楽に全く興味のない祖父も父も、長井のチェロを聴いても理解できないどころか、それがどうかしたのか?と笑うばかりだった。
 そのくせ、他人から、素晴らしい腕前のチェロですね、と誉められれば、いやあ、あいつの努力は凄いものですよ、と豪快に笑っていた。
 所詮自分は道具でしかなかった。
 それだけのことだ。

『音を道具として使っているだけ。上手には使えている。でもそれだけだ』

 いつか音楽教室の教師に言われた言葉が長井に突き刺さる。
 うるせえな、道具で何が悪い。
 所詮誰だって誰かの、なにかの道具だろ。
 俺が家族の自慢の道具なら、チェロだって俺の、俺自身の自慢の道具だ。それで金を稼いで何が悪い。

 長井のチェロを感心して聴いても、すぐにそれは忘れられてしまうのだろう。
 そんなものだ。所詮音楽なんか。
 どんなに思いを込めて弾いても、どんなに思いを
 こめて作っても、所詮は誰かのBGMに過ぎず、長井の思いはただのだれかの効果音だ。
 しかも、すぐに通り過ぎて忘れられる。
 長井の何百、何千、何万と言う時間は、所詮それだけの道具にしかならない。

『チェロではそんなに綺麗な音を出せるのに、なんで暴言ばかりなんだ』

 杉松の言葉がよみがえる。
 そりゃ、俺がチェロじゃないからだろ。
 残念だったな、お前の望む俺じゃなくて。
 じゃあチェロで喋ってやろうか?
 そのほうがいいよな。伝わらないほうがお前には都合がいいもんな。

 杉松にそう言ってバカにして笑った。
 杉松は寂しそうな顔をしていた。

 もう杉松には届かない。
 長井がどれだけ美しい音を奏でようと、どんな暴言を吐こうと、バカにしようがしまいが。
 もう二度と杉松の声を聴くことも無い。
 うっとおしい世界からやっと長井は解放された。

 チェロの音だけが講堂に響く。
(この講堂、ずいぶんと変わったな)
 ぼろっちい建物のはずだったのに、ずいぶんと音響も良くなっている。
 今回だけというのが残念だ。
 これならきっと、気分よく演奏も出来ただろう。

 長井はチェロの世界に入り込んで、音をずっと聴いていた。
 いつものように。

 目を閉じ、御門寮で夜に廊下から見えた世界を思い出す。
 静かな寮の中、チェロの音が反響して響いた。
 あの寮で、チェロはあんな風に響いたのか。
 曲を弾いている間、息苦しいはずの御門寮は、長井のものになったような気分だった。

 長井は御門寮の連中も、報国院の連中も大嫌いだったけれど、だけどあの場所だけは嫌いじゃなかった。
 連中さえいなければ静かで邪魔をする人もおらず。
 木造の割に天井の高い場所で、音は流れ、長井に届く。
 こんな風に流れていたのか。
 こんな風な音だったのか。

 できるなら、別にあいつらの仲間に入れなくても、あの場所で練習したかった。
 そうすれば何かが変わったのかもしれないけれど、長井が用意された立派な防音室は、結局檻にしかならなかった。

 弓を弾き、曲を弾き終わると拍手がおこり、そこで長井は気づいた。
(コンサート中だったな)
 生徒達から拍手が起こる。満面の笑み。
 長井は御愛想で手を振りながら、頭を下げるが、上手に出来た、とだけしか感じなかった。
 いつものチェロ、いつもの曲。
 何曲か、長井のオリジナルの曲を披露して、生徒達はそれなりに大人しく聴いていた。

 御門寮で弾いた方がよっぽど良かった。
 音響はそこまででもなかったけれど。

 古いガラス越し、ゆがむ景色が世界を隔てているのに馴染もうとしているみたいで、チェロの音を吸い込んだように世界は長井が動くと揺れた。

 楽しそうに笑う青木達の姿を、長井は思い出していた。
 昔、ピアノ教室で見た青木は、まるで死んだような目をしていて、そのくせ腕前だけは天才で、長井はそれを素直に凄いと思ったのに、久しぶりに見た青木は昔と全く違う表情で、全身で音楽と遊んでいた。

 尋ねなくても、青木がピアノを、音楽を愛しているのは見て分かった。
 つまらないと馬鹿にした。
 そのくせどんなジャンルでも、青木の才能は疑いようがなかった。

 好きだなんて何の意味もないと思った。
 好きなら練習を好きになるべきだと思った。

 長井は、突然気づいた。


(俺は―――――)


 チェロを好きだった事なんか

 あるのか?



 長井のチェロは美しく、いつもならすぐに飽きてしまう千鳥でさえ、おとなしく聴き惚れていた。

 長井が演奏を終えると、生徒からは拍手が上がり、まるでどしゃぶりの雨のような音が講堂に響いた。
 その中で、幾久も、児玉も御堀も、三人は素直に長井に拍手を送った。
「やっぱ、すげえなあ」
 児玉は他人の努力や実力を素直に誉める。
 そんな所が幾久は、いいな、と思った。
「タマって、他人の努力もちゃんと認めるよね」
「当たり前だろ?こんなの聴かされちゃ、文句も言えなくなっちまう」
「タマのそういうトコ、オレ、好きだよ」
 幾久が言うと、児玉は笑った。
「おう。長井先輩みてーに、ならないようにとだな」
「なる訳ないじゃん」
 幾久が言うと、児玉はそうか?と首を傾げた。
「なんか一回意地はって、謝ることができなくてさ、自分は間違ってない、相手のせいだって思ったら案外一生、引きずるんじゃねえのかなって思った」
「それは僕も、判る気がするな」
 御堀が言うと、幾久は「そうなの?」と尋ねた。
「そうだよ。だってもし、僕がここを気に入ったのを、もしだけど、姉に意地を張ったりして、別にこんな場所好きじゃない、受験しない、って言ったら、今の僕はここに居ないんだよ」
「―――――そう、なのか」
 幾久が驚くと、御堀も「そうだよ」と言う。
「別にそれでも僕はきっと、ここの事をすぐに気にしないようにして、なにかあったら、やっぱりこっちに来るべきだった、なんて後悔ばっかりすると思うんだ。たった一つの意地を張ったばっかりに」
「誉はそういうのなさそうなのに」
「あるよ」
 御堀は言った。
「もし僕が意地を張って、行かないって言って、それを姉が受け入れたら、なんでもっと教えてくれなかったんだ、とか姉を責めていたかもしれない。ずっと恨んだかもしれない。そう考えたら、長井先輩の立場は他人事じゃない気もする」
 ほんの少し掛け違えただけで。
 ほんの一言がなかっただけで。
 関係は全く違うものになってしまう。
「たった一言で、そうなるのって怖いな」
 幾久が言うと、御堀が首を横に振った。
「たった一言の気遣いすらないから、間違ってしまうと僕は思うよ」
 たった一言で、そんなことがあるものか。
 御堀は思う。
 結局、それまでの疑いや、流されて来たものや、見ないふりをしてきたものが、なにかのはずみで決壊するだけだ。
 だから、結局いつも考えておくしかない。
 自分は何を考えて、どんな風に行動しているのか。
 そうでなければ、結局は投げつけた、たった一言で判断されてしまうのだ。

「長井先輩、もう引っ込みがつかなくなってるの、自分でも本当は気づいてるんじゃないのかな」

 でもいつまでも、誰かが相手をしてくれるわけじゃない。
 早く大人にならないと、母親はもう、傍にいないのだから。
 いびつな醜い、母親を求めているだけの大きな赤ん坊になってしまう前に。
 長井のような。
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