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【16】バッハの旋律を夜に聴いたせいです

何を取り戻したかったの

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「誰かのを写したのか、それとも自作なのかは判りませんけど、バンドの曲は間違いないです」
 全員は顔を見合わせた。
「これを内緒で持ち帰りたかったって事?」
 御堀は不思議そうにノートをめくった。
 だが、別におかしな内容はない。どこを見ても、ただの手書きの譜面だ。
「そもそも、この楽譜とノート、なんでガタ先輩の部屋にあるんスか?」
 幾久が尋ねると山縣が答えた。
「廊下の俺の箱の置き場所、寮の荷物置とか整理前のものとかも誰か置くことがあるんだよ。ひょっとしたらなんか紛れてるかもと思って桂に聞いたら、去年、確かに卒業生からの寄付でよく判らないものが来たと。それがこれだ」
「寄付?この寮に?」
 児玉が驚くと山縣が頷く。
「この寮出身の音楽家が高校生の頃に使っていた楽譜なんだと。後輩の育成に役立ててくれ、と送られて来たが、音楽が判る奴がいねえから、とりあえず置いておこうとそのままになっていたらしいな」
 中身を確認したのは雪充だけで、一応学校に尋ねたが、しばらく寮で管理しろと言われ、そのままになっていたらしい。
 寮出身の音楽家とは長井の事だろう。
「長井ダイセンパイはほとんど海外だし、祖父が昨年亡くなった、ってことは、なんか勝手に家族が処分したとかそういうのじゃないのか?」
 山縣の推理に御堀が頷く。
「それを知った長井先輩が、こうして無理に御門寮に取り戻しに来た、って訳か」
「つまり、この楽譜は長井先輩が誰にも見られたくないもの、っていうのは判ったんスけども」
「そう、それよ後輩。肝心なのは」
「……楽譜読めねえ」
 幾久と山縣は、児玉と御堀を見るが、児玉は首を横に振った。
「無理っす。俺が判るのはギターコードだけっす」
「僕も習った曲なら判るけど、知らない曲を楽譜見ただけではどうとも」
 御堀も言う。
「内容が判らないとどうしようもないなあ」
 さて困った、と幾久はうーん、と考える。
(誰か助けてくれる人……誰か、いないかなあ)
 そこではっと気づいた。
「そうだ!」
「幾久、なにかいい案浮かんだのか?」
「とりあえず頼んでみる」
 そう言って幾久はスマホを取り出した。
 速攻連絡先を押すと、すぐに相手は出た。
『もしもし』
「タバコおいしいですか?」
『……長井がなんかしたのか』
 電話の相手は毛利だ。困ったときにはなんとかすると言ってくれていたので、できるかどうかは置いておいて、頼んでみることにした。
「そうではないんすけど、無茶ぶりしようかなと」
『出来ることはしてやる。何だ?』
「楽譜送るんで楽器弾いてください」
『ん?』
 毛利は思わず変な声を出していた。


 まだ学校に残って仕事をしていた毛利のスマホに連絡が入った。
 連絡をしてきたのは乃木幾久で、毛利はやや緊張した面持ちでスマホを取った。
 対応すると、教えておいた合言葉を言ってきた。
 これは、すわ、決戦か。
 そう思った毛利だった。
 三吉も毛利の一瞬の緊張に、電話の相手が誰かすぐに気づいたらしく、仕事の手を止め、様子を伺っている。
 毛利は言った。
「お前が俺をなんでもできるスーパーマンと思っているのはありがてーんだが、それは諦めて欲しい案件だな」
 緊張した内容かと思えば、楽譜を送るから曲を弾けだなんて、毛利に出来るはずもない。
 だが、そんなのは幾久も承知だろう。
 つまり、学校に音楽の先生が居ればその先生に頼んで欲しいという事だ。
『誰かにどうにかできないっすか』
「聞いてはみる。どうにかできるか答えてやれるのはその後だな。でもなんでいきなり楽譜?」
 てっきり、長井の暴言で児玉あたりがぶん殴ってどうこう、という事があるかと思えば全くそんな事ではなかった。
 幾久は言った。
『長井先輩がなんでウチに無理矢理来たのかっていうと、なんか内緒で回収したい楽譜があったみたいなんす。多分なんスけど、長井先輩の学生時代の楽譜があって。ノートに手書きしてあるんすけど、タマが言うにはこれバンドの曲らしくて』
 毛利はそこで、はっと気づき、幾久に言った。
「小僧、判った。なんかだいたい見えてきた。えーと、まず楽譜こっちに送れ。写真送れるか?」
『はいっす。でも何冊も何曲もあるっぽいっす』
「テキトーに短めの奴選んで俺のスマホに送っとけ。なんか判ったら連絡する。それでいいか?」
『はいっす!』
 電話が切れ、そして毛利は思い切り「はーっ」とため息をついた。
「何があったんですか?」
「何かありまくりだよ。ホント、こいつまじとばっちりじゃねえかよ」
 そういってもう一度、はーっと毛利がため息をつく。
「何かあったんですね?」
 三吉の言葉に毛利は頷く。
「お前にも詳しく説明してーが、先に急ぎの用事がある。院長はまだ校内に……お、居た!」
 スマホにあるのは吉川学院長の居場所を示すGPSだ。
 吉川は自ら、自分がどこにいるのかを先生たちに普段から共有させていたので、居場所はすぐ判るようになっている。
 毛利はスマホですぐ連絡を取った。
「あ、もしもし、毛利です。生徒からの緊急要請です。バンドの楽譜読めて、速攻再現できるような人、どっかにいませんか?」
 毛利が言うと、まさしく今、職員室の扉が開き、スマホを持った吉川学院長が現れた。
 右手でピースサインの指を毛利に向け、銃を撃つようにかまえて言った。
「丁度その先輩と、これから会う予定だ」
 無駄に恰好をつけた言い方は吉川学院長の素なのだが、毛利と三吉は同時に思った。
(無駄にロックだなあ)

 毛利のスマホに届いた楽譜のデータを吉川学院長へと転送し、吉川はすぐ誰かと連絡をとっていた。
 内容を詳しく聞かずとも、生徒の要請とあらばすぐ動くフットワークの軽さは有難い。
 おかげで幾久の要求が動いている間、毛利は三吉に幾久からの情報を伝えることが出来た。
「どうやら長井の母親らしき家族が、長井の楽譜を勝手に御門寮に送りつけてしまって、その中に長井の隠したいものがあったらしいな」
「その隠したいものって」
 三吉が尋ねると、毛利は苦々しい顔で言った。
「長井の手書きのバンドスコアだとよ。バンドの楽譜。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボード。それとひとつ、指定のない楽器の楽譜だそうで」
「……」
 三吉はしばらく黙っていた後、立ちあがって、再び椅子に腰を下ろし、そしてもう一度立ち上がると、ばんっと机を両手で叩いた。
「―――――え?」
「だろ?だよな、そうなるよな?俺だって信じられねーもん。お前がNSX乗って来たときより驚いてるもんこう見えて」
「―――――本気で?本当に?間違いなく?なんかの陰謀でもなく?」
「ご丁寧に、全部のノートにT・NAGAIって署名入りだとさ。自分の名前がはいってりゃ、誰も見ないと思ってたんだろ」
 実際、自分たちが高校生の頃は長井のものにはあえて触りもしなかった。
 長井はやたら煩かったし、失礼だし、無礼な奴だったからだ。
 三吉は頭を抱えていた。
「ちょっと待ってください。長井、確かに三年になってから、やたらノートに書き込んでいるのは知ってましたけど、所詮楽譜なんでこっちは興味ないし、中を見ることもなかったし」
 すっかり遠くへやっていた記憶が、三吉の中に一気に蘇ってくる。
「……何やってんだアイツ。いや、何やってたんだアイツ」
「多分俺らの想像通りの結果だろうな」
 二人は互いに、信じられない、という顔になって、そしてやっぱり信じられなかった。
「吉川君に送った楽譜の曲がどういうものかは判らないけどさあ、万が一?俺らの想像とは違うものかもしれないんだけどさあ」
「……十中、十、そうでしょうよ」
「みよちゃん、希望は持とうよ」
「持つわけないでしょうが」
 あの長井が。
 隙さえあれば、悪口しか言わなかった長井が。
 バンドもロックもクソだ低レベルの底辺のクソが喜んで聞くものだと言って、はばからなかったあの長井が。
「バンドスコアだって?」
 しかも件のメンバーの楽器に、ひとつ種類不明の楽器が追加された楽譜だと。
「そんなの、火を見るよりも明らかじゃないですか」
 なんて馬鹿な事をやって、なんて馬鹿なものを残してしまったんだ。
 そう思っているのは、きっと長井も同じだろう。
 だから無理に、奪取に来たのだ。
「そりゃ、コソ泥みたいなこともするわ……」
 毛利は大きくため息をついた。
 これではまるで、今回は被害者しかいなくなってしまう。
 誰も喜ばない。誰も良い事がない。
「なんでバカなことしたのかね、長井ん家のママは」
 長井ではないけれど、毛利は心から長井の母親に、余計な事をしやがって、と思ったのだった。


 夕食の時間になり、栄人が一年生を山縣の部屋まで呼びに来た。
 山縣は長井のノートを見つけ、その後にノートを死守するように幾久に伝えると再度寝てしまった。
「じゃあ、俺が見張ってる。なんかあっても俺が一番対応できるし」
 児玉がそう言うので、御堀と幾久が先に食事をとることになった。
 ダイニングは児玉と山縣を除く、栄人と麗子さん、そして長井と御堀、幾久で食卓を囲むことになった。
 麗子がわざわざ夕食を一緒にとってくれるのは、気を使ってくれたのだろう。
「さあ、みんな食べましょ!」
 そう言って手を合わせ、いただきます、と頭を下げるが、長井はそれをしなかった。
 山縣と児玉の姿が見えない事に、長井が何か言うかと思ったがそんなことはなく、麗子が居るせいかは知らないが静かに食事をしていた。
 食べ終わるとごちそうさまもなく席を立つ。
 そしてしばらくすると、チェロの音が響きはじめた。
 皆の為にお茶を入れ、自分もゆっくりとお茶を飲む麗子はぽつりと言った。
「本当に素敵な、上手なチェロなのにね」
「やっぱあれって上手なんだ」
 栄人が尋ねると麗子は頷いた。
「ええ。とっても上手ね。生半可な練習じゃ、あの音は出せないわ」
「やっぱりプロって大変なんすか」
 幾久が尋ねると、麗子は微笑んで答えた。
「そんなの、いっくんの大好きなサッカーとおんなじよ。サッカー選手だって、上手になる為に子供の頃からずっと練習するでしょう?」
「あ、それはもう、ハイ。桁違いッス」
 ユースというプロの下部組織に子供の頃所属していた幾久は、プロというものをわずかにだが、他の人よりは理解している。
 最初から才能があるのは当たり前。より才能があって、より体格に恵まれ、さらにいい指導者にあたり、いい仲間に恵まれて、やっとチャンスが巡ってくる、かもしれない。
「どこも同じなんですね」
 御堀もサッカーの話になれば、すぐ理解が出来たらしい。
「あの性格じゃなかったら、明日だって楽しみだったかも」
 幾久が言うと、麗子もそうね、と寂しそうに笑う。
「あんな子になったのは、あの子だけの責任じゃないのかもしれないけれど、もう大人だものね。ちゃんとしないと」
 折角綺麗な音を出せるのに。
 麗子がそう言ったけれど、それ以上何も尋ねる気にはなれなかった。

 寮の中には美しいチェロの音色が響いている。
 こんな音を出せるのに、なぜ長井は毒づくことしかできないのか、と幾久は疑問に思った。
(それに、なんかガタ先輩と同じ風に見えるのに、実際凄く違うのはなんでだ?)
 山縣も寮の中では嫌われているし、相手にされているとは言い難い。
 なのにどうして、こんなに長井と違うと思うのだろうか。


 児玉と食事を入れ替わりで取りると、三人は再び山縣の部屋へ戻り、眠る山縣をよそに漫画を読んでいたその時だった。
 幾久のスマホに連絡が入った。
「毛利先生からだ。楽譜の曲、出来上がったって」
「マジかよ。一体、どうやって?」
 児玉が驚くが、毛利からのメッセージにそのあたりが記載してあった。
「えーと、楽譜の音符をソフトで入力して出すことが出来るんだって。そんで、それが物凄く速い人が、やってくれたんだって。へえ、そういうの出来るんだ」
「……普通はできねえよ」
 ちょっとは音楽をかじっている児玉が言う。
「なんかアプリを使ったって」
「それにしたってはええよ」
 児玉が感心するが、とにかく曲を聞いて見ようという事になった。
「じゃあ、再生する」

 幾久が音楽データの再生ボタンを押すと、メロディが流れてきた。
 最初はキーボードのふわふわした音、次はドラムの重たいリズム、次にバイオリンの歌う様な音、きっとこれはヴォーカルを表しているのだろう。
 ドラムの音に合わせるようにバイオリンが奏でられ、サビに近づくと、ベースが入り、ギターも混じる。
 そしてひとつ、低く響くなめらかな音。
 今ならその音が、幾久にもどの楽器か判る。
 生の音を聴いたばかりだからだ。
 御堀が言う。
「とてもいい曲だね。元気が出るっていうか、明るくて前向きだ。明け方って感じ」
 幾久も頷く。
「オレ、この曲好き。なんかいい」
 長井が作ったにしても、意外過ぎて驚いてしまう。
 こんなにさわやかで、元気があって、濁りのない、笑顔になりそうな曲をあの長井が作れるとは。
「長井先輩、こんないい曲作れるの?」
 だったら、プロというのも頷ける。
 高校生の頃に、これほどのものを作れるのなら、そりゃあプロにだってなれるだろう。
 幾久はそう思ったのだが、児玉は一人、渋い顔だ。
「タマ?どうしたんだ?」
「悪いけど、もう一回最初から再生していいか?」
「そりゃオレはいいけど」
「僕もかまわないよ」
「サンキュ」
 児玉は送られてきたデータの再生ボタンを再び押した。
 最初のメロディを、まるで探るように難しい顔をしてじっと聞いている。
 そうして、やっぱり、と頷いて告げた。


「間違いない。これ、グラスエッジだ」
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