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【4】夜の踊り子

幽霊は内緒

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 昨日が遅かったせいもあり、起こされたときの眠気といったら半端なかった。
 流石にそう寝坊はしない幾久も、いつもより遅い時間に吉田から『そろそろ起きないと本気で遅刻するよ』と言われて、慌てて起き上がったくらいには。

 急いで支度したので、着替えて朝食のテーブルについたくらいにはいつもより少し遅い時間程度においついていた。
 高杉と久坂とすでに食事を終えて食後のコーヒー、吉田は給仕をおえて今から幾久と一緒に食事を取ろうかというところだった。
「はよございます、ハル先輩久坂先輩栄人先輩」
「おう」
「うん」
「はよっ」
「時山先輩は?」
 きょろっと見渡したが時山の姿がない。と、吉田が言った。
「とっくに帰ってんじゃないのかな。多分もう自分の寮だよ」
「ええっ」
 幾久は驚いて声を上げてしまう。自分ですら、さっきまで自力で起きることができなかったのに、あんなにも簡単に寝落ちした時山が、自力で早朝に目を覚まして寮に帰るなんて。
「凄いっすね、時山先輩」
「直ちゃん、寝坊はしたことないって」
「それにしたってスゲーっす」
 あの時間から早朝なら、数時間程度しか眠れていないだろうに、よく自力で起きて帰れるものだ。
「……そういえば、なんか夜中に『かえるねー』みたいな声を聞いた気がする」
 幾久が思い出すと、吉田が言った。
「ああ、じゃあきっとそん時だよ。いっつも勝手に帰るから、そこは心配しなくていいよ」
「ウス」
 昨日はあまりに驚いてしまったが、理由と事情が判れば別に次から騒ぐこともない。
「なんかごめんね。黙ってて」
 久坂が言うので、幾久は首を横に振った。
「仕方ないっす。隠してたんならそれはそれで」
「ま、他に夜中にあんな馬鹿するのはおらんから安心してエエぞ」
 高杉も言うので、これ以上こんな内緒の話はないんだな、と幾久もほっとする。
「オレが入寮したとき、幽霊だなんだって脅したのは時山先輩がいるからなんすね」

 幾久がこの御門寮に入寮したその日、高杉も久坂も吉田も山縣も、この寮が『出る』からお守り持っておけ、とか言っていたのは本当に幽霊が出るからではなく、時山が『出る』せいだったのか。

「そのほうが説得力あるでしょ?」
「ありすぎで、真っ先にそれ疑いましたよ」
 ふう、と幾久は肩を落とすが。
「ああ、でもまあ城下町に出るっていうのは、ホント」
 にこにことそう言う吉田に、幾久は呆れてため息をつく。
「もうそういうの、いいっスから」
「いやーまじでまじで。夜の城下町ってけっこうコエーよ」
「はいはい」
 吉田の冗談につきあっていたら本気で遅刻してしまう。
 高杉も久坂も静かなので、きっとこれもただの軽口だろう。
「じゃあ、ぼちぼち出ようか」
 食事を済ませると吉田がそう言うが、幾久はあれ?と首をかしげる。
「ガタ先輩、起こさなくていいんスか?」
 しかし幾久の問いに、吉田は笑顔で言い放った。
「誰それ?」
 あ、これ本気で怒ってるヤツだ、と幾久は気づく。
 がたんと高杉と久坂が立ち上がる。ということはもう登校するつもりだ。
(やべ。ガタ先輩、このままじゃほったらかし)
 多分ゆうべの事に吉田が山縣に仕返ししているのは明らかだ。高杉も久坂も当然知らんふりで、吉田は露骨に無視している。
(……スンマセン、ガタ先輩)
 さすがにこの三人に逆らえるはずもなく、幾久も大人しく三人について寮を出たのだった。



「じゃあ、やっぱり街灯だったんだ。雪ちゃん先輩の言うとおり」
 幾久が寮で妙な光を見た、と聞いてから弥太郎も気にはなっていたらしい。教室で尋ねられたが、幾久は当然、時山の事は隠した。
「ウン。本当にガラスにうつっただけだった」
「なぁんだー。ちょっとは期待したのに」
 コレ、と手首を下げて幽霊のポーズを取る。
「残念ながらそういのはないってさ」
「そっかー」
 どこまで本気か判らないが、残念そうな弥太郎に、伊藤が言う。
「マジで幽霊なら、俺、退治しに御門寮に行くのに!」
「トシは御門寮に入りたいだけだろ?」
 茶化す弥太郎に「そうなんだ!」と伊藤も悪びれず答える。
 伊藤は殆ど千鳥クラスで構成されている、学校から一番近くて大きい報国寮の所属なので御門寮には入れない。しかし、許可を取れば入れるはずだ。
「そんなに行きたいなら、許可貰ったらいいのに。ハル先輩なら簡単に『いいぞ』とか言いそう」
 御門寮の責任者は高杉なので、頼めば入れてくれそうだが、伊藤は首を横に振る。
「ばっ、おめ、ハル先輩がんなの許すかよ!もし万が一、億が一あったとしても死ぬほど勉強させられるわ!」
 高杉を尊敬している割には妙に怖がっている伊藤が幾久には不思議だった。
 いつも高杉の事を説明してくれるのだが、幾久の知っている高杉と、伊藤の言う高杉の姿が一致しない。
 幾久にとって高杉はつっけんどんだが面倒見が良く、気もよく使っていて頭も良いというのが印象だ。
 トラブルを起こさないように気を使っているという、毛利先生の言葉は本当だなと最近になって気づいていた。
 どちらかといえば怖いのは吉田や久坂だ。
 吉田はわりとすぐに怒るし(その原因の殆どは山縣のせいだが)すぐに仕返しもする。
(その結果、痛い目を見るのは山縣だけだが)
 久坂は、なんというか、判らない、見えにくい、見えないタイプの人だ。
 正直、久坂とふたりきりになると今でも緊張する。
 ぼうっとしている風にしか見えないのに隙がない雰囲気があるし、それに高杉と一緒に居るときの空気感は独特だ。
「ああー、御門入るなら、絶対に鳳だよなあ」
 がくー、と伊藤が机に突っ伏す。
「でも鷹でもいいんじゃないの?ガタ先輩鷹だし」
「鳳から鷹ならなあ、説得力あんだけど」
 はあ、と伊藤が再びため息をつく。
「俺の頭じゃ鳳は難しーわ」
「そういえば、タマ次こそ御門寮ってめっちゃ気合入ってんもんね」
 弥太郎の言葉に幾久が顔を上げた。
 タマ、とは弥太郎と同じ寮の児玉の事だ。
 幾久が知っている唯一の鳳クラスの一年生で、御門寮に入りたくて仕方ないらしい。そこで幾久は初めて気がついた。
「ってことは、二学期からみんなと違うクラスになるかもしれないって事?」
「いっくん今更?当然じゃん。それと二学期じゃなく中期、ね」
 この学校は学期ごとに試験があり、その試験の結果でクラス分けがされる。
 成績の優秀なものから鳳、鷹、鳩、千鳥、という風に分類される。
 幾久がいま、伊藤と弥太郎と同じクラスに所属しているのは鳩だ。つまり幾久が試験で良い結果を出して、鳩より上の鷹クラスか鳳クラスに行けば、伊藤とも弥太郎とも離れてしまう。
「えー、なんかそれは……ヤダな」
 折角伊藤や弥太郎と仲良くなっているのに、離れるのは嫌だ。
「しょうがないじゃん、それがこの学校のシステムなんだし」
 それに、と弥太郎が言う。
「俺だってせめて鷹くらい行ってみたいもん。そしたらいっくんと一緒だし」
「そっか。ヤッタもトシも鷹いけば問題ないのか」
 ほっと幾久は胸をなでおろし、弥太郎と幾久はじっと伊藤を見つめるが。
「なに見てんだよ!無理だよ!鳩だってギリだぞ俺は!」
「いや、頑張ればいける?」
 幾久が言うと、弥太郎も頷く。
「そうだよトシ、あきらめるのはよくないし」
「ヤッタだって俺と似たようなもんだろ!おめーだってやべーって!」
「確かに次は無理かもねー。けっこうマジで頑張るヤツ多いし」
 ちらっと弥太郎があたりを見渡す。
 すでに試験週間に入ってはいたが、クラスの三割程度は授業が始まる前なのに勉強をしている。
「最近妙にクラスが静かだなって思ったら、勉強してたのか」
「言ったろ、入学の時にさあ、目指していたクラス落ちた奴が一番頑張るのが一年前期の試験だって」
「ああ、そうだっけ」
 この報国院は入試試験の結果でクラス分けがされるので、当然報国院には受かっても、自分の望んだクラスじゃない場合もある。
 ここに入るまでそんなシステムを全く知らなかった幾久にとって、自分がどのクラスに所属しているかなんてあまり意識したことがない。
 クラスが上れば授業料が安くなる、トップクラスの鳳になると免除となるので幾久の父は金銭的な理由でそうして欲しいとは言っていたが。
(そういや、父さんはどのクラスなんだろう)
 報国院は父の母校で、あまり喋らない、関わらなかった父が幾久を報国院に入れようといろいろ走り回っていた所を見ると、かなり愛着があると思う。
 頭はいいはずなのでやっぱり鳳クラスなのだろうか。
 しかし、入学式の日に、父と一緒に居た派手なミュージシャンくずれのおじさんを見ると、あの人が鳳クラスとはどうしても思えない。
(クラブ活動が同じ、とか?)
 父のそんな事も全く知らない幾久だった。
「俺も頑張らねーと、次、鳩ですらねーかも」
 はあ、と伊藤がため息をつく。
「幾久はいいよな。鷹安泰だろ。鳳だっていけるんじゃね?」
「よく判らない。先輩たちは、鷹はいけそうって言ってくれてるけれど」
 そういえば、高杉も久坂も吉田も、幾久のレベルを知っているはずだが『これなら鳳だっていける』とは言ったことがない。
「鳳ってむずいのか」
 幾久が言うと、弥太郎も伊藤も『なにを今更』という目をして幾久を見た。


前期の試験は二度行われる。
その一度目が今回の中間考査で、二度目が夏休み前にある期末考査だ。
この二回の試験結果で二学期、この学校では中期という言い方をするが、その間のクラスが決まる。
クラスが上に行けば、寮の移動も許可されやすくなり、希望の寮へ移ることもできる。

必ず、という訳ではないが成績がよければ何事も優先される報国院ではそのほうが通りやすいというわけだった。
幾久は寮の先輩達のおかげで、中間考査を無事乗り切ることが出来、そして試験が終わる頃には試験週間に時山に酷い目にあったことはすっかり忘れていた。
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