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プロローグ

父からの不思議な提案

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「はい、大変申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしました」

 頭を何度も下げながら、幾久の父は校長室から退出した。
 廊下で父を待っていた幾久はうつむいていた顔を上げた。

 相馬を殴ってしまい、当然教室内は騒然となった。
 すぐさま親が呼び出される事となり、校長室での話し合いとなった。
 先に相馬が帰ったらしく、幾久は話が終わってから呼び出された。

 誰も居ない放課後の廊下は静かで、忙しいのにわざわざここまで来させてしまった幾久は父に謝った。
「ごめんなさい、父さん」
 絶対にひどく叱られるに違いない。
 そう思ってびくつく幾久だったが、父は幾久の頭に手を置くと、軽く撫でで笑って言った。
「心配することなんかなにもない。大丈夫だよ」
「でも」
「こちらが殴ったことは、私が先方に謝罪した。先方もそれを納得したし、こちらへの非礼も、まあ、一応済んだ。だから、もうこの事は終わったことだよ」
「ごめんなさい、父さん」
「別にお前が謝ることはない。まあ、暴力はあまりいただけないが」
 笑う父に幾久は驚いて顔を上げる。
 父は長身で、まだ全然身長は追いつかない。

 一度もこんなトラブルはおこしたことはないし、無口な父がどう反応するのか怖かった。
 だが、幾久の父は全く気にした様子もなく、穏やかに幾久に告げた。
「お前にも理由があったんだろう。気にするな、とは言えないが、私の事は気にしなくていい。来れて良かった」
 そう言う父は、本当に怒ってはいないようだ。
 幾久はほっと胸をなでおろす。
 だけど、幾久にはもうひとつ心配事があった。

「母さんに、なんて言えばいいんだろう」


 そういうと父は黙ってしまった。
 幾久の母は俗に言う教育ママで、こんな事絶対に許してはくれない。
 どうしよう。
 そう幾久が悩んでいると、父が幾久の肩に手を置いた。
「なあ、幾久。ちょっと父さんと飯でも食って帰らないか?」
 驚き、顔を上げると、父は穏やかなまま幾久に言った。
「さっき何を話したか聞きたいだろ?」
 笑顔で言われると、まるで内緒話を聞くような気になって、幾久はほっとして「うん!」と頷いた。
「じゃあ、一緒に帰ろうか。父さんはこっちから出るから」
「待ってて!オレ、靴とってくる!」

 大丈夫だ。
 幾久はなんだかそんな気がした。

 父との関りは薄く、これまでろくに話したことはない。
 官僚として忙しく、滅多に関わることもなかったのに、急に距離が縮み始めたみたいだ。
(母さんじゃなくて良かった)
 これが母なら、きっと今頃ヒステリックに泣かれ、どうして、と何度も繰り返されたのだろう。
 父だったのがせめてもの救いだ。
 あの雰囲気なら、ひどく叱られることもないだろう。
 それに、母とは違って幾久の話をちゃんと聞いてくれる気がする。

 幾久は荷物を持ち、靴を抱えると、父の待つ正面玄関へと向かい、走って行った。


 学校を出て、父が呼んだタクシーに乗り込む。
「どこに行くの?」
「父さんの職場の近くに、行きつけのレストランがあるんだ。美味いから、いつかお前に食べさせたいと思っててな」
 丁度良かった、と機嫌良さそうに笑う父は、息子が問題を起こして呼び出されたようには見えない。


 叱られないのはありがたいが、そんなんでいいのかな、と父を覗く幾久だったが、何を食べようかと父は楽しそうにメニューの説明をするだけだ。

 暫くするとタクシーはレストランの前で止まり、幾久と父はそこで降りた。
 喫茶の二階にある小さなレストランで、古く上品な誂えだった。
 ぐるりとらせん状の階段を上り、お洒落なアールヌーヴォー調のドアを開けると、いい香りが漂ってくる。

「いらっしゃいませ、あら乃木さん、珍しい時間帯に」
「今日は息子と一緒なんだ。奥の席は空いてるかな」
 受付の店員とは顔なじみなのだろう。
 白いシャツに黒のタイに、黒のベスト。腰には長い、黒のカフェエプロンを付けた男性が微笑んだ。
「あら、これが自慢の息子さん?ほんとお父さんそっくり!可愛いね」
 可愛いと言われ、幾久は少し照れ、軽く頭を下げた。

「奥の席、空いてますよ。どうぞ」
 そう言って案内されたのは、奥まった小さなスペースだった。
 幾久が奥へ座り、父が手前へ腰かけた。
 窓からは人々がせわしなく歩いているのが良く見える。
「ここはな、懐かしい洋食メニューがあるんだ。なんでもうまいぞ」
 どれにする、とメニューを渡され、おいしそうなオムライスセットがあったのでそれにした。
「お前は目が良いな。私もこれが大好きなんだよ」
 幾久を褒め、父はオムライスのセットをふたつ注文した。

 暫くしてオムライスが到着し、食事の間、うまいだろう、とか言う父に幾久は頷くだけだった。
 実際オムライスは美味しかったし、途中から幾久は夢中になって食べた。


 食後にコーヒーセットを頼んで、ケーキを半分ほど食べたところで、父が切り出した。

「幾久、お前はどうしたい?」
「どうしたいって、なにが」
「学校を変わるか?」
 その言葉に幾久は驚いて、持っていたフォークを落とすところだった。
「そんなに、よくないの」
 いくら卒業前とはいえ、これで退学になってしまうのか。
 高等部進学も決まっていたし、卒業式をまじかに控えたこのシーズンでは高校入試なんかとっくに終わって外部への進学も選べない。
 真っ青になる幾久に、父は笑って言う。
「違う、違う。そうじゃなくて、そういう選択肢もあるってことだ。話の順番がおかしかったな」
 そう言って父はコーヒーを飲む。
「―――――面倒な事があるのなら、そういう選択肢もあるって、お前に伝えたかっただけなんだ。驚かせたらすまない」
「ううん、大丈夫」
 なんだ、と驚いて幾久はほっとした。

「お前と相馬君の処分は同じだよ。二人とも停学扱いにはなったが、どうせこの後は卒業式しかないし、名目上だけのものだ。高等部への進学も問題ないし、相馬君とはクラスを分けてくれるそうだ。
 もしなにかあれば、学校の方でも対応すると言ってくれた」
 幾久が通う学校は私学の中等部だ。当然、高等部ともつながりがあるので、そのくらいの対応はしてくれるとの事で、幾久はほっとした。
 せめて、あいつと同じクラスじゃないのが救いだ。
(あいつとまた三年一緒とか、冗談じゃない)
 殴ったのはこっちも悪いが、あんな奴と同じクラスなんて、想像だけでうんざりする。

「それより、気になる事があってね。お前が相馬君を殴った理由だ」
 父の言葉に幾久は体を硬直させた。
「……たいしたことじゃないよ」
「大したことがなかったらお前は人を殴らないだろ?」
 そう言って微笑む父は、人が悪いように見える。
「そんなにオレと関わってないくせに」
 責めるように言ってみたが、父は余裕に微笑んで幾久に言った。
「関わってなくても、お前がそういうタイプじゃないくらいは知ってるよ。子供のころからそうだった」
 父との関りは、幾久が小学生の頃、サッカーのユースに参加していた頃で途絶えている。
 サッカー選手になりたくて、ユースに所属していたけれど、小学校を卒業前に才能がないとユースを落とされた。
 親友は残ったけれど、幾久は落とされ、結局中学校も進学の為にいまのところを選んだ。
(もう、三年も前なのか)
 親友との関りも、昨年くらいから途絶えている。
 彼はまだ元気なのだろうか。
 才能があったから、きっと高校も選びたい放題で、サッカーの名門に行くか、もしくはプロになるかもしれない。
「それより、お前がなんで殴ったのか、そっちの理由を私は聞きたいんだが」
 父の言葉にはっとなり、幾久は口をつぐむ。
 確かに父は、幾久の話を聞く権利があった。
 幾久のせいで、今日もきっと忙しいだろうに、仕事中に呼び出されたのだから。

「……先祖の、ドラマあんじゃん」
「うん」
「あれで、茶化されたっていうか、煽られた」
「うん」
「……ここんとこ、ずっと毎週、ドラマがあるたんびに凄い煽られて、別に傷ついたりはしないんだけど」
「うん」
「面倒くせえな、って思ってて。でもどうせ卒業だし、ドラマももうすぐ終わるし、ほっときゃいいだろって思ってて」
「うん」

 父は静かに微笑んでいた。
 そこで幾久は、初めて気づく。
 父もひょっとして、同じような立場だったのだろうか。
 すると急に仲間のような気がしてきて、自分の中によく判らない感情が渦巻いて、胸の中にあふれてきた。
(なんだろ、これ)
 思わず胸をぎゅっと掴んだ。

 父は言った。
「いいよ。続けて」
「―――――人殺しの子孫のくせに、生きてんなよって」

 その瞬間、明らかに父の表情がさっと変わったのが判った。

「それで、気が付いたら殴ってた」
 小さく、ごめんなさい、と幾久が謝ると幾久の父は露骨に深いため息を「ふー」っとついた。
 そして幾久に手を伸ばす。
 思わず身を縮めた幾久に、父は幾久の、やや癖っ毛のある髪をくしゃくしゃと撫でて幾久に言った。
「すまなかった」
 え、と驚いて顔を上げる幾久に、父は苦々しい顔をして幾久に告げた。
「面倒な事になるとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。申し訳ない」
 そう言って頭を下げる父に、幾久は慌てた。

「そんな、父さんのせいじゃないよ」
「そうだ。確かに乃木希典の子孫であることは我々の責任じゃない。だけど、お前を守るのは、私の責任なんだよ」
 幾久は父の言葉に驚いてきょとんとした。
「だから、お前が殴るような状況に追い詰められたのは、私の責任なんだ」
 そういって父はもう一度、すまなかった、と言って頭を下げた。

 喫茶の人がおかわりのコーヒーを持ってきて、幾久には紅茶と焼き菓子を持ってきてくれた。
 どうぞ、今の時間は人が少ないの、いくらでも長居してね、と言われ、本当に常連なんだな、と幾久は父を見て思った。

 暫く父が静かなので、幾久は貰った焼き菓子を食べ、紅茶を飲む。
 喫茶店の中のざわめきと流れる音楽がまるでBGMみたいだ。
 父はもう一度ため息をつくと、幾久に尋ねた。

「幾久。このまま、いまの学校に通うか?」
「え?」
「……他の選択肢を、取る気はないか?」
「え?」
 幾久は驚いて父の顔を見た。

 父は自分のカバンから、立派な封筒を取り出し、テーブルの上へ置いた。
 書類が入っているくらいのサイズの封筒で、父は中からパンフレットを取り出す。
 なんだろうと幾久がのぞき込むと、それは学校案内のパンフレットだった。

「『報国院男子高等学校』?」
 聞いたことのない学校だ。一体どんなところなのだろう。
「私の母校だよ」
 そう父が言うと、幾久は興味を持った。
「確か、全寮制の男子校って」
「そう。長州市だからね、かなり遠いが」

 長州市は本州の端っこにある海峡の街だ。
 父はそこで生まれ育ち、大学からずっと東京で過ごしている。

「でも、もうとっくに受験なんか終わってるでしょ」

 明日からは三月、すぐに卒業式があるというこのシーズンに、受験なんかとうに終わっている所ばかりだ。
 だが、父は首を横に振った。

「私の母校は変わっていてね、私学のせいもあって人数が揃うまで何度も試験を行うんだ。入学ギリギリまで人数を合わせるから、まだ試験はあるんだよ」
 え、と驚く幾久に、父は言った。
「幾久、この学校に通ってみる気は、ないか?」
 思いがけない父の提案に、幾久は驚いてぽかんと口を開けた。
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