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その時まで

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汚れてしまった手を洗うためなのかユズルさんはベッドから出て行ってしまった。  
 ユズルさん、男もイケるの、と聞いていいんだろうか。デリケートな話題は母国語でも気を遣うのに、日本語でとなるとなおさら難しい。本当はそういうことも話してみたい。だけど、ユズルさんがどんな返事をしたとしても、上手く言葉を返せるかどうか、その自信がない。 
 そもそも、こういう話題で上手な受け答えをしようと思うことが間違いなのだろうけど勇気が出ない。 
 
 ユズルさんは、思っていたよりもずっと早く戻ってきたから、結局考え事は途中でやめないといけなかった。  
  
「ユズルさん、俺の服は……?」  
「今日は」  
  
 帰らないだろ、と素っ気なく言った後、ユズルさんは自分の服を貸してくれた。遠回しに、ここにいてもいいと言ってるんだってわかったから、遠慮なくユズルさんの服を着た。 
  
「……ども、ありがと」  
「バレンシアガの服じゃなくて悪いな」  
 
 今日は「床で寝ろ」とは言わずに、そのままベッドで腕枕までしてくれた。ユズルさんは窮屈そうに壁の方ギリギリまで寄ってから、「寝てる間に落ちるなよ」と俺の体を引き寄せた。 
  
「ユズルさん、スッキリして美味しかったですか?」 
「まあ……」 
「へへ……。……ユズルさん、どーしたの?」 
 
 俺と違う、くっきりした二重瞼なのに、ユズルさんの目付きは時々眠そうに見える。疲れてしまって眠いのか、何か考え事でもしているのか、よくわからない表情で、ユズルさんはなんにも言わずにただ黙って俺の顔を見てきた。 

「 ……普段はうるさいのに、ああいう時は静かになるんだと思って」  
「……ユズルさんだって、さすがにイク時は、棒演技じゃなかったねー、見直したよー」 
「くっそ……! お前……!」 
「ノー! ユズルさん、暴力はノー!」 
   
  脇腹をくすぐられて、涙が出るくらい笑った。さっきは「落ちるなよ」と気遣って掴まえていてくれていたというのに、今度は完全に制裁目的で押さえ付けられた。 
 死ぬ、死んじゃうよ、と笑いすぎて俺がむせると、ようやくユズルさんは「参ったか」と満足したようだった。 
  
「ヒドイ目に合わされるってわかってるのに、バカだな、ホントに」 
「もっと大事にして欲しいねー……」 
「してるだろ、誰よりも」 
 
 バカヤロウ、ってユズルさんはそっぽを向いてしまった。密着しているから、ユズルさんの心臓がすごい早さで鳴っているのが、俺にもわかった。 
  
「ユズルさん、ユズルさん」 
「あ……?」 
「えっと、えーっと……」 
 
 大好きです、愛してます、は今までもう何回も口にして来たけどなかなか受け取って貰えなかった。 
 
「我想要一直待在你身边……」 
 
 俺から中国語で話しかけられても、ユズルさんは、習った言葉以外は音を聞くだけで精一杯で、たぶん何を言われているのかはさっぱりわからない。音を聞いただけではどんな字が使われているのかもわからないだろうから、辞書で意味を調べることもきっと出来ないだろう。 
 案の定、ユズルさんはしばらくキョトンとしていた。何か言おうとして一度口を開いた後、首を傾げた。大学での講義中も似たような反応をしているのを見たことがある。「なんて、言ってるのかわからねー」とユズルさんが思っている時のリアクションだ。 
 
「謝々。……我很喜欢你ウォーヘンシーフアンニー」 
 
 何を言われているかなんて全然わかっていないユズルさんが返してくれた言葉は「ありがとう。あなたが大好き」だった。一生叶うことのない「我想要一直待在你身边」……ずっとあなたの側にいたいです、という俺の願いも、もしかしたらどうにかなるんじゃないだろうかと思えるような、綺麗な発音だった。 
 ユズルさんは、すぐにすごーく居心地の悪そうな顔をしてから、気まずそうにムズムズして「……お前、急に中国人みたいなこと言うのやめろよ、ビックリするだろ」とボソボソと棒読みで喋った。 
 
「何言ってるの! ユズルさん、俺は中国人だよー」 
「嘘つけ。お前がホントは広尾で生まれ育ったって噂は有名だぞ」 
「誰が流してるの!? ユズルさんが勝手に言ってるんデショー」 
 
 さっきまで抱き合っていたことと、中国語で気持ちを伝えあったのが嘘みたいに、またいつもと同じ賑やかな時間が戻ってきた。名残惜しい気持ちが無い……と言えば嘘になってしまうけど、まだまだ日本語の勉強が必要な俺と奥手なユズルさんにはこれくらいでちょうどいいのかもしれない。 
 毎日ガチャガチャ騒がしい俺とユズルさんの間では、時々、切なくて、ドキッとするようなことが起こる。プロ声優のしっかりとした技術に裏支えされて、はじめて棒演技声優の独特の「味」が光り出すように、それは「時々」だから尊い。 
その「時々」のおかげで……少なくとも俺は、一年後、帰国する時に、「リィ、お願いだから帰らないでくれ」ってユズルさんが泣いてしまうくらい、自分のことを好きになって貰うんだって、頑張れる気がした。(完)
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