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イフルート(2)

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「じゃ、さよなら……あの、ありがとう。俺も、会えて良かった」

 オーストラリアを離れる前日にルイと二人きりで過ごした。さよなら、と去っていくルイを引き留めるつもりはなかった。しかし、部屋を出ていく後ろ姿を目にした瞬間、ルイを手放す勇気を俺は失ってしまった。

「おい」

 そう言って呼び止めた後、自分の心の内をルイに正直に打ち明けてしまった。

「……ルイ、俺は……。きっとお前のことを何度も思い出す。思い出せば辛くなるとわかっていても、そうせずにはいられない。お前と過ごした短い日々だけが、俺の残りの人生の、唯一の希望だからだ……」
 
 ルイは黙って俺の話を聞いた後、無言で頷いた。そのまま下を向いて顔を上げようとはしなかった。俺は、一生続いていく孤独をたった一人で受け止める事が出来ずに、結局ルイの心に大きな傷を作ってしまった。

 ルイが部屋から出ていった後、ベッドに座り込んで顔を両方の手のひらで覆った。これでもう何もかもが終わったのだという実感で立ち上がることが出来なかった。
 ルイとの永遠の別れ。望まない結婚・望まないセックス。数十年と続いていく自分の人生が肩に重くのし掛かる。ルイ、と無意識に心で呼び掛けるような自分の弱さが、ただただ不快だった。

 どれ程の時間が経ったのかはわからない。控えめにドアを叩く音がした。滞在中は誰も部屋には来るな、とフロントには伝えたはずだが、と舌打ちしながらドアを開けた。


「……なぜ戻って来た」

 立っていたのはルイだった。ほとんど血の気の引いた薄い唇を小さく開けてから「コートとマフラーが」とだけルイは言った。

「コートとマフラーだって? テメー、俺がどんな気持ちでお前とここで別れたかわかってんのか?」
「……わかってる」

 思い付く限りの言葉でルイを罵倒して、「帰れ、二度と俺の前に現れるな」と追い返すつもりだった。少し前なら出来ていたことだ。コートとマフラーを思いきりぶつけるようにして投げつければルイはここへ、俺の前へ、二度と戻っては来ない。
 ……けれど、出来なかった。「また会う?」と二人で会うことをルイの方から誘ってきた日の記憶や、下手くそな発音で必死に中国語を覚えようとしていた時の必死な表情。ついさっき、膝に乗せた時の細くて軽い体を、思い出してしまった。ルイを傷付けるような言葉を口に出来なくなるぐらい、俺はルイの事を知りすぎてしまっていた。

「……俺、外に出てコートとマフラーを忘れたことに気が付いて……。それで、それで、……どうしてもここへ戻らないといけないような気がしたから」

 気が付いた時には細いルイの腕を掴んで、ほとんど強引に部屋の中へ引き入れていた。そして、立ったまま唇を合わせて、ルイの冷えた体と自分の体をキツく密着させた。

「ん、んんっ……」

 先程のルイは唇も舌も、体も心でさえも完全に日本にいる男を求めていた。つっかえながら必死で英語を話していたルイが、達する直前に欲情しきった声で呼んでいた名前は「ヒカル」だった。
 そして、今、ルイの舌は不自然なくらい動きがぎこちない。どれだけ求めても、戸惑ったようにおずおずと舌先を伸ばすくらいで、完全に意識を別のどこかにやってしまっている。
 なぜだ? 何かを手放す覚悟があったからここへ戻ってきたんじゃないのか? と苛立ちながら、息継ぎをする暇さえ与えずにルイの口内に強引に舌を捩じ込んだ。

「んっ、ん、う……」

 冷たくなった頬へ指が食い込むほどの力で、無理やり顔を上向きにしてから何度も角度を変えて、ルイに口づけた。ルイが覚えている記憶を上書きするように、どちらのものかわからない唾液が顎をつたっても、ルイの足がふらついても、俺はルイを離さなかった。
 始めはぎこちなかったルイも薄い唇を開いて、舌を絡めてくる。あまりキス自体の経験が無いのか、舌先で上顎に触れただけで、ルイは鼻から抜けるような小さな声を漏らして、そっと抱き付いてきた。確かに今俺たちは同じ気持ちでいるのだと感じられた。
 服の上からではあったが少しだけルイの体へ触れた。女とは違う硬い体だった。肩幅も無ければ、筋肉量も少ない、子供っぽい体つきだったが、誰かと抱き合った時に自分の心と体の反応が一致する喜びを俺はルイの肉体で知った。
 より深いところを知りたかったが、服の中へ手を入れた時に、ルイは「やめてくれ」と強く抵抗した。

「……まだ、そういうことは出来ない。この後、何もかもちゃんとするからどうか待ってくれ。ごめん……ごめん……」

 ソーリー、と何度も口にするルイは哀れに感じられるほど疲れはてていた。
 ……嫌がった瞬間のルイからは、強い意志が感じられた。熱に浮かされて戻ってきたんじゃない。誰かに別れを告げること、自分自身がそれによって深い傷を負うこと。そういった全てを受け入れる覚悟をルイは持っているようだった。

 気持ちはどうであれ恋人がいる状態で最後までセックスするのはダメだ、というルイの考えは、俺には「今さら何を」と思えたが、そういう男を愛してしまったのだから仕方ない。ルイを解放して、「使え」とベッドに寝かせてからその晩自分はソファーで眠った。
 不思議と自分は選ばれたのだ、という感覚は無かった。だが、ルイは自分の意志で戻ってきた、ということだけは信じられた。
 

 翌朝ルイは汚い字でメモ紙に自分の連絡先を書き残していった。

「レオのも教えてくれ。……いろいろ済ませたら必ず連絡する。時間はかかるかもしれないけど」

 教えはしたが、あまり期待はしていなかった。一度距離が離れてしまえばルイの気持ちが変わることだって充分考えられる。それに、期待が膨らみすぎるとダメだった時何倍も苦しくなるからだ。

 それから半年間、ルイから連絡は無かった。俺の事を忘れてしまったのか、ということよりも、日本にいる恋人にオーストラリアでの事を馬鹿正直に全て話して殺されたんじゃないだろうか、ということの方がよっぽど心配だった。何度も自分から連絡するか迷って、「必ず連絡する」と言っていたルイをひたすら信じて待った。



「レオはすごいな。もう働いていて、こんな立派な部屋を借りているんだから……」

 何も答えずに、自分では微笑みかけたつもりだったが、ルイには伝わらなかったのか「すごいな」ともう一度言い直されただけだった。

「……すごくなんかないさ」
「俺なんて、きっと就職しても、今の壁が薄い狭いアパートでしばらくは生活する」

 ……ルイには言っていないが、この部屋を契約する時に支払った五ヶ月分の家賃と引っ越しの代金は、全て俺の父親が支払いをすませている。父や祖父から逃れようと家を出る時でさえ、俺は無力だった。


「……お前、明日はどうすんだ」
「え……」
「行きたい所とか、どっかないのか」
「ば、万里の長城……?」
「はー……万里の長城ね……。ここからだと、飛行機で片道二時間かかるのをわかってて言ってんのか?」
「あっ……」

 ルイは中国語は熱心に覚えてきたようだが、観光地を巡る計画については何も考えていないどころか、「とりあえず知っている名所を答えた」としか思えなかった。
 待ってろ、とルイが荷物から取り出してきたのは新品の旅行ガイドブックだった。大量の写真でごちゃごちゃしている誌面をルイと覗き込んだが、ルイ自身も読むのは初めてだったのか一ページを捲るのにずいぶん時間をかける。

「……中国語のテキストの本を読むのに忙しかったんだ」

 聞いてもいないのにそんなことを言う。ソファーに並んで腰掛けながら、「話してるのを聞いていたらわかる」と返事をすると、ルイは目を丸くした後、フッと笑った。

「……レオ、俺が一番始めに覚えた中国語知ってるか?」
「……さあな」
「……我一个人很寂寞,好想你在我身边」

 オーストラリアでの最後の夜に、俺が教えた言葉だった。一人で寂しい、側にいて欲しい。……「お前がめちゃくちゃ厳しく教えた」という理由で、意味もわからないまま、ルイは忘れることなくずっと覚えていたのだという。

「なあ、また何か言葉を教えてくれよ」

 ガイドブックから顔を上げたルイがゆっくりと目を細める。例えば、意味もセットで教えたとして、それでもルイは言えるようになるまで何度も何度も言葉を覚えようとするのだろうか。恋人へ思いを伝えるような言葉だったとしても、ルイはそれを必要とするのだろうか。

「そしたら、英語よりもっと自然に話せるようになるのかな? レオと……」
「……たぶんな」
「……うん」

 妙な沈黙の後、どちらからともなく少しだけ体を近付けた。まだ、俺達はようやく並んで座ることから始めたばかりだ。それなのに、数日後にはまた離ればなれになる。お互いの事を知る時間も、会えなかった期間を埋める時間も、両方が足りなかった。

「あ……」

 一度目が合ってしまうと、どちらも逸らすことが出来なくなってしまい、お互いがお互いを引き寄せるようにして、自然と唇を合わせていた。

「ん……」

 一度「さようなら」と別れてから、戻ってきた時のルイの唇と体は驚くほど冷えていた。真冬のオーストラリアで「コートもマフラーも取りになんか戻れるか」と一度は思って外に出た後、一体ルイは何を思ったのだろうか。
 すっかり熱くなったルイの舌を強く吸いながら背中や腰を擦ってやった。

「……おい」
「んっ……」

 耳の側へ唇を寄せるとルイの体はピクリと震えた。……ルイとの間では言葉を交わす以外のコミュニケーションはまだまだわからないことの方が多い。わからないことは多いが、少なくともルイに触れていることは俺自身にとって自然だと感じられた。

「……明日、どこかへ出掛けるのはやっぱり諦めろ」
「はあ……?」

 明日は一日中ここで二人きりで過ごす、と伝えると、驚いた顔をした後、ルイは頷いた。


 その日の晩、ルイはいつもよりもずっと口数が少なかった。聞けば「……こういう時に使う英語に、俺はほとんど慣れていないんだ」と言う。
 ルイには、二人だけの時にしか使えないであろう中国語を三つ教えた。一つとしてまともに喋れていなかったが、「Very good」と唇で触れた時に汗で濡れたこめかみでさえも愛しかった。

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