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第3章
はな六のふぜんなクリスマス ⑪
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翌日、はな六はクリニックを受診した。元々、手の治療のことを相談するつもりで予約を取っていたが、昨日のお漏らし、そしてセックスの最中にレッカ・レッカの意識が割り込んできたことと、不可解な出来事が続いたことも気になり、脳の検査も依頼した。一ヶ月ほど前に変質者から顔を酷く打たれた後遺症なのかもしれず、心配だったからだ。
「検査の結果、脳に異常はありませんでした。良かったわね」
レイ医師が笑顔で言ったとき、ほっとするどころか涙が溢れた。
「これのどこが異常なしなんですか! 公共の場であんなにびしょびしょに漏らしちゃって、いくら何でも酷すぎます! セクサロイドだからって我慢が利かなさすぎる! これじゃあおれ、どこか部屋に引き籠って、誰かがセックスしに来てくれるのを待つしか出来ないじゃないですかぁ……」
それはまさにサイトウに発見されたときのこのボディの有様だった。狭い部屋に閉じ込められ、ベッドの上でただ待つだけの日々を過ごしていた。それがこのボディにお似合いの生き様だというのなら、このボディに魂を込める必要などないのであり、こんなボディに魂を入れてしまったはな六は、幽閉されたのと同じだ。
気づけばはな六はレイ医師のすぐ鼻の先まで詰め寄っていた。「すいません」と小声で謝り、椅子にかけ直す。そんなはな六に、レイ医師は嫌な顔もせず、ポケットからハンカチを取り出してはな六に差し出した。
「いいのよ。そうね……セクサロイドの正常は人間にも、他のアンドロイドにすら異常に思われるかもしれないわね。セクサロイドは誰しもそのことで悩むのよ。はな六ちゃんだけではないわ」
はな六はハンカチで顔をごしごしと拭きながら頷いた。はな六が顔をすっかり拭き終えてハンカチを膝の上に置いたところで、レイ医師は指を三本立てて言った。
「これについての対処法は三種類あります。一つ目はボディを交換すること。二つ目は脳の性欲コントロールを司る部位の改造。三つ目は行動療法よ」
「んー」
予想していたことだが、やはり根本的に解決するならば、ボディ自体を何とかしなければならないのだ。
「でもやっぱり、一と二って、凄くお金がかかりますよね……」
はな六がおずおずと言うと、レイ医師は苦笑した。
「そうなの。それが最大のデメリット。しかも二つ目の方法は、下手をすれば一つ目と同等かそれ以上の費用がかかるのよね。新しめの中古ボディに交換する方が、安上がりかも」
「ですよねー……」
はな六のなけなしの貯金はこのボディの購入維持費ですってんてんになくなってしまったのだ。今から中古でもまともに使えそうなボディを買うなんて、いくら“お客様に夜の楽しみを提供するお仕事”が稼げるからといっても容易ではない。なにしろ単価は高くても、一日に取れる客の数はそう多くない。無理をすれば、身体を壊して治療費が嵩む。
「それと、一つ目の方法にはもう一つデメリットがあるわ。ボディの交換が多かれ少なかれ対人関係に影響を及ぼすということ」
そうだった。事実、クマともタヌキともつかないぽんぽこりんのボディからセクサロイドのボディに交換したせいで、はな六はかつての弟分であるジュンソとセックスをする羽目になった。ボディの交換さえしなければ、はな六とジュンソの関係がそういう方向性に進むことなど、永久に無かったはずだ。
「ですから、ボディの交換というのは、天涯孤独でない限りは、自分一人の問題ではないの。はな六ちゃんの場合も、パートナーの方とよく話し合ってからでないと」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
はな六は再び椅子から腰を少し上げ、両手を振ってレイ医師の話を遮った。
「おれはまさに天涯孤独の身、パートナーなんかいないんですけど……」
レイ医師は怪訝そうに眉を潜めた。
「え、じゃあサイトウさんって、本当ははな六ちゃんとどういうご関係?」
関係も何も赤の他人同士、ド助平で迷惑な同居人と被害者、大家と借家人くらいの関係でしかない。
「っていうかレイ先生、どうしてサイトウをおれのパートナーだと思ったんですか?」
「思ったというか、サイトウさん本人から聞いたのよ。ほら、先月のあの件の時。大怪我をしたはな六ちゃんを、彼がここまで運んで来たでしょう? その時に、彼ははな六ちゃんのパートナーだというので、意識のないはな六ちゃんの代わりに、緊急手術の同意書にサインをしてもらったの」
「んー」
パートナーなど。サイトウの口からは聞いたことのない単語だ。もしかして、本当はサイトウははな六を“嫁”と言っただけなのではないか? それならサイトウはしばしば言っている。だがそれはただの冗談、あるいはただの方便だとはな六は思っていた。昼間からボディーショップ斎藤のガレージの内や外を手持無沙汰にぷらぷらしているはな六のことを他人に聞かれた時、サイトウははな六を“俺の嫁”だと言う。はな六をここまで運んで来た時だって、同様に、関係性を説明するのが面倒で、そんなことを言ったのだろう。
「サイトウさん、はな六ちゃんの側でずっと手を握って励ましていたから、てっきりそういう関係だと信じてしまったけど……。もしかして違うの?」
「はい。赤の他人です」
「そう……」
レイ医師の唖然とした顔を見るといたたまれなくなってしまう。サイトウの嘘のせいであり、はな六には関係のないことなのに。
「んー、でもそういうことなので。もしもボディを交換するということになったとして、おれは自分の好きにしていいってことですよね」
レイ医師はいつもの穏やかな微笑みに表情を切り替え、頷いた。
「ええ、そういうことなら。さて、三つ目の方法よ。行動療法……これは数週間に一度のカウンセリングが必要だけど、あとははな六ちゃんが日常生活の中で努力すればいいだけだから、一番費用はかからないわ。ちょっと時間はかかるけど、はな六ちゃんにはおすすめね。はな六ちゃんならコツコツ頑張れそうだから」
はな六は頬がぽおっと上気するのを感じた。その通り! コツコツとした毎日の努力ははな六の十八番だ。はな六は上半身をくねくねさせながら言った。
「そうですね、頑張るのは得意です。で、行動療法とは、具体的にどのようなことを?」
「生活リズムを規則正しく整え、セックスのことに気が向かないようにします。出来れば何か好きなことを見つけて、それに熱中する時間を持つこと」
せっかく上気していた顔からサーッと“水の気”が退いていく。それはまさに、はな六が独自に試みて大失敗したやつだった。
「どうしたの? やっぱり難しいかしら。そうよね。これはかなり地道な方法ですし、三歩進んで二歩さがるような進捗に、嫌になってしまう人もいるけれど……」
「いや、いやいや頑張れます! おれ目茶苦茶頑張ります、何しろおれの十八番は毎日コツコツたゆまぬ努力ですから!」
「そう、じゃあ試してみる?」
はな六は勢いよく頷いてから、内心後悔した。つい負けん気を発揮してしまった。だが費用の関係からそれしか選択肢がないのも事実だった。新しいボディを買う為の金が貯まるまでのつなぎとして、行動療法を頑張るしかない。
レイ医師はデスクのディスプレイを見て言った。
「はな六ちゃんはそのボディに乗り換えて、まだ二ヶ月くらいなのね。それと同時にお住まいを変えて、新しいお仕事も始めて。変化の連続で、そろそろ疲れが出て来たんじゃない? おそらく、そのせいもあると思うの。急に身体の制御が出来なくなったり、幻聴が出たりするのは」
疲れている……そう言われてみれば、そうかもしれない。はな六は膝に置いた自分の掌に視線を落とした。
「そうですね。これ以上の変化はしんどいかも……。おれ、きっと安定がしたいんだと思います。何ものにも翻弄されずに、静かに暮らしたいな。昔、寮に帰れば出来たみたいに」
クマともタヌキともつかないぽんぽこりん時代を思い浮かべる。帰宅したらまずシャワーを浴びてよく身体を拭き、昔ファンから貰った“座り心地のいいソファ”に深く腰をかけた。そして脳をインターネットに繋ぎ、動画観賞をした。観るものは自然や動物に関するドキュメンタリーが多かった。ソファの中で細かなビーズがきしむ音が心地よかった。皮膚感覚のほとんどないぽんぽこりんには、その音と、体幹の角度が適切な角度に保たれていることが“座り心地のいい”状態だった。
「そうね。まずは、自分がどんなことをしたらリラックス出来るのかを、探るといいかもしれないわね。そうして様子を見てみる?」
「はい、やってみます」
レイ医師はにっこりとして顔を少し傾けた。肩口で切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
「あまり一人で抱え込まないでね。特に気になる症状がなくても、お話しがしたくなったらカウンセリングにいらっしゃい」
(やっぱりレイ先生は最高の主治医だ!)
はな六はすっかり上機嫌でカウンセリング室を出たが、受付で請求金額を知らされた時には昏倒しそうになった。
年始に手術の予約を入れてからクリニックを出た。駅に戻り、コインロッカーに入れておいた荷物を背負って、はな六は構内をよたよたと歩いた。通勤通学ラッシュにちょうどかぶってしまい、通路には沢山の人達が往来していた。
巨大広告スペースに張麗凰の顔が大写しにされている。鳶色の、情熱を宿す射抜くような眼差し。きりりとした眉にははな六のせいで負った傷の痕跡はない。レイ医師と同じに赤色に塗られた厚い唇の両端を引き上げて、強そうなのに嫌みのない笑顔を形作っている。まるで燃え盛る炎が人に化身したかのようだ。
(でも、本物の張麗凰は……)
友達になろう、と無邪気に差し伸べられた彼女の手の小ささ、感触。すべすべで薄くて細くて冷たくて、強く握られたら簡単に壊れてしまいそうだった。誰も彼女のことを、はな六を抱く時のように乱暴に扱いはしないだろう。そんなことをすれば、彼女は壊れてしまう。大事に大事に包み込むようなやり方が、彼女には似つかわしい。
『あんないたいけな女の子は、殴るものではなく守るものだよ、はな六』
あの子のどこが“いたいけ”だか。
(そんなことを彼女に言ってみろ、めちゃめちゃ怒るに決まっている!)
我に返ってぎくりとした。少し離れた場所で、学校の制服を着た女の子が三人ばかり固まってはな六を窺っていた。広告の人物とほぼ同じ顔をした奴が、広告の真正面に陣取ってぼんやりしていれば、それは奇異に見えるだろう。
以前ジュンソのファンをだまくらかした時のようには、はな六は愛想を振りまかなかった。そんなことをしなくても、はな六の、肩を左右にやたら振りながら、膝をろくに上げずによたよたと歩く姿を、誰が張麗凰と見間違うだろう? まるで老人のように転ばないよう慎重に歩を進め、広告から離れた。
「検査の結果、脳に異常はありませんでした。良かったわね」
レイ医師が笑顔で言ったとき、ほっとするどころか涙が溢れた。
「これのどこが異常なしなんですか! 公共の場であんなにびしょびしょに漏らしちゃって、いくら何でも酷すぎます! セクサロイドだからって我慢が利かなさすぎる! これじゃあおれ、どこか部屋に引き籠って、誰かがセックスしに来てくれるのを待つしか出来ないじゃないですかぁ……」
それはまさにサイトウに発見されたときのこのボディの有様だった。狭い部屋に閉じ込められ、ベッドの上でただ待つだけの日々を過ごしていた。それがこのボディにお似合いの生き様だというのなら、このボディに魂を込める必要などないのであり、こんなボディに魂を入れてしまったはな六は、幽閉されたのと同じだ。
気づけばはな六はレイ医師のすぐ鼻の先まで詰め寄っていた。「すいません」と小声で謝り、椅子にかけ直す。そんなはな六に、レイ医師は嫌な顔もせず、ポケットからハンカチを取り出してはな六に差し出した。
「いいのよ。そうね……セクサロイドの正常は人間にも、他のアンドロイドにすら異常に思われるかもしれないわね。セクサロイドは誰しもそのことで悩むのよ。はな六ちゃんだけではないわ」
はな六はハンカチで顔をごしごしと拭きながら頷いた。はな六が顔をすっかり拭き終えてハンカチを膝の上に置いたところで、レイ医師は指を三本立てて言った。
「これについての対処法は三種類あります。一つ目はボディを交換すること。二つ目は脳の性欲コントロールを司る部位の改造。三つ目は行動療法よ」
「んー」
予想していたことだが、やはり根本的に解決するならば、ボディ自体を何とかしなければならないのだ。
「でもやっぱり、一と二って、凄くお金がかかりますよね……」
はな六がおずおずと言うと、レイ医師は苦笑した。
「そうなの。それが最大のデメリット。しかも二つ目の方法は、下手をすれば一つ目と同等かそれ以上の費用がかかるのよね。新しめの中古ボディに交換する方が、安上がりかも」
「ですよねー……」
はな六のなけなしの貯金はこのボディの購入維持費ですってんてんになくなってしまったのだ。今から中古でもまともに使えそうなボディを買うなんて、いくら“お客様に夜の楽しみを提供するお仕事”が稼げるからといっても容易ではない。なにしろ単価は高くても、一日に取れる客の数はそう多くない。無理をすれば、身体を壊して治療費が嵩む。
「それと、一つ目の方法にはもう一つデメリットがあるわ。ボディの交換が多かれ少なかれ対人関係に影響を及ぼすということ」
そうだった。事実、クマともタヌキともつかないぽんぽこりんのボディからセクサロイドのボディに交換したせいで、はな六はかつての弟分であるジュンソとセックスをする羽目になった。ボディの交換さえしなければ、はな六とジュンソの関係がそういう方向性に進むことなど、永久に無かったはずだ。
「ですから、ボディの交換というのは、天涯孤独でない限りは、自分一人の問題ではないの。はな六ちゃんの場合も、パートナーの方とよく話し合ってからでないと」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
はな六は再び椅子から腰を少し上げ、両手を振ってレイ医師の話を遮った。
「おれはまさに天涯孤独の身、パートナーなんかいないんですけど……」
レイ医師は怪訝そうに眉を潜めた。
「え、じゃあサイトウさんって、本当ははな六ちゃんとどういうご関係?」
関係も何も赤の他人同士、ド助平で迷惑な同居人と被害者、大家と借家人くらいの関係でしかない。
「っていうかレイ先生、どうしてサイトウをおれのパートナーだと思ったんですか?」
「思ったというか、サイトウさん本人から聞いたのよ。ほら、先月のあの件の時。大怪我をしたはな六ちゃんを、彼がここまで運んで来たでしょう? その時に、彼ははな六ちゃんのパートナーだというので、意識のないはな六ちゃんの代わりに、緊急手術の同意書にサインをしてもらったの」
「んー」
パートナーなど。サイトウの口からは聞いたことのない単語だ。もしかして、本当はサイトウははな六を“嫁”と言っただけなのではないか? それならサイトウはしばしば言っている。だがそれはただの冗談、あるいはただの方便だとはな六は思っていた。昼間からボディーショップ斎藤のガレージの内や外を手持無沙汰にぷらぷらしているはな六のことを他人に聞かれた時、サイトウははな六を“俺の嫁”だと言う。はな六をここまで運んで来た時だって、同様に、関係性を説明するのが面倒で、そんなことを言ったのだろう。
「サイトウさん、はな六ちゃんの側でずっと手を握って励ましていたから、てっきりそういう関係だと信じてしまったけど……。もしかして違うの?」
「はい。赤の他人です」
「そう……」
レイ医師の唖然とした顔を見るといたたまれなくなってしまう。サイトウの嘘のせいであり、はな六には関係のないことなのに。
「んー、でもそういうことなので。もしもボディを交換するということになったとして、おれは自分の好きにしていいってことですよね」
レイ医師はいつもの穏やかな微笑みに表情を切り替え、頷いた。
「ええ、そういうことなら。さて、三つ目の方法よ。行動療法……これは数週間に一度のカウンセリングが必要だけど、あとははな六ちゃんが日常生活の中で努力すればいいだけだから、一番費用はかからないわ。ちょっと時間はかかるけど、はな六ちゃんにはおすすめね。はな六ちゃんならコツコツ頑張れそうだから」
はな六は頬がぽおっと上気するのを感じた。その通り! コツコツとした毎日の努力ははな六の十八番だ。はな六は上半身をくねくねさせながら言った。
「そうですね、頑張るのは得意です。で、行動療法とは、具体的にどのようなことを?」
「生活リズムを規則正しく整え、セックスのことに気が向かないようにします。出来れば何か好きなことを見つけて、それに熱中する時間を持つこと」
せっかく上気していた顔からサーッと“水の気”が退いていく。それはまさに、はな六が独自に試みて大失敗したやつだった。
「どうしたの? やっぱり難しいかしら。そうよね。これはかなり地道な方法ですし、三歩進んで二歩さがるような進捗に、嫌になってしまう人もいるけれど……」
「いや、いやいや頑張れます! おれ目茶苦茶頑張ります、何しろおれの十八番は毎日コツコツたゆまぬ努力ですから!」
「そう、じゃあ試してみる?」
はな六は勢いよく頷いてから、内心後悔した。つい負けん気を発揮してしまった。だが費用の関係からそれしか選択肢がないのも事実だった。新しいボディを買う為の金が貯まるまでのつなぎとして、行動療法を頑張るしかない。
レイ医師はデスクのディスプレイを見て言った。
「はな六ちゃんはそのボディに乗り換えて、まだ二ヶ月くらいなのね。それと同時にお住まいを変えて、新しいお仕事も始めて。変化の連続で、そろそろ疲れが出て来たんじゃない? おそらく、そのせいもあると思うの。急に身体の制御が出来なくなったり、幻聴が出たりするのは」
疲れている……そう言われてみれば、そうかもしれない。はな六は膝に置いた自分の掌に視線を落とした。
「そうですね。これ以上の変化はしんどいかも……。おれ、きっと安定がしたいんだと思います。何ものにも翻弄されずに、静かに暮らしたいな。昔、寮に帰れば出来たみたいに」
クマともタヌキともつかないぽんぽこりん時代を思い浮かべる。帰宅したらまずシャワーを浴びてよく身体を拭き、昔ファンから貰った“座り心地のいいソファ”に深く腰をかけた。そして脳をインターネットに繋ぎ、動画観賞をした。観るものは自然や動物に関するドキュメンタリーが多かった。ソファの中で細かなビーズがきしむ音が心地よかった。皮膚感覚のほとんどないぽんぽこりんには、その音と、体幹の角度が適切な角度に保たれていることが“座り心地のいい”状態だった。
「そうね。まずは、自分がどんなことをしたらリラックス出来るのかを、探るといいかもしれないわね。そうして様子を見てみる?」
「はい、やってみます」
レイ医師はにっこりとして顔を少し傾けた。肩口で切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
「あまり一人で抱え込まないでね。特に気になる症状がなくても、お話しがしたくなったらカウンセリングにいらっしゃい」
(やっぱりレイ先生は最高の主治医だ!)
はな六はすっかり上機嫌でカウンセリング室を出たが、受付で請求金額を知らされた時には昏倒しそうになった。
年始に手術の予約を入れてからクリニックを出た。駅に戻り、コインロッカーに入れておいた荷物を背負って、はな六は構内をよたよたと歩いた。通勤通学ラッシュにちょうどかぶってしまい、通路には沢山の人達が往来していた。
巨大広告スペースに張麗凰の顔が大写しにされている。鳶色の、情熱を宿す射抜くような眼差し。きりりとした眉にははな六のせいで負った傷の痕跡はない。レイ医師と同じに赤色に塗られた厚い唇の両端を引き上げて、強そうなのに嫌みのない笑顔を形作っている。まるで燃え盛る炎が人に化身したかのようだ。
(でも、本物の張麗凰は……)
友達になろう、と無邪気に差し伸べられた彼女の手の小ささ、感触。すべすべで薄くて細くて冷たくて、強く握られたら簡単に壊れてしまいそうだった。誰も彼女のことを、はな六を抱く時のように乱暴に扱いはしないだろう。そんなことをすれば、彼女は壊れてしまう。大事に大事に包み込むようなやり方が、彼女には似つかわしい。
『あんないたいけな女の子は、殴るものではなく守るものだよ、はな六』
あの子のどこが“いたいけ”だか。
(そんなことを彼女に言ってみろ、めちゃめちゃ怒るに決まっている!)
我に返ってぎくりとした。少し離れた場所で、学校の制服を着た女の子が三人ばかり固まってはな六を窺っていた。広告の人物とほぼ同じ顔をした奴が、広告の真正面に陣取ってぼんやりしていれば、それは奇異に見えるだろう。
以前ジュンソのファンをだまくらかした時のようには、はな六は愛想を振りまかなかった。そんなことをしなくても、はな六の、肩を左右にやたら振りながら、膝をろくに上げずによたよたと歩く姿を、誰が張麗凰と見間違うだろう? まるで老人のように転ばないよう慎重に歩を進め、広告から離れた。
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