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第2章

はな六の独立宣言 ②

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 マサユキは厚ぼったいまぶたをほんの僅かに見開き、分厚い唇を少し開いて、はな六を見下ろした。そして一分くらい沈黙し、はな六が不安でそわそわし始めた頃にようやく言った。
「セックスしてもらってもいいですか?」
「えっ」
「さっきの表情、すごくエチエチだったので、勃ってしまいました。ちょっと我慢し難いので、挿れさせていただけると有難いです」
 はな六はマサユキの下半身に指を這わせた。スウェット地の下で、マサユキの大きな逸物がひくりひくりと蠢いていた。
 
 セックスの後、はな六がシャワーを浴び終えると、マサユキは電話応対をしていた。
「六花ちゃん、お仕事入りましたよ。六十分コースで指名あり、オプションは無しです」
「了解」
 はな六はマサユキのもとに歩いていき、書類に注文を記入しているマサユキの手元を覗き込んだ。
「遠いとこ?」
「車で三十分くらいです」
「そう」
 マサユキは顔を上げ、はな六の唇に口付けた。
「どうしました? そんなに心配そうな顔して」
「仕事の前はいつも心配だよ。変な客に当たったらやだなぁって」
「そうですか。危ないと思ったらすぐ僕に電話してくださいね、助けに行きますから」
「うん、ありがと」
「いいえ、それが僕の仕事ですから」
 マサユキの手によしよしと頭を撫でられ、はな六は目を細めた。
「あ、そうそう、六花ちゃん」
「なに?」
「パーツの交換の件ですが、僕などが意見してよいのかわかりませんけれども、あえて僕の好みを申し上げるならば、僕はエチエチに乱れる六花ちゃんが好きなので、六花ちゃんがより気持ちよく感じられるパーツがいいですねぇ。まぁ、一意見として聞き流していただければ」
「わかった。参考にするね」
 はな六はマサユキの頬にチュッとキスをした。ふと時計を見ると、もう仕事仲間達が出勤して来る時間で、廊下の方から陽気な話し声と足音が近付いて来るのが聴こえた。
 
 迎えの車は客が手配してくれるというので、はな六はマサユキと二人、マンションの駐車場で待っていた。すると、てっきりタクシーが迎えに来るのかと思いきや、やって来たのはピカピカの高級車だった。
「あらら、ハイエンド」
「おれが乗って大丈夫なの?」
「モチのロンですよ。お客様が呼んでくれたのですから」
 運転手が車を降りて来て、はな六の為に後部座席のドアを開け、恭しく頭をたれた。
「VIP待遇ですね」
「おれちょっと心配になって来た。お金がかかってるからって、変なことされたりしないよね?」
「大丈夫ですよ。ただのお金持ちの道楽でしょう。でももし何かあったらすぐにお電話下さいね。駆けつけますから。あと携帯のGPS、オンにしといて下さい」
 はな六は携帯端末を取り出し、位置情報がオンになっていることを確認した。そして恐る恐る運転手に荷物を預け、車に乗り込んだ。手を振るマサユキに、ぎこちなく手を振り返す。間もなく車はスムーズに動きだした。はな六は泣きそうになりながら、遠ざかっていくマサユキの姿を見詰め続けた。
 はな六を乗せた高級車が滑り込んだのは、森の側にそびえ立つ、ホテルのような趣の高層建築だった。オレンジ色の光に満ちた豪奢なエントランスに、行き先を間違えているのではないかと一層心配になったが、運転手は何も間違いなどない様子で後部座席のドアを開け、はな六が降りるのを待つ。はな六はおずおずと車内から大理石の床に足を下ろした。
 マンションなのにホテルのようにロビーに受付カウンターがある。人のいるカウンターがある場所では、いつも緊張してしまう。時々、受付係にはな六のような業種の者が出入りするのを嫌う者がいて、嫌悪感剥き出しの塩対応をされることがある。塩対応だけならいいが、警察を呼ばれることもまれにあるらしい。そうならないよう、さもここの住民の友達であるかのように、胸を張って堂々としなければならない。だが、こんな場違いな所で堂々とできる訳がない。
 ところがはな六がロビーに入ると、受付係の一人が近づいてきて荷物を預り、エレベーターまで案内してくれた。どうやら、きちんと受付まで話が通してあるらしい。
 エレベーターの中に鏡があったので、はな六は両手で頬っぺたをわしわしと揉みほぐし、それから鏡の中の自分に向かってにっこりと笑った。自分が今から訪う部屋の住人は自分の恋人なのだという暗示を自分にかけるためだ。
 エレベーターが目的のフロアに停まる。はな六は頬をパチパチと叩いて、エレベーターを降り、重厚なカーペットの敷き詰められた廊下を歩き出した。
 
「はぁ……」
 思わずため息が出てしまう。グレーを基調とした広い部屋は、これまで訪問したどの部屋よりも豪華だった。磨き上げられたシックな黒のキャビネット、広々としたオープンキッチン、透明なガラス製のローテーブル。そしてはな六が腰を下ろしている、手触りがよくふかふかのソファー。厚く敷き詰められた絨毯から足の裏に、ほかほかと床暖房の熱が伝わってくる。
 膝の上にも、ほかほかと熱を発するものが一匹。ラグジュアリーなマンション住まいにしてはごく普通の、どこにでもいそうな雑種の白猫だ。猫はよく躾けられているのか、それとも飼い主に似て大人しい質なのか、テーブルの上にある菓子やおつまみを欲しがることはせず、はな六の膝の上に行儀よく座っていた。
 ふと猫がくるりと振り向き、「にゃ」と小さく鳴いた。
「めっだよ」
 とはな六がいうと、猫はわかっているとでも言いたげな様子で伸び上がり、はな六の顎に頭のてっぺんを擦りつけた。
「くすぐったい! やめてよ“蒸しパン”」
 だが猫の重みやふかふかな手触りは心地よく、猫を飼いたがる人間の気持ちをはな六は今ようやく理解した。
「六花は飲み物は何がいい?」
 オープンキッチンから、蒸しパンの飼い主が言った。
「えっと、お構いなく」
「遠慮しないで。酒は呑める?」
「いえ、全然だめなんです」
「下戸なんだ。じゃあソフトドリンクがいいかな」
「お水がいいです」
「本当に? 車酔いでもした?」
「んー」
(クルマヨイって、何だろう……)
 さりげなく言われたからには、人間にはよくあることなのだろう。質問したら人間ではないことがバレるかもしれない。目の前の相手は、はな六がアンドロイドだと知ったら手荒な真似をしてくるだろうか?
 子供の頃、悪ガキ達がクマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドだったはな六を足蹴にしたり碁石を投げつけてきたりする中、一人離れた所に佇んでこちらの様子を窺っていたジュンソ。
 そう、あのハン・ジュンソだ。恐るべき偶然により、はな六は旧友の部屋に招かれてしまったのだ。
「はい、お水どうぞ」
 ジュンソがはな六の目の前にグラスを置いた。蒸しパンは飼い主に遠慮してか、はな六の膝から降りていった。
「ありがとうございます。うわぁ、すごい、綺麗なコップですね」
 透明なグラスには格子状の繊細なカッティングがほどこされていて、間接照明を受けてキラキラと輝いている。
「エドキリコって言うんだ。知ってる?」
 はな六は首を振った。
「ジャパンの伝統工芸品だよ。気に入ったなら持って帰ってもいいよ」
「いえいえ結構です! すごく高そうだし」
「別にそんなに高くないよ。二万円くらいだったかな」
「二万円!?」
 ただの客人に水を出すグラスが二万円とは、普通の金銭感覚じゃない! 
(ジュンソの家は金持ちだ、という噂は子供時代に聞いたことがあるけど、まさかこれほどのものとは……) 
 はな六がおののいていると、ジュンソはそんなのお構い無しではな六の隣に座り、ワインボトルの栓を開け、手酌で氷の入ったグラスに注いだ。
「もっと長い時間遊びたいんだけど、今日は君は延長は出来ないって店長さんから言われた。もしかして学生さん?」
 はな六は曖昧に頷いた。
「これ、この間街をぶらぶらしてたら見つけたんだ。こんなの見たことないでしょ? 安いのに結構美味しいんだよ」
 そう言って、ジュンソはボトルを回してラベルをはな六の方へ向けた。
 “アカダマポートワイン”
(これは……)
 はな六はしょっちゅう見かける。サイトウの家の冷蔵庫に常備されているし、マサユキの部屋の台所にもある。料理の仕込みに使う赤ワインだ。つい先日も、マサユキがユユのリクエストで鶏の照り焼きを作るため、前日の夕方に鶏肉をこのワインに漬けていた。
「こんな素晴らしいものが千円以下で売っていた。ジャパンは面白い国だね」
 ジュンソはグラスを掲げ、はな六のグラスに軽く当てた。グラスと氷が涼しげに鳴る。グラスの中身を半分ほど一息に飲んでしまうと、ジュンソはソファーに背中を預けて寛いだ。組んだ脚の、薄手のルームシューズを履いた爪先がゆらゆらと穏やかに揺れる。と、どこに隠れていたのか、蒸しパンがひょっこりと顔を出した。大きな眼をキョロキョロと動かして飼い主の爪先を追ったが、すぐに飽きた様子ではな六の膝に飛び乗ってきた。はな六が撫でてやると、蒸しパンは心地よさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「珍しいじゃないか。お客さんに懐くなんて」
 ジュンソに顎をわしわしと撫でられ、蒸しパンは仰向けになって身体をくねらす。
「この子は“にくまん”。もう一匹、双子の兄弟が、たぶんそこら辺に隠れていると思うけど……」
 はな六はギクリとした。この白猫は昔はな六が面倒を見た“蒸しパン”ではなかったのだ。さっき、はな六が猫を蒸しパンと呼んだのをジュンソは聴いていただろうか?
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