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●僕の知らない兄のこと。

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 納屋の二階の入り口は、天井をくり貫いただけの穴に見えた。僕は天井へと垂直に伸びる木製の梯子の根元から、恐る恐る穴を見上げた。梯の下から三段目に手をかけてみると、少し体重をかけただけで軋んだ。
「大丈夫だって。大人でも昇れるんだから、俺らだって昇れらぁ」
 ぶかぶかのトレーナーの袖を捲り上げる、兄の背中が大きく見えた。当時、僕はまだ三つか四つ。兄との歳の差は約一歳半だが、三つ以上離れて見えると、よく言われたものだ。
 日焼けして、よく磨いた椅子の脚みたいに滑らかで細長い脚が、僕の目の前を上がって行く。あの時、何がなんでも兄を止めていればよかった。梯子を昇った先は誓二せいじさんのねぐらだった。
 でも、「運命の番」というのが本当なら、止めても無駄だったのかな。


 役場から帰って、一階の事務所でうちの家族と祖父と誓二さんとで、遅い昼食。大人達はほか弁を食べながら今後の相談をしていたが、僕は完全に蚊帳の外。兄は、誓二さんの隣で終始無言だった。
 腑甲斐無い。僕はおチビちゃんの父親としての務めを果たそうと役場に乗り込んだのに、結局何も出来なかった。厄介事を全て片付けたのは、後から来た誓二さんだ。
 そのせいか、祖父はおチビちゃんの父親は誓二さんだと思い込んでいて、しかもその勘違いを誰も正そうとはしない。その方が、拗れないと思われたのかな……。
 昼食の後、兄と母がおチビちゃんの引き取りに病院へ行ってしまうと、誓二さんは僕に「少し話をしよう」と言った。僕は彼を僕の部屋に案内した。兄が入りたがらない部屋。本だらけで埃が溜まっているから、綺麗好きの兄には耐えられないのだ。
「へぇ、さすが兄弟。お前も本読みなんだな」
 誓二さんは僕の本棚を見て感嘆した。あの兄が本読み? 僕は兄が漫画以外を読んでいるところなんか、見たことがない。
「『姑獲鳥の夏』だ。俺も読んだよ。面白いよな」
 誓二さんはしばらく本棚を眺めていたが、ふとかがみ込むと、床に積んであった本の中から、迷いのない動作で一冊の大型本を抜き出した。
『星の地図館』
 それは、僕がアルバムからくすねた兄の写真の隠し場所だ。もし兄がこの部屋に入っても、絶対見なさそうだと思ったから。ところが誓二さんは、
「アキが好きそうな本だな」
 と笑った。
「さて、本題に入ろう。知玄、番契約を解消しな。お前にアキを支えるのは無理だから」
 誓二さんはベッドに腰掛けて語った。Ωやαのこと。その生態や歴史、現在の境遇について。それから、僕の知らない兄のこと。
 高校時代の兄は、今と違い細くて華奢で、可憐な少女のようだった。それは一時的なホルモンバランスの乱れによるもの。当時の兄は発情期ヒートが重くて、三日三晩寝込むほどだった。その期間、兄は誓二さんの部屋で静養していた。暇潰しに、兄はよく科学雑誌を読んでいた。「家では読めないから」といって。兄は特に生物学に興味があり、家が自営でなければ生物学者になりたかったらしい。
 しばしば兄は「なんか家が居づらい」と誓二さんに訴えた。もしかすると、家の中にαがいる事に、薄々感づいていたのかもしれない。
 その話の一つ一つが、僕の心をへし折った。
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