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●茜ちゃん。その③

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 僕が帰宅した時、兄が茜ちゃんに生コン車の洗い方を教えているところだった。
 水飛沫が飛び、茜ちゃんが「きゃあ!」と声をあげた。顔を見合せて笑う二人には、曇天の下の砂礫の転がる殺風景な広場より、常夏の島のビーチの方が似合いそうだ。
 いいなぁ。家業のことに僕が関わるのは禁止、というのが、この井田家のルールの一つだ。
 子供の頃から、兄だけが家業を継ぐということに、僕は何の疑問も持たなかったけれど、そうか、お兄さんのお嫁さんになる人ならば……。
 そう気付いてしまうと、途端に自分の立場が恨めしくなる。弟には、兄の隣に立つ資格はない。僕の立ちたい場所にはいずれ、兄に選ばれた女子が立つのだ。やだなぁ、と思いながら、僕は二人に帰宅の挨拶もせず、家の二階へと上がった。
 珍しいことに二日連続で、家族四人がちゃんと揃っている。父と母と兄と茜ちゃん。僕は、はみ出者。昨日と同じく、僕は茜ちゃんに指定席を譲ってしまったので、兄と母の間にちんまりと座っている。
 父、母、兄、そして僕の四人だったら、談笑しながらの夕食なんてあり得ない。茜ちゃんが僕と交代しただけで、こんな和気藹々家族になってしまう。『僕は要らない子なのでは……』なんて思いながら食む母特製のコロッケは、じゃがいもの代わりに砂でも詰まっているかのような味気なさだった。
 夜、兄は布団に入ると早々に寝てしまい、僕が背中に鼻面をぐりぐり押し付けても、ぴくりともせず寝息をたて続けた。
 眠れないので、何か温かいものでも飲むかと台所に向かうと、茶の間にまだ明かりが点いていた。見れば茜ちゃんが炬燵のテーブルにうつ伏して寝ている。
「こんな所で寝たら風邪を引きますよ」
 僕が肩を揺すると、茜ちゃんはがばっと跳ね起きた。
「ふぁ! なんだぁ、知玄とものり君か」
 僕は思わず吹き出した。ノートと原稿用紙を枕にしていた茜ちゃんの頬には、鉛筆で書いた文字が転写されていた。彼女は自分の頬を指で拭い、エヘヘと照れ笑いした。
 びっしりと文字の書き込まれた紙を、茜ちゃんは上着の袖で覆い隠す。
「小説を書いてたんですね」
 一瞬見えた文章は、明らかに論文の類いではなかった。
「そう……といっても、私、ただの“自称”小説家なんだぁ。文学賞に応募したこともあるけど、全然ダメ。そんななのに、取材だなんていってお家にお邪魔しちゃって、ごめんね」
「いいえ。僕、ホットミルク飲もうかと思って来たんですけど、茜ちゃんも飲みます?」
「うん、いただきます、ありがとう」
 僕は台所でミルクパンを火にかけ、牛乳を温めた。
 二つのマグカップにホットミルクを取り分けて茶の間に持っていくと、茜ちゃんは一心不乱に鉛筆を動かしていた。斜め後ろから近寄り横顔を覗けば、見たことがないほど真剣な表情をして、僕の存在に全く気付かない。
 彼女は本気で小説家になろうとしている。いや、プロデビューをしていないだけで、彼女は既に小説家なのだ。彼女がこの家に来たのは、あくまで仕事のためであり、嫁入り候補先の視察なんかじゃない。やきもちなんか焼いていた自分が恥ずかしい。僕は茜ちゃんの邪魔にならない所に、そっとカップを置いた。
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