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●「すみません」ではすみません。
しおりを挟む四月某日の夕暮れ。当時大学二年生だった僕、井田知玄は、とんでもない過ちを犯した。
帰宅して、なにかいい匂いがするなと思ったら、兄の部屋のドアが薄く開いていて、匂いはそこから漏れていたようだった。興味本位に、ドアの隙間から薄暗い室内を覗いた。そのあたりで意識が飛んだ。気づけば僕は兄の上にのしかかっていて、しかもことはフィニッシュにさしかかっていた。
「あ゛ーーっ!!」
兄にしたたかに蹴られて、僕の身体はベッドとローテーブルの間に落っこちた。僕はうめき声をあげて立ち上がり、蛍光灯の紐を引いた。部屋が明るくなると、まるで魔法が解けたように現実に引き戻された。
「窓開けて」
兄の掠れ声に、僕はよろよろと歩いていって南の窓を開けた。
砂埃を含んだ生暖かい風が吹き込み、室内に籠っていた濃厚な甘い匂いを散らした。兄の匂いだ。桜の芳香に似た、良い匂い。色にたとえれば、ちょうど今、夕日が沈んだ方とは逆方向、東の空に広がるネイビーの下を縁取る、淡いピンクだ。
反則だ、匂いで惑わしてくるだなんて……。
さっきは無我夢中だったというか、前後不覚だったというか、何をどうしたかほぼほぼ覚えていないけれど、兄の唇の感触と血の味の余韻はまだ残っている。あんなに激しく情熱的な口づけをしたのは初めてで、だからといってなんで咬みついちゃったのか、わからないけれど。
「はぁ」
思わず出てしまった溜息に、
「溜息出るのはこっちの方だろ」
兄がピシャリと言った。僕は開けた窓に背を向けた。兄は黒いジャージのズボンに脚を通し、そして黒地に白で髑髏や十字架などの描かれた、尖ったデザインの長袖を着たところだった。
広い襟ぐりから赤い傷が覗く。ついさっきまでは結構な量の血が流れていたが、もう傷口は塞がったのか、ただ赤く腫れているだけに見える。
僕はフローリングに両膝をついて深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
兄からのリアクションが無いので、顔だけチラッと上げてみた。兄は短く刈り込んだ金髪頭をボリボリ掻くと、ローテーブルに手をのばし、マルボロメンソールとジッポを取り上げた。案外関節の部分がしっかりとしているせいで、かえって華奢な印象の際立つ、兄の細い指たち。左手の親指がジッポの蓋を弾いた。人差し指と中指に煙草を挟んだ右手が口元を覆い、離れる。兄は薄い唇から紫煙を細く長く吐いて、まだ点けたばかりの一本目を灰皿の縁に押し付けた。
「で、どうしてくれんの?」
僕が答えあぐねていると、兄は二本目に火を点けて言った。
「俺、もうお前にしか抱かれらんないじゃん」
まさかのお褒めの言葉!? 途中までけっこうノリノリでしたしねお兄さん!! とぬか喜びをしたのも束の間で、兄は切れ長の目をじとっと細めて言った。
「お前さぁ、女子に対してもあんな風にやるの? 今までよく通報されずに来れたな」
きっつー! それならまだ直球で「この下手くそ!」と罵られた方がマシだ。
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