奴らの誇り

板倉恭司

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能見唯湖編

突然の申し出

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 ビシッ、という鋭い音が響き渡る。
 唯湖がサンドバッグに蹴りを叩き込む度、鞭で打つような音がジム内に響く。それも、一発では終わらない。合間に右のパンチを挟みつつ、左右の蹴りをサンドバッグに打ち込む。
 一瞬、唯湖の動きが止まった。右の大振りのフック……のフェイントから、左足での上段後ろ回し蹴りを放った。
 時計回りに体が回転し、かかとがサンドバッグに食い込む。左足がピンと伸びた美しい蹴りだ。ドスッ、という音が響いた。
 直接、カーンという音が鳴る。インターバルの合図だ。唯湖は持参した水筒を手に取り、中の水を飲んだ。

「見事な動きだ。まだ入会して三ヶ月だというのに、技のフォームが美しい。体の軸もしっかりしている」

 黒崎が声をかけてきた。
 そう、唯湖が入会してから三ヶ月が過ぎていた。入会する前は、他の者からの視線を浴びるのではないか……と思っていたが、いざ入ってみると全く問題ない。
 ここは、ニューハーフの大東恵子と年下の彼氏である鈴本龍平や、自称・除霊師の上野といった者たちが普通に通っているジムだ。片腕がないことなど、この荒川ジムでは注目を浴びる要素ではなかったのである。

「いえいえ。まだまだです」

 笑顔で応じる唯湖だったが、それは謙遜ではなく本音だった。実際に、間近で黒崎の技を見ている。あれに比べれば、自分などまだまだだ。
 すると、その黒崎からとんでもない言葉が飛び出した。

「次は、スパーリングだ」

「えっ? 相手は?」

 思わず聞き返す。
 スパーリングとは、試合形式の練習だ。唯湖もこれまでに何度か体験している。もっとも、相手を務めるのは田原草太や大東だ。それも、攻撃を当てない寸止めのマス・スパーリングである。
 しかし今は、田原も大東もいない。黒崎とマンツーマンの状態である。では、黒崎とスパーリングをしろということか。
 困惑する唯湖に向かい、黒崎はニヤリと笑う。

「俺が相手では不満か?」

「い、いえ、そんなことは……」

「では、用意するぞ」

 そう言うと、黒崎は壁にかけてあるグローブを手に取る。十六オンスの、スパーリング用のものだ。風船のような大きさで、クリーンヒットしにくい構造になっている。
 黒崎は、そのグローブを唯湖の右手にはめてくれた。
 次にレガースを手に取る。これは、足をガードするための防具だ。黒崎は、唯湖の両足に付けてくれた。
 そして、自身も両手に十六オンスのグローブをはめる。これで、準備は整った。

 アラームが鳴り、スパーリングが始まった。
 黒崎は構えた姿勢から、じりじりと前に出て来る。その手足から感じられるプレッシャーは凄まじい。唯湖はどうしていいかわからず、彼の前進に合わせ後退してしまう。すると、背中が壁に付いた。
 思わず顔をしかめる。もう逃げ場はない。前に出て、打ち合うしかない。
 その時、黒崎の前進が止まった。唯湖を見据え、口を開く。

「まっすぐ下がるな。逃げる時は、相手の横だ。横に回り込め」

 ハッとなった。そうだ。いつもなら、横に回り込めていたはず。黒崎のプレッシャーが、思考にまで影響を与えていたのか。
 直後、唯湖は動いた。円を描くような動きで、素早く回り込む。

「そうだ。その動きを忘れるな。次は攻撃だ。好きなように打ってこい」

 黒崎の声を聞き、唯湖はすっと間合いを詰めていく。直後、右の前蹴りを放った。足先が、黒崎の腹に当たる。
 すると、黒崎の目が細くなった。

「本気で来い。俺を倒すつもりて技を出すんだ」

「えっ?」

 戸惑う唯湖に、黒崎はなおも言葉を続ける。

「本気で来いと言っているんだ。俺を誠だと思って、力いっぱい蹴ってみろ」

 その時、嫌な記憶が蘇る──
 唯湖の表情が変わった。次の瞬間、本気の左ミドルキックを放つ。鋭い音とともに、左足が黒崎の脇腹を打った。
 手加減いっさい無しの左ミドルキックだった。だが、まともに蹴られた黒崎は微動だにしない。ただ、うんと頷いただけだった。

「いい蹴りだ。その調子で、好きなように打ってこい」

 唯湖は、さらに左ミドルキックを放つ。と、いきなり黒崎の右拳が伸びた。速く、鋭い右ストレート……いや、違う。右のオーバーハンドだ。肩の回転を活かし、ピッチャーがボールを投げるようなフォームで放つパンチである。
 右拳は、唯湖の顔面すれすれで止まった── 

「蹴る時は、パンチに気をつけろ。お前の蹴りは、確かに素晴らしい。だが、足を止めて蹴りばかり使えば、相手はパンチを合わせようとしてくる。相手に次の攻撃を読ませるな。左右の蹴りと右のパンチをうまく使い、攻撃を散らせ」

「は、はい!」

 答えた直後、唯湖の攻撃は加速する。
 速いステップで黒崎の周りを動きつつ、右の前蹴りや右のジャブで牽制する。黒崎が打ち返そうとした瞬間、素早く横に動き攻撃の的を絞らせない。
 不意に、黒崎はガードを固めた。そのまま、一気に前へ出て来る。ブルファイターに有りがちな、前進しての打ち合いを狙うスタイルだ。
 すると、唯湖の体が回転した。綺麗に一回転したかと思うと、左足が放たれる──
 左足のかかとが、黒崎の顔面へと飛んでいく。左の上段後ろ回し蹴りだ。硬いかかとを当てるため、うまく蹴れば一発で倒せる。
 だが、黒崎はきっちりガードした。と同時に、アラームが鳴る。ラウンドが終わったのだ。
 黒崎は、うむと頷いた。

「終わりにしよう。それにしても、わずか三ヶ月で素晴らしい伸びだ。昔、宇宙飛行士を目指していたと言っていたが、その時もトレーニングはしていたのか?」

「はい。近所にあった市営の体育館でトレーニングルームに通っていました。すごく安かったんですよ」

「そうか」

「でも、その後ずっと怠けてましたからね。付けた筋肉も、入院してる間に落ちちゃいました。無駄な努力でしたよ」

 自嘲の笑みを浮かべる。
 そう、あの頃は自分の全てを夢に捧げていた。勉強、バイト、トレーニングにほとんどの時間を費やしてきた。食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まない。家に帰れば、バタンと寝るだけの毎日。若い女の子らしい趣味に興じた記憶など、ほとんどない。
 だが、夢は消える。酔っ払い運転の車により、無残に打ち砕かれてしまった……。
 その時、黒崎がじろりと睨んだ。
 
「それは違う。お前の身体能力は、この短期間で高いレベルに引き上げられた。常人には、ありえないことだ。なぜかわかるか?」

「い、いえ」

 わかるわけがない。かぶりを振ると、黒崎は静かな口調で語り出した。

「人間の体には不思議な部分がある。ボディビルダーが、数年間トレーニングを休んだとしよう。当然、筋肉は落ちる。ところが、トレーニングを再開すると、短期間で元のレベルに戻っていく。つまり、筋肉にも過去の記憶があるということだ」

 唯湖は、何も言えなかった。黒崎という男、あまり口数の多い方ではない。態度もぶっきらぼうだ。お世辞にも、口のうまい方とは言えない。
 だが、今の黒崎は違っていた。その口から出る言葉には重みがある。

「これは筋肉だけではない。汗を流し、努力の末に身につけたものは、本人の体に染み込んでいる。お前の今の身体能力の高さは、バレエ教室に通い、宇宙飛行士を目指していた時に培われたものだ。無駄な努力ではなかった」

 言われた唯湖は、ふと己の左腕に視線を落とす。
 事故から目覚めた時、自分に起きたことが信じられなかった。あまりにも理不尽だ、と運命を呪いさえした。
 今も、その気持ちが消えたわけではない。同時に、仕方なかったのだという思いもある。何より、世の中を呪ったままでは、また薬物の誘惑に負けてしまう。
 今はただ、前へ進むしかないのだ──

 そんなことを思っていた時だった。黒崎の口から、とんでもない言葉が飛び出る。
 
「ところで、試合に出てみる気はあるか?」





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