17 / 17
ライガーマスクのうた
しおりを挟む
吉井一也は、田舎の村でひとり暮らしをしている中年男だ。年齢を考えれば、老人と言っても差し支えないかもしれない。数年前に妻が病死し、都会を離れ田舎へと引っ越して来た。以来、ずっと田舎暮らしをしている。
既に六十歳を過ぎているが、それでも体はよく動く。今も週三日、三キロほどの山道をジョギングしているほど元気である。体つきも引き締まっており、見た目だけなら四十代だと言っても通じるだろう。
そんな吉井の日課は、近所に住む子供に勉強や遊びを教えることであった。既に仕事をリタイアした身である彼にとって、子供たちとの触れ合いこそが唯一の生き甲斐である。
その日も、吉井の家には近所の子供が来るはずであった。
しかし、家を訪れたのは別のものだった。
吉井は異変を感じ、外に出て辺りを見回す。既に日は沈み、しんと静まりかえっている。虫の声ひとつ聞こえない。
虫の声がしないということは、何か危険なものが潜んでいるからだ。吉井は、その場を離れようとした。
次の瞬間、木の上から何者かが落ちてくる。黒い革のコート、肩まである髪。病的なまでに白い肌を持つその若者は、じっと吉井を見つめていた。
「よう、三十年ぶりだな。俺の顔、忘れちまったのかい?」
言いながら、海斗はゆっくりと近づいて行く。
すると、吉井の顔が歪んだ。
「君は誰だ? なぜここに?」
その問いには答えず、海斗はずんずん近づいて行った。
吉井の目の前に立ち、ニヤリと笑う。
「吉井さんよう……何で、あんな騒ぎを起こしたんだ?」
だが、吉井は怯えた表情で首を振る。
「な、何を言っているんだ? 私は、君なんか知らない」
その途端、海斗の表情が変わった。
「とぼけんじゃねえ!」
怒鳴ると同時に、海斗の手が伸び吉井の手を掴んだ。
直後、一瞬で握り潰す──
悲鳴を上げる吉井。彼の右手の骨は、完全に砕けてしまっている。
しかし、海斗は容赦しない。さらに左手も掴む。
「吉井さん、あんた三十年前は崎村達也って名乗ってたな。食品会社の営業マンだ、とも言ってた。だが、全て嘘だったんだな。あんたは、二つのヤクザの間に戦争の火種を撒いた。とぼけるなら、こっちの手もへし折るぜ」
言いながら、海斗は手に力を込める。すると、吉井は叫び声を上げた。
「やめてくれ! わ、私は──」
「崎村達也と名乗り、二つのヤクザの間に抗争の火種を撒いた。それに間違いないな?」
「そ、そうだぁ!」
吉井は、涙を流しながら答える。その右手は、完全に砕けていた。左手はまだ動くようだが、それでも手の形は変形している。
「あんたは、俺の愛していた町にトラブルの種を撒き散らした。まずは、その理由を聞かせてくれよ。言わないなら、指を一本ずつへし折る」
「わかったよ! 言うからやめてくれ!」
叫びながら、額を床に擦り付ける。吉井はこれまで、様々な訓練を受けてきた。銃器の扱いや格闘技、さらには交渉術も。だが目の前の者には、それらのスキルが一切役に立たないことを悟った。
目の前にいる者は、人間ではないのだ。
「だったら、早く言え」
海斗の言葉に気圧され、吉井は震えながら口を開いた。
「当時、私はある任務のために真幌市に送り込まれた。ヤクザたちを煽り、戦争をさせること。それが私の任務だったんだ」
「任務だと? どういう事だ?」
「あの頃、時代は変化していた。ヤクザが必要悪だった時代は、既に終わっていた。そんな時、二つの暴力団が抗争を始めた。そこで、公安の上層部は決断した。抗争を煽り、両団体を一気に弱体化させてしまおうと──」
「ざけんじゃねえよ! その結果、まったく関係のない二人の人間が死んだんだよ! その上層部とやらの思惑のせいでな!」
言いながら、海斗は吉井の首を掴む。片手でグイと持ち上げた。
吉井は必死でもがいたが、海斗は手を放さない。その瞳は、不気味に紅く光っていた。
「いいか、てめえはただじゃあ死なさねえ。両手両足を引きちぎってから殺してやる。徹底的に苦しめてやる。今日子の苦しみを思い知らせてやるぜ!」
海斗はニタリと笑った。だが、その時に想定外の事態が起きる──
「な、何してるの?」
不意に、後ろから声が聞こえてきた。
海斗は、思わず舌打ちする。他の人間が来ていたのだ。まさか、ここまで接近されるまで気づかなかったとは。迂闊、としか言い様がない。
だが自分の目的の邪魔になるようなら、誰であろうと殺す。残忍な表情を浮かべ、海斗は振り返った。
しかし、そこに居たのは幼い女の子だった。明日菜と、同じくらいの年頃だろうか。
「お、お前は……」
そう言ったきり、海斗の動きは止まった。手の力が抜け、吉井の体はどさりと床に落ちる。
海斗は顔を歪め、訪問者を見つめる。髪は長く、いかにも女の子らしい印象を受ける。男の子のような雰囲気の明日菜とは、似ても似つかない。
しかし海斗の脳裏には、明日菜の姿が浮かび上がっていた。
それと同時に、彼女の言葉も思い出す。
(海斗は大きくなったら、何になるの?)
今の自分に、なりたいものなど無い。しかし、なりたくないものは有る。
その、なりたくないものとは……かつて自分を殺しかけたヤクザの庄野や、それに代表されるようなクズ共だ。無関係な人間を犠牲にしておきながら、振り返りもせずに進んで行く、そんな連中には死んでもなりたくない──
さらに、明日菜のもうひとつの言葉も甦る。
(海斗はいつか、ライガーマスクみたいになれる……カッコいい正義のヒーローに。あたしは、そう思うの)
思わず動きを止める海斗。その時、吉井が動いた。
「逃げろおぉ! 早く逃げるんだ!」
叫びながら、砕けているはずの腕で海斗の足にしがみつく。すると、女の子は血相を変えて外に飛び出して行った。
一方、海斗は顔を歪めながら、吉井の襟首を掴み引き寄せる。彼は息も絶え絶えになりながらも、必死の形相で声を出した。
「頼む。あの娘だけは助けてくれ……」
その言葉を聞いた瞬間、海斗の胸に様々な感情が湧き上がった。
だが、それら全てを押し殺し、声を絞り出す。
「忘れるな。お前のやらかしたことのせいで、全く無関係の人間が二人死んだんだよ。俺が心から愛した者たちが、無惨な姿で死んでいったんだ。俺は、お前だけは絶対に許さない。いいか……お前の体に、決して癒える事のない傷を残してやる! その傷を見る度に、てめえの罪を思い出せ!」
叫ぶと同時に、海斗は吉井の膝を砕いた──
翌日、天田士郎は真幌公園のベンチに座っていた。あたりは既に暗くなっている。夜空を見上げながら、士郎はなぜ呼び出されたのかについて考えていた。いったい何が目的なのだろう。
士郎がそんなことを考えていた時、音も無く目の前に現れた者がいた。言うまでもなく、海斗である。
「ったく、相変わらず神出鬼没な野郎だな。頼まれたものは、ちゃんと持ってきたぜ」
言いながら、士郎は大きな紙袋を差し出した。海斗は受け取り、ベンチに座る。
「士郎さん……あの吉井って男は結局、何者だったんだよ?」
「正直いうと、俺もよくは知らん。だが、どうやら公安に関係していたらしい。要は、政府の汚れ仕事を引き受けていたんだよ。あいつも、しょせんは歯車のひとつだったわけだな」
「そうか。歯車のひとつだったのか」
そう言うと、海斗はため息をついた。
「俺は、吉井を殺せなかったよ」
「知ってるよ。ま、いいんじゃねえのか。殺すも殺さないも、お前の自由だ」
軽い口調で、言葉を返す。しかし、海斗は神妙な顔つきで、なおも喋り続ける。
「あんたは、俺のことをどう思う?」
いきなりの問いに、士郎は戸惑うような表情を向けた。
「いや、どう思うって言われてもな……」
「俺は、いつまで経ってもチンピラなのかな」
海斗の声は、妙に沈んでいた。
「何を言ってるんだよ。お前はチンピラなんてレベルじゃないだろうが──」
「庄野が言ってたんだよ。俺は、どっちつかずのチンピラだと。確かに、俺はどっちつかずだよな。あれだけ大勢の人間を殺しておきながら、おっさんひとりを見逃した……いや、殺せなかったんだ。あのおっさんが、全ての原因を作ったのにな。やってることが、全て中途半端だよ」
海斗のその言葉を聞き、士郎は真剣な顔つきで口を開いた。
「俺には、お前の気持ちはわからねえよ。でもな、ひとつだけわかることがある。お前が殺さなくていいと判断したなら、それはそれでいいんじゃねえか。もとより、お前の気持ちの問題なんだしよ。復讐は、最後までやらなきゃならないわけじゃない。お前の気が済んだなら、そこで終わり。それでいいんじゃねえのかな」
その言葉に、海斗は何も言えず下を向く。すると、士郎は笑みを浮かべた。
「難しく考えることはねえさ。そもそも、誰かに命令されたわけじゃない。お前が自分の意思で始めたことだ。終わらせるのも、自分の意思だよ。俺は、そこに手を貸しただけさ」
その言葉を聞き、海斗は顔を上げた。
「だったら、あいつらはどうなるんだ」
「あいつら?」
訝しげな表情を向ける士郎。
「死んじまった小林さんや、今日子はどうなるんだ?」
「そうだなあ……月並みなセリフで申し訳ないが、あの二人はお前に復讐してもらうことを望むかな?」
その言葉を聞いた瞬間、海斗の顔が歪む。彼は再び下を向いた。まるで、こみ上げる何かに耐えているかのようだった。
一方、士郎は優しく微笑んだ。
「もう、いいんじゃねえかな。お前のやったことの是非を問う気はない。ただ、あの事件に、少しでも関わった人間をどんどん殺していったらキリがないぜ。ここまででいいんじゃねえか。まあ、決めるのはお前だけどな」
そう言った直後、士郎は小さな人影を発見した。中学生くらいにしか見えない少女だ。長い黒髪と、ぞっとするような肌の白さが特徴的である。大きめのコートに身を包み、十メートルほど離れた位置で士郎をじっと見つめている。
すると士郎は軽く会釈し、少女に右手を振って見せた。
「やあ、あんたが大月瑠璃子ちゃんか──」
「ガキみたいな呼び方、しないで欲しいんだけど。こう見えても、あたしはあんたよりずっと歳上なんだよ」
瑠璃子の口調は冷たい。明らかに、士郎を拒絶しているような意図が感じられる。士郎は思わず苦笑していた。
「なんか、嫌われちまったみたいだな。ま、いいや。海斗、もし何か困ったことがあったら連絡しろ。こう見えても、俺はあちこちに顔が利くんでな」
そう言って、士郎は立ち上がる。そのまま、振り返りもせず歩いて行った。
「ねえ海斗、あいつ信用できるの?」
いかにも不快そうな表情を浮かべながら、瑠璃子は尋ねた。彼女は、士郎のことが気に入らないらしい。
「さあな。ただ、あいつは他の人間とは違う」
「でも、あいつは海斗を利用する気だよ」
「わかってるよ。向こうがその気なら、こっちも利用させてもらうだけさ」
軽さの感じられる海斗の言葉に、瑠璃子は眉間に皺を寄せた。
「大丈夫かなあ。あいつ、なんか油断できないよ。もし海斗の気が進まないなら、あたしが士郎を殺すからさ」
「殺さなくていい。これ以上、誰にも死んで欲しくないんだよ……なるべくなら、な」
そう言うと、海斗は空を見上げた。満月が浮かんでいる。さらに、幾つもの星が輝いている。
不思議な気分だった。太陽もまた、星のひとつのはずだ。なのに、今はもう見ることが出来ない。
もし、また太陽を見る時……それは、自分がもう一度死ぬ時なのだ。
そういえば昔、瑠璃子も似たようなことを言っていた。
「ねえ、後悔してる?」
不意に、瑠璃子が聞いてきた。彼女は海斗の隣に腰掛け、星空を眺めている。
「何が?」
聞き返すと、瑠璃子は寂しげな瞳で海斗を見つめた。
「吸血鬼になって、後悔してない?」
瑠璃子の声は、ひどく哀しげだった。
「後悔なんか、する訳ないだろ。お前が吸血鬼に変えてくれたお陰で、俺は生きることが出来た。それに、この方が手っ取り早いじゃないか。お前を人間に戻すより、俺が吸血鬼になる方が簡単だよ。ずっと一緒にいられるしな」
そう言って、海斗は微笑んで見せた。だが、瑠璃子は口元を歪める。
「不思議なんだよね。生まれてから、もう五十年が経った。五十年て凄く長いはずなのに、あっという間に過ぎた気がする」
「そりゃあ、過ぎちまえばあっという間さ」
努めて軽い口調で、言葉を返す。だが、瑠璃子の表情は暗い。士郎との接触により、昔を思い出してしまったのだろうか。
ややあって、彼女は再び口を開いた。
「五十年の間に、色んなものが消えていったんだよ」
「はぁ? お前、何を言ってるんだよ?」
とぼけた口調で聞き返す。だが、瑠璃子は空を見上げたままだ。
「あたしの中から、少しずつ色んなものが消えていくんだよ。あたしは昔、人間だったはずなのに……今じゃあ、昔からずっと吸血鬼だったような気がするんだよね。このまま、あたしは身も心も化け物になっていくのかな」
「おい瑠璃子、ちょっと待てよ」
どこか虚ろな瑠璃子の表情に、海斗は不安を感じて声をかける。
しかし、彼女は力なく微笑むだけだった。
「人間だった時の思い出が、消えていくんだよ。お父さん、お母さん、弟、妹……みんな記憶には残っている。でも、今では何も感じないんだよ。家族がいた頃の楽しかった気持ちも、家族が死んだ時の悲しい気持ちも。あたしは家族のことを、思い出しもしなくなった。いつか、あたしは家族がいたことすら忘れるのかな……それどころか、あたしは自分が人間だったことも忘れるのかもしれない」
そう言うと、瑠璃子は自嘲の笑みを浮かべた。
「どっちが幸せだったのかな。あの時、家族と一緒に人間として殺されていたのと……たったひとりで、化け物として永遠に生き続けるのと……」
「もちろん、生き続ける方だよ。考えるまでもないだろうが。それに、お前はひとりじゃない」
言いながら、瑠璃子を抱き寄せる海斗。瑠璃子は無言で、されるがままになっていた。
海斗は耳元で、そっと囁く。
「瑠璃子……俺には、お前の辛さは分からない。でも、せめて俺の幸せのために生きてくれよ。俺は、お前が生きていてくれれば幸せだからさ」
「何それ? すっごいワガママなんだけど」
そう言った時だった。新たな人影が現れる。とても小さい。子供のようだ。
小さな人影は、とことこと歩いて来る。二人のそばに来ると、拗ねたような表情で口を開いた。
「また二人だけでイチャイチャしてるの。いやらしいの」
「違うって。ちょっと、大人の話をしてたんだよ」
言いながら、海斗は立ち上がる。しかし、少女はぷいと横を向いた。
海斗は苦笑し、少女の頭を撫でる。
「機嫌直してくれよ。一緒にライガーマスク観ようぜ。ほら、DVDボックス手に入れたからよ」
言いながら、紙袋を高く掲げる。
「本当!?」
少女は、パッとこちらを向いた。同時に、海斗の手を引いていく。
「早く行こ。帰って、ライガーマスク見るの」
「おう、そうしようぜ」
「なあ、俺はライガーマスクみたいなヒーローになれるかな?」
「なれるよ。海斗はいつか、ライガーマスクみたいになれる……カッコいい正義のヒーローにね」
既に六十歳を過ぎているが、それでも体はよく動く。今も週三日、三キロほどの山道をジョギングしているほど元気である。体つきも引き締まっており、見た目だけなら四十代だと言っても通じるだろう。
そんな吉井の日課は、近所に住む子供に勉強や遊びを教えることであった。既に仕事をリタイアした身である彼にとって、子供たちとの触れ合いこそが唯一の生き甲斐である。
その日も、吉井の家には近所の子供が来るはずであった。
しかし、家を訪れたのは別のものだった。
吉井は異変を感じ、外に出て辺りを見回す。既に日は沈み、しんと静まりかえっている。虫の声ひとつ聞こえない。
虫の声がしないということは、何か危険なものが潜んでいるからだ。吉井は、その場を離れようとした。
次の瞬間、木の上から何者かが落ちてくる。黒い革のコート、肩まである髪。病的なまでに白い肌を持つその若者は、じっと吉井を見つめていた。
「よう、三十年ぶりだな。俺の顔、忘れちまったのかい?」
言いながら、海斗はゆっくりと近づいて行く。
すると、吉井の顔が歪んだ。
「君は誰だ? なぜここに?」
その問いには答えず、海斗はずんずん近づいて行った。
吉井の目の前に立ち、ニヤリと笑う。
「吉井さんよう……何で、あんな騒ぎを起こしたんだ?」
だが、吉井は怯えた表情で首を振る。
「な、何を言っているんだ? 私は、君なんか知らない」
その途端、海斗の表情が変わった。
「とぼけんじゃねえ!」
怒鳴ると同時に、海斗の手が伸び吉井の手を掴んだ。
直後、一瞬で握り潰す──
悲鳴を上げる吉井。彼の右手の骨は、完全に砕けてしまっている。
しかし、海斗は容赦しない。さらに左手も掴む。
「吉井さん、あんた三十年前は崎村達也って名乗ってたな。食品会社の営業マンだ、とも言ってた。だが、全て嘘だったんだな。あんたは、二つのヤクザの間に戦争の火種を撒いた。とぼけるなら、こっちの手もへし折るぜ」
言いながら、海斗は手に力を込める。すると、吉井は叫び声を上げた。
「やめてくれ! わ、私は──」
「崎村達也と名乗り、二つのヤクザの間に抗争の火種を撒いた。それに間違いないな?」
「そ、そうだぁ!」
吉井は、涙を流しながら答える。その右手は、完全に砕けていた。左手はまだ動くようだが、それでも手の形は変形している。
「あんたは、俺の愛していた町にトラブルの種を撒き散らした。まずは、その理由を聞かせてくれよ。言わないなら、指を一本ずつへし折る」
「わかったよ! 言うからやめてくれ!」
叫びながら、額を床に擦り付ける。吉井はこれまで、様々な訓練を受けてきた。銃器の扱いや格闘技、さらには交渉術も。だが目の前の者には、それらのスキルが一切役に立たないことを悟った。
目の前にいる者は、人間ではないのだ。
「だったら、早く言え」
海斗の言葉に気圧され、吉井は震えながら口を開いた。
「当時、私はある任務のために真幌市に送り込まれた。ヤクザたちを煽り、戦争をさせること。それが私の任務だったんだ」
「任務だと? どういう事だ?」
「あの頃、時代は変化していた。ヤクザが必要悪だった時代は、既に終わっていた。そんな時、二つの暴力団が抗争を始めた。そこで、公安の上層部は決断した。抗争を煽り、両団体を一気に弱体化させてしまおうと──」
「ざけんじゃねえよ! その結果、まったく関係のない二人の人間が死んだんだよ! その上層部とやらの思惑のせいでな!」
言いながら、海斗は吉井の首を掴む。片手でグイと持ち上げた。
吉井は必死でもがいたが、海斗は手を放さない。その瞳は、不気味に紅く光っていた。
「いいか、てめえはただじゃあ死なさねえ。両手両足を引きちぎってから殺してやる。徹底的に苦しめてやる。今日子の苦しみを思い知らせてやるぜ!」
海斗はニタリと笑った。だが、その時に想定外の事態が起きる──
「な、何してるの?」
不意に、後ろから声が聞こえてきた。
海斗は、思わず舌打ちする。他の人間が来ていたのだ。まさか、ここまで接近されるまで気づかなかったとは。迂闊、としか言い様がない。
だが自分の目的の邪魔になるようなら、誰であろうと殺す。残忍な表情を浮かべ、海斗は振り返った。
しかし、そこに居たのは幼い女の子だった。明日菜と、同じくらいの年頃だろうか。
「お、お前は……」
そう言ったきり、海斗の動きは止まった。手の力が抜け、吉井の体はどさりと床に落ちる。
海斗は顔を歪め、訪問者を見つめる。髪は長く、いかにも女の子らしい印象を受ける。男の子のような雰囲気の明日菜とは、似ても似つかない。
しかし海斗の脳裏には、明日菜の姿が浮かび上がっていた。
それと同時に、彼女の言葉も思い出す。
(海斗は大きくなったら、何になるの?)
今の自分に、なりたいものなど無い。しかし、なりたくないものは有る。
その、なりたくないものとは……かつて自分を殺しかけたヤクザの庄野や、それに代表されるようなクズ共だ。無関係な人間を犠牲にしておきながら、振り返りもせずに進んで行く、そんな連中には死んでもなりたくない──
さらに、明日菜のもうひとつの言葉も甦る。
(海斗はいつか、ライガーマスクみたいになれる……カッコいい正義のヒーローに。あたしは、そう思うの)
思わず動きを止める海斗。その時、吉井が動いた。
「逃げろおぉ! 早く逃げるんだ!」
叫びながら、砕けているはずの腕で海斗の足にしがみつく。すると、女の子は血相を変えて外に飛び出して行った。
一方、海斗は顔を歪めながら、吉井の襟首を掴み引き寄せる。彼は息も絶え絶えになりながらも、必死の形相で声を出した。
「頼む。あの娘だけは助けてくれ……」
その言葉を聞いた瞬間、海斗の胸に様々な感情が湧き上がった。
だが、それら全てを押し殺し、声を絞り出す。
「忘れるな。お前のやらかしたことのせいで、全く無関係の人間が二人死んだんだよ。俺が心から愛した者たちが、無惨な姿で死んでいったんだ。俺は、お前だけは絶対に許さない。いいか……お前の体に、決して癒える事のない傷を残してやる! その傷を見る度に、てめえの罪を思い出せ!」
叫ぶと同時に、海斗は吉井の膝を砕いた──
翌日、天田士郎は真幌公園のベンチに座っていた。あたりは既に暗くなっている。夜空を見上げながら、士郎はなぜ呼び出されたのかについて考えていた。いったい何が目的なのだろう。
士郎がそんなことを考えていた時、音も無く目の前に現れた者がいた。言うまでもなく、海斗である。
「ったく、相変わらず神出鬼没な野郎だな。頼まれたものは、ちゃんと持ってきたぜ」
言いながら、士郎は大きな紙袋を差し出した。海斗は受け取り、ベンチに座る。
「士郎さん……あの吉井って男は結局、何者だったんだよ?」
「正直いうと、俺もよくは知らん。だが、どうやら公安に関係していたらしい。要は、政府の汚れ仕事を引き受けていたんだよ。あいつも、しょせんは歯車のひとつだったわけだな」
「そうか。歯車のひとつだったのか」
そう言うと、海斗はため息をついた。
「俺は、吉井を殺せなかったよ」
「知ってるよ。ま、いいんじゃねえのか。殺すも殺さないも、お前の自由だ」
軽い口調で、言葉を返す。しかし、海斗は神妙な顔つきで、なおも喋り続ける。
「あんたは、俺のことをどう思う?」
いきなりの問いに、士郎は戸惑うような表情を向けた。
「いや、どう思うって言われてもな……」
「俺は、いつまで経ってもチンピラなのかな」
海斗の声は、妙に沈んでいた。
「何を言ってるんだよ。お前はチンピラなんてレベルじゃないだろうが──」
「庄野が言ってたんだよ。俺は、どっちつかずのチンピラだと。確かに、俺はどっちつかずだよな。あれだけ大勢の人間を殺しておきながら、おっさんひとりを見逃した……いや、殺せなかったんだ。あのおっさんが、全ての原因を作ったのにな。やってることが、全て中途半端だよ」
海斗のその言葉を聞き、士郎は真剣な顔つきで口を開いた。
「俺には、お前の気持ちはわからねえよ。でもな、ひとつだけわかることがある。お前が殺さなくていいと判断したなら、それはそれでいいんじゃねえか。もとより、お前の気持ちの問題なんだしよ。復讐は、最後までやらなきゃならないわけじゃない。お前の気が済んだなら、そこで終わり。それでいいんじゃねえのかな」
その言葉に、海斗は何も言えず下を向く。すると、士郎は笑みを浮かべた。
「難しく考えることはねえさ。そもそも、誰かに命令されたわけじゃない。お前が自分の意思で始めたことだ。終わらせるのも、自分の意思だよ。俺は、そこに手を貸しただけさ」
その言葉を聞き、海斗は顔を上げた。
「だったら、あいつらはどうなるんだ」
「あいつら?」
訝しげな表情を向ける士郎。
「死んじまった小林さんや、今日子はどうなるんだ?」
「そうだなあ……月並みなセリフで申し訳ないが、あの二人はお前に復讐してもらうことを望むかな?」
その言葉を聞いた瞬間、海斗の顔が歪む。彼は再び下を向いた。まるで、こみ上げる何かに耐えているかのようだった。
一方、士郎は優しく微笑んだ。
「もう、いいんじゃねえかな。お前のやったことの是非を問う気はない。ただ、あの事件に、少しでも関わった人間をどんどん殺していったらキリがないぜ。ここまででいいんじゃねえか。まあ、決めるのはお前だけどな」
そう言った直後、士郎は小さな人影を発見した。中学生くらいにしか見えない少女だ。長い黒髪と、ぞっとするような肌の白さが特徴的である。大きめのコートに身を包み、十メートルほど離れた位置で士郎をじっと見つめている。
すると士郎は軽く会釈し、少女に右手を振って見せた。
「やあ、あんたが大月瑠璃子ちゃんか──」
「ガキみたいな呼び方、しないで欲しいんだけど。こう見えても、あたしはあんたよりずっと歳上なんだよ」
瑠璃子の口調は冷たい。明らかに、士郎を拒絶しているような意図が感じられる。士郎は思わず苦笑していた。
「なんか、嫌われちまったみたいだな。ま、いいや。海斗、もし何か困ったことがあったら連絡しろ。こう見えても、俺はあちこちに顔が利くんでな」
そう言って、士郎は立ち上がる。そのまま、振り返りもせず歩いて行った。
「ねえ海斗、あいつ信用できるの?」
いかにも不快そうな表情を浮かべながら、瑠璃子は尋ねた。彼女は、士郎のことが気に入らないらしい。
「さあな。ただ、あいつは他の人間とは違う」
「でも、あいつは海斗を利用する気だよ」
「わかってるよ。向こうがその気なら、こっちも利用させてもらうだけさ」
軽さの感じられる海斗の言葉に、瑠璃子は眉間に皺を寄せた。
「大丈夫かなあ。あいつ、なんか油断できないよ。もし海斗の気が進まないなら、あたしが士郎を殺すからさ」
「殺さなくていい。これ以上、誰にも死んで欲しくないんだよ……なるべくなら、な」
そう言うと、海斗は空を見上げた。満月が浮かんでいる。さらに、幾つもの星が輝いている。
不思議な気分だった。太陽もまた、星のひとつのはずだ。なのに、今はもう見ることが出来ない。
もし、また太陽を見る時……それは、自分がもう一度死ぬ時なのだ。
そういえば昔、瑠璃子も似たようなことを言っていた。
「ねえ、後悔してる?」
不意に、瑠璃子が聞いてきた。彼女は海斗の隣に腰掛け、星空を眺めている。
「何が?」
聞き返すと、瑠璃子は寂しげな瞳で海斗を見つめた。
「吸血鬼になって、後悔してない?」
瑠璃子の声は、ひどく哀しげだった。
「後悔なんか、する訳ないだろ。お前が吸血鬼に変えてくれたお陰で、俺は生きることが出来た。それに、この方が手っ取り早いじゃないか。お前を人間に戻すより、俺が吸血鬼になる方が簡単だよ。ずっと一緒にいられるしな」
そう言って、海斗は微笑んで見せた。だが、瑠璃子は口元を歪める。
「不思議なんだよね。生まれてから、もう五十年が経った。五十年て凄く長いはずなのに、あっという間に過ぎた気がする」
「そりゃあ、過ぎちまえばあっという間さ」
努めて軽い口調で、言葉を返す。だが、瑠璃子の表情は暗い。士郎との接触により、昔を思い出してしまったのだろうか。
ややあって、彼女は再び口を開いた。
「五十年の間に、色んなものが消えていったんだよ」
「はぁ? お前、何を言ってるんだよ?」
とぼけた口調で聞き返す。だが、瑠璃子は空を見上げたままだ。
「あたしの中から、少しずつ色んなものが消えていくんだよ。あたしは昔、人間だったはずなのに……今じゃあ、昔からずっと吸血鬼だったような気がするんだよね。このまま、あたしは身も心も化け物になっていくのかな」
「おい瑠璃子、ちょっと待てよ」
どこか虚ろな瑠璃子の表情に、海斗は不安を感じて声をかける。
しかし、彼女は力なく微笑むだけだった。
「人間だった時の思い出が、消えていくんだよ。お父さん、お母さん、弟、妹……みんな記憶には残っている。でも、今では何も感じないんだよ。家族がいた頃の楽しかった気持ちも、家族が死んだ時の悲しい気持ちも。あたしは家族のことを、思い出しもしなくなった。いつか、あたしは家族がいたことすら忘れるのかな……それどころか、あたしは自分が人間だったことも忘れるのかもしれない」
そう言うと、瑠璃子は自嘲の笑みを浮かべた。
「どっちが幸せだったのかな。あの時、家族と一緒に人間として殺されていたのと……たったひとりで、化け物として永遠に生き続けるのと……」
「もちろん、生き続ける方だよ。考えるまでもないだろうが。それに、お前はひとりじゃない」
言いながら、瑠璃子を抱き寄せる海斗。瑠璃子は無言で、されるがままになっていた。
海斗は耳元で、そっと囁く。
「瑠璃子……俺には、お前の辛さは分からない。でも、せめて俺の幸せのために生きてくれよ。俺は、お前が生きていてくれれば幸せだからさ」
「何それ? すっごいワガママなんだけど」
そう言った時だった。新たな人影が現れる。とても小さい。子供のようだ。
小さな人影は、とことこと歩いて来る。二人のそばに来ると、拗ねたような表情で口を開いた。
「また二人だけでイチャイチャしてるの。いやらしいの」
「違うって。ちょっと、大人の話をしてたんだよ」
言いながら、海斗は立ち上がる。しかし、少女はぷいと横を向いた。
海斗は苦笑し、少女の頭を撫でる。
「機嫌直してくれよ。一緒にライガーマスク観ようぜ。ほら、DVDボックス手に入れたからよ」
言いながら、紙袋を高く掲げる。
「本当!?」
少女は、パッとこちらを向いた。同時に、海斗の手を引いていく。
「早く行こ。帰って、ライガーマスク見るの」
「おう、そうしようぜ」
「なあ、俺はライガーマスクみたいなヒーローになれるかな?」
「なれるよ。海斗はいつか、ライガーマスクみたいになれる……カッコいい正義のヒーローにね」
0
お気に入りに追加
9
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
大好きな婚約者が浮気していました。大好きだっただけ、気持ち悪くて気持ち悪くて……後悔されても、とにかく気持ち悪いので無理です。
kieiku
恋愛
レティンシアは婚約者の浮気現場を見てしまい、悲しくて悲しくて仕方がなかった。愛しい人の腕も微笑みも、自分のものではなかったのだから。
「ま、待ってくれ! 違うんだ、誤解だ。僕が愛しているのは君だけだ、シア!」
そんなことを言われても、もう無理なのです。気持ちが悪くて仕方がないのです。
浮気性の旦那から離婚届が届きました。お礼に感謝状を送りつけます。
京月
恋愛
旦那は騎士団長という素晴らしい役職についているが人としては最悪の男だった。妻のローゼは日々の旦那への不満が爆発し旦那を家から追い出したところ数日後に離婚届が届いた。
「今の住所が書いてある…フフフ、感謝状を書くべきね」
【完結】大好きな貴方、婚約を解消しましょう
凛蓮月
恋愛
大好きな貴方、婚約を解消しましょう。
私は、恋に夢中で何も見えていなかった。
だから、貴方に手を振り払われるまで、嫌われていることさえ気付か
なかったの。
※この作品は「小説家になろう」内の「名も無き恋の物語【短編集】」「君と甘い一日を」より抜粋したものです。
2022/9/5
隣国の王太子の話【王太子は、婚約者の愛を得られるか】完結しました。
お見かけの際はよろしくお願いしますm(_ _ )m
旦那様に離婚を突きつけられて身を引きましたが妊娠していました。
ゆらゆらぎ
恋愛
ある日、平民出身である侯爵夫人カトリーナは辺境へ行って二ヶ月間会っていない夫、ランドロフから執事を通して離縁届を突きつけられる。元の身分の差を考え気持ちを残しながらも大人しく身を引いたカトリーナ。
実家に戻り、兄の隣国行きについていくことになったが隣国アスファルタ王国に向かう旅の途中、急激に体調を崩したカトリーナは医師の診察を受けることに。
〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。
藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。
何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。
同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。
もうやめる。
カイン様との婚約は解消する。
でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。
愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。
【完結】元OL、イケメン白狐と同居して、仏様のクレーム対応をしています
花房ジュリー
キャラ文芸
元気が取り柄のなつみは、巫女をしていた祖母の影響で、京都が大好き。
ある時、ひょんなきっかけで、伏見にあるアパートに引っ越すことになる。
だがその部屋には、伏見稲荷の眷属だという、白狐の白銀(しろがね)が居着いていた!
仏様と神様の仲介役を務めているという白銀は、見た目は人間の若いイケメンなのに、性格は超気弱。
クレームばりの勝手な要求をする仏たちに振り回される白銀を放っておけず、なつみはつい首を突っ込んでしまう。
こうして半同居生活を送るうち、なつみと白銀は絆を強めていく。
さらに亡き祖母には、巫女時代に秘密があったらしいと判明し……!?
※第6回ほっこり・じんわり大賞奨励賞受賞。応援本当にありがとうございました!
※2023.10.02完結。
※エブリスタ様にも掲載中。
妹しか守りたくないと言う婚約者ですが…そんなに私が嫌いなら、もう婚約破棄しましょう。
coco
恋愛
妹しか守らないと宣言した婚約者。
理由は、私が妹を虐める悪女だからだそうだ。
そんなに私が嫌いなら…もう、婚約破棄しましょう─。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる