悪魔との取り引き

板倉恭司

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父の執念

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「起きるんだ」

 声が聞こえてきた。
 聞き覚えのあるものだ。ほぼ同時に、体を強く揺さぶられた。人の家に無断で入って来られる図々しさと、鍵をかけた家に侵入できる技能を持つ者。
 そんな人物といえば、思い当たるのはひとりしかいない。西野昭夫は、慌てて体を起こす。
 目の前に、ペドロの顔があった。最後に見た時と同じTシャツにデニムパンツ姿だ。約二日ぶりの再会である。
 途端に、複雑な思いが胸に湧き上がってきた。認めたくはないが、彼が戻ってきてくれて安堵している。この二日間、たったひとりで村の雑事をこなしてきた。もし、ペドロが戻って来なかったら……そう思うと、言いようのない不安感を覚えていたのは確かだ。
 次の瞬間、そんな気分は消し飛んでいた。

「安眠の妨害をして申し訳ないが、困ったことが起きた。あの男が、ついに動き出したんだよ」

 ペドロの言葉に、昭夫は聞き返す。

「あの男? 誰です?」

「竹内徹氏だよ。彼は今、品祖駅の付近まで来ている。荒事に慣れた連中を、何人か連れているらしい。力ずくで、杏奈さんと可憐さんを連れ戻そうというのだろう」

 その瞬間、昭夫の顔色は一気に青ざめていった。いつか、こんな日が来るとは思っていたのだ。あの男が、このまま引っ込んでいるとは思えない。何といっても、こちらは誘拐した立場なのだ。法的には、圧倒的に不利である。下手をすれば、逮捕される可能性もあるのだ。
 昭夫と高木は、この件について何度か話し合っていた。万一、警察が踏み込んできたら……と不安を訴える昭夫に、高木はこう言っていた。

(いざとなったら、俺が誘拐犯として逮捕される。君は杏奈と一緒に、彼女が父親に監禁され虐待を受けていた事実を公表してくれ)

 その言葉には、納得できぬものを感じていた。高木が逮捕されては、何もならないのではないか……と。
 だが数日前、最後に話し合った時には、こんなことを言っていたのだ。

(竹内の件は、何とかなりそうだ。俺に任せてくれ)

 もちろん不安ではあった。だが、高木ほどの人間が任せてくれと言ったのだ。何も出来ない昭夫としては、その言葉を信じるしかない。
 しかし、任せるはずだった男は今いないのだ。自分たちは、どうすればいい?

「ど、どうするんです? このままだと、僕らは──」

 その時、ペドロの手が肩に触れる。

「落ち着くんだ。まずは、食事にしようじゃないか」

 聞いた途端、昭夫は愕然となった。こんな時に何を言い出すのだろう。

「はあ? 食事!? 何を言っているんですか!? こんな時に食事なんて出来るわけ──」

 そこで言葉は止まった。ペドロの手が、昭夫の喉を掴んでいるのだ。それ以上、何も言えないし言えるはずもない。彼の手から伝わってくるのは、機械のごとき強い腕力だが、それだけではない。まぎれもない死の感触なのだ。これまでに数々の敵を葬ってきたであろう手が、己の喉に当てられていた。
 恐怖のあまり、全身が硬直する──

「黙って聞くんだ。スマホは、とても便利な道具だよ。しかし、バッテリーが切れたらどうなるのかな。何の役にも立たない」

 静かな声だった。手から感じる獣のごとき腕力とは真逆の雰囲気である。昭夫の裡に、言葉が染み入っていく……そんな奇妙な感覚に襲われていた。

「人間も同じだ。どんなに強い人間だろうが、数日間断食した状態では、子供にも勝てない。食べられる時にきちんと食べることで、人間の脳と肉体は持てる力を発揮できる」

 言った直後、手が離れる。その時になって、昭夫は今まで息を止めていたことに気づく。恐怖のあまり、呼吸すら忘れていたのだ。大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。 
 すると、再びペドロが口を開く。

「まずは、栄養補給だ。話は、それからにしよう。脳に栄養が枯渇した状態で話し合っても、建設的なアイデアは生まれない」 



 結局、昭夫は朝食を取った。正直に言うなら、腹は減っていない。むしろ緊張のあまり、内臓が縮み上がっている……そんな、おかしな感覚に襲われていた。
 しかし、ペドロの命令に逆らうことなど出来ない。昨日のうちに炊いてあったご飯にお湯と味噌をぶっかけ、掻き混ぜて無理やり流し込む。もちろん、美味いはずがない。
 そんな原始的な食事ではあるが、どうにか食べ終えた。
 と同時に、ペドロが語り出した。

「具体的なことはまだわかっていないが、ひとつはっきりしていることがある。竹内氏は、己の私兵とでも呼ぶべき男たちを数人連れて来ている。その中には、元自衛官もいるらしい。暴力的手段を用いて杏奈さんと可憐さんを連れ帰る気だ。その目的を達するためなら、死人が出ることも辞さないだろう」

 昭夫は、思わず食べたものを吐きそうになった。なんだそれは? 私兵とはなんだ? 死人が……って、娘を取り返すため人を殺そうというのか?
 そんな彼に、追い討ちをかけるような言葉が続く。

「ちょっと調べてみた。結果、わかったことがある。八年前の竹内鈴さんが行方不明になった件と十年前に大泉進さんが行方不明になった件、その両方に竹内氏が深く関与している可能性が濃厚だった。はっきり言うと、どちらも竹内氏に殺されたのだと思う」

 聞いた瞬間、昭夫は愕然となった。確かに、その可能性も考えてはいた。だが、いくらなんでも、そこまでのことはやらないだろうと思っていたのだ。

「そんな……警察は何をやっているんですか」

「竹内氏がやったという物的証拠は何もない。それ以前に、大泉さんの死体がないんだよ。つまり、これはただの行方不明事件だ。しかも、竹内氏には優秀な弁護士も付いている。警察としても、手の打ちようがないのさ」

 ペドロは、表情ひとつ変えず淡々と語っている。だが昭夫は、思わず顔を歪めていた。なんということだろう。あの男は、娘の彼氏のみならず妻まて殺したというのか。あまりにもひどい話ではないか。
 すると、ペドロの手が肩に触れる。

「今、君が考えるべきは未解決の事件についてではない。その事件を引き起こした危険な男が、これから手下を引き連れ村に乗り込んでくるのだよ。そこでだ、君に約束してもらいたいことがある。俺を信じること。全てを託すこと。俺の命令に全て従うこと。この三つだ。誓えるかい?」

 どういうことかはわからない。この怪物がこれから何をする気なのか、見当もつかなかった。
 しかし、今頼れるのはペドロしかいない。昭夫は頷くしかなかった。

「わ、わかりました」

「よろしい。では、さっそく取りかかるとしよう」

 ・・・

 その日の夜、品祖駅付近の繁華街には、異様な空気が漂っていた。普段ならうろうろしているはずの客引きの姿が、今夜はひとりも見当たらない。
 理由は、一軒の店にある。危険な雰囲気を醸し出す男たちが集まっていたのだ。

「お前が店に連れてきた外国人は、御手洗村に行くと言ってたんだな?」

 尋ねたのは竹内徹だ。髪は金色に染まっており、肌は黒い。髪は短く、細面で整った顔立ちである。ブランド物のスーツで、すらりとした長身の体を覆っている。年齢は五十二歳のはずだが、実年齢より十歳以上は若く見えた。一見すると、音楽関係の業界人という雰囲気だ。
 そんな徹が、凍てつくような冷酷な視線を目の前の若者に向けている。

「は、はい! じ、自分は直接聞いてないんですが、川又カワマタの兄貴が聞いたそうです!」

 青年が、上擦った声で答える。徹の前で直立不動の姿勢で答えていた。軽薄そうな顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいる。

「で、その外国人がひとりで店員を病院送りにし、店をぶっ壊し、車を奪っていったと」

 言いながら、徹は店内を見回す。真っ二つにされたテーブルや、破壊された照明器具などは撤去されていた。もっとも、壁や床のカーペットには、ところどころ茶色い染みが付着している。間違いなく血液の染みだ。
 そんな店内には、徹を初め十人ほどの男がいる。年齢や服装などはまちまちだが、共通する点がひとつあった。全員、まともな勤め人には見えないことだ。
 そんな男たちに囲まれているのが、先ほど質問に答えた青年だ。体はブルブル震えており、顔色は死人のように青ざめている。だが、それも仕方ないだろう。なにせ、自分よりも格上の男たちが、危険な目つきでこちらを睨んでいるのだから。
 この震えている青年こそが、店にペドロを招き入れた張本人だ。

「なあ、もう少し詳しい特徴を教えてくれよ。外国人、てだけじゃわからねえ」

 徹がさらに尋ねると、青年は泣きそうな顔で喋り出した。

「あの、背はそんなに高くないです。俺より低かったかも……髪は黒くて、日本語はペラペラでした。なんか、変な奴でしたよ」

 あまり役に立つ情報ではない。徹は溜息を吐いた。この青年に、これ以上聞いても無駄だろう。

「そうか、わかった。お前、もう帰っていいよ」

 言われた途端、青年は九死に一生を得たような表情で頭を下げる。

「あ、ありがとうございます! お役に立てて嬉しいです!」

 叫んだ直後、脱兎のような勢いで出ていった。その後ろ姿を見ながら、徹は苦笑した。

「ありゃあ、どう頑張っても出世しねえタイプだな。それにしても、気になるのは外国人の方だ。いったい何者なんだろうな」

 呟きながら、首を捻る。その時、場にそぐわない陽気な声が聞こえてきた。

「ひょっとしたら、そのクレイジー博士がミンダナオ村もぶっ壊しちゃってんじゃないの?」
 
 声の主は、小柄な少年である。
 この少年、身長は百六十センチもないだろう。いかつい男たちの中では、その小さな体が目立つ。着ているものは体にピッタリとフィットしたTシャツにカーゴパンツで、細くしなやかな上半身を余計に強調している。無駄な脂肪は、ほとんど付いていないだろう。軽量級の格闘家か、プロのダンサーのような体つきだ。
 長めの髪は茶色に染まっており、目鼻立ちの整った綺麗な顔である。見た目だけなら、どこかのビジュアル系バンドのメンバーとしてステージに上がっていてもおかしくない。額には大きな傷痕があるが、彼の容貌をいささかも損なってはいない。
 ただし、その表情には締まりがなく、口元にはニヤケた笑みがへばり付いている。

「ミンダナオ村じゃねえ。御手洗村だ」

 徹の言葉に、少年はヘラヘラした態度で頷く。

「ああ、そうそう、それそれ。その何ちゃら村をさ、クレイジー博士が襲っちゃってんじゃないの?」

 クレイジー博士とは、いったい何なのだろうか。こんな恐ろしいことをしでかした男に相応しいニックネームではない……などと思いながら、徹はかぶりを振った。

「いや、それはない。恐らく、村の連中の知り合いだろう。変な外国人がうろうろしてたって情報が入ったからな」

 途端に、少年の目が輝いた。

「ふーん、それは楽しみだにゃ。ホントのこと言うとさ、僕ちんあんましやる気なかったのよね。でも、ちょっとは面白くなりそうなのん」

 そんなことを言った時、ひときわ貫禄のある男が少年を睨みつける。

「おい桐山キリヤマ、勘違いすんなよ。俺たちの目的は、誘拐された娘と孫の救出だ。ドンパチやりに来たわけじゃねえんだよ」

 凄みのある口調だ。見た目の年齢は三十代、背は高く、百八十センチを優に超えているだろう。肩幅は広く、がっちりした体つきである。Tシャツの袖から覗く二の腕には、瘤のような筋肉が付いている。髪は五分刈りで、耳はカリフラワーのようだ。柔道もしくはレスリングをみっちりやってきた者に特有の形である。こんな男に凄まれたら、大抵の者は怯む。気の弱い者なら、泣き出してしまうだろう。
 しかし、桐山と呼ばれた少年はヘラヘラ笑っていた。

「ああ、だいじょびだいじょび。このふたりを助けりゃいいんでしょ。楽勝だにゃ」

 答えた後、ポケットから二枚の写真を取り出す。そこに写っていたのは、竹内杏奈と竹内可憐だった。

「ささ、楽しく行こうにゃ。パパッと終わらせるのん」

 そう言うと、再びポケットに写真をしまう。すると、徹の耳元に顔を近づける者がいた。

「竹内さん、あの桐山ってガキは大丈夫なんですか? なんかネタ(薬物を指すスラング)でも食ってそうな感じですよ」

 囁いたのは、飯嶋イイジマだ。徹と同じくスーツ姿である。また徹の腹心の部下であり、彼が街を徘徊するチンピラだった頃からの付き合いでもある。背は百六十センチ強と、大きな体ではない。しかし、鋭い目つきからは危険な雰囲気を感じさせた。何より、タコのついた拳は数々の修羅場を潜ってきたことを物語っている。
 この男は、かつてプロボクサーだった。バンタム級で日本ランキング九位までいったものの、半グレとの黒い交際がマスコミに暴かれ引退せざるを得なくなった。その後は、徹の片腕となる。もっぱら、表には出せないような案件を受け持っているのだ。

「俺も、顔を合わせるのは今日が初めてだよ。だがな、噂は聞いている。半グレの仕切る店にひとりで乗り込んでいって、二十人を素手で病院送りにしたって話だ」

 徹の言葉に、飯嶋は驚愕の表情を浮かべる。ちらりと桐山を見たが、ヘラヘラ笑いながら店内を徘徊していた。
 細いとはいえ、しなやかな体つきではある。だが、素手で二十人を病院送りに出来るような男には見えない。

「あのチビが? 本当ですか?」

「わからねえ。俺も、話が大げさに伝わっただけなんじゃねえかと思ってはいる。ただな、桐山の保証人は三村大翔ミムラ ハルトだ。あの男がバックについていたなら、間違いはないだろう」

「三村って、あの三村ですか? 信じられないな」

 三村大翔とは、最近めきめき頭角を表してきた裏の世界の住人である。まだ十代だが、政治家だった父の遺産と人脈を受け継ぎ裏社会に乗り込んできたという、いわくつきの男だ。今では、ヤクザも一目置くという話である。

「俺も、三村とは何度か顔を合わせたことがある。あいつは若いが、しっかりした奴だ。その三村が言ってたんだよ、桐山譲治ジョウジ素手喧嘩ス テ ゴ ロなら世界最強だって。桐山と一対一サ シで闘って勝った奴には、賞金一千万円を進呈する、とまで言ってるらしい」

「マジっすか? とても、そうは見えない」

 飯嶋の言葉に、徹は笑みを浮かべた。

「今回のヤマには、その噂が本当かどうか、この目で確かめるという目的もあるんだよ。だから、わざわざ三村に頼んで助っ人として参加してもらったんだ」








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