悪魔との取り引き

板倉恭司

文字の大きさ
上 下
7 / 19

ペドロのいない日

しおりを挟む
 幸乃と紫苑は、今日も田舎道を歩いていた。
 母の手を握り、ゆっくり歩く紫苑。その目は、まっすぐ前を向いている。この先にあるゴールを、しっかりと見ている。
 横にいる幸乃は、そんな娘と共に歩いている。背負っているリュックの中には、ふたり分の水筒と弁当それにレジャーシート、さらには緊急時に連絡するためのトランシーバーなどが入っている。なかなかの重量だが、幸乃は体力に自信がある。この程度、たいしたことはない。
 ここに入る時、高木和馬と話したことを思い出す。

「ここは、暮らすには便利とは言えない場所です。スマホは通じないし、娯楽施設もありません。万が一の事態が起きても、パトカーも救急車も簡単には来られません。都会で暮らしていた方から見れば、不便な上に退屈でしかないでしょう。それでも、娘さんのために、全てを捨てて御手洗村で生活するおつもりですか?」

「はい。そのつもりです」

 幸乃は即答した。もう、これまでの生活に未練などない。ヒモ同然だった元夫とは完全に縁を切ったし、親戚筋とも付き合いはない。この先も、付き合う気はなかった。
 かつての友人や仲間たちは、今では刑務所にいるか死亡しているかのどちらかだ。自分がそちら側に行かなかったのは、紫苑のおかげである。
 それに、都会に住んでいると不快なこともある。特に不快なのは、紫苑を連れて歩いている時の、周囲の人間たちの目線だ。あれは、本当に嫌だった。ゆっくり時間をかけて歩く少女を、奇異の目で見る者がいた。同情と蔑みとが混じった目で見る者もいた。あえて見ないようにしている者もいた。クスクス笑う者や、歩き方を真似する者までいたのだ。
 そうした者たちの反応には、いつまで経っても慣れることはない。何より嫌なのは、かつての自分もそうだったという事実を思い出してしまうことだ。もし十代の頃の幸乃が、紫苑のような少女を街中で見かけていたら、どんな反応をしていたかは容易に想像できた。間違いなく、クスクス笑ったり歩き方を真似していたはずだ。虫の居所が悪ければ、ちょっかいを出していたかもしれない。
 十代から二十代の頃の自分は、間違いなく最低の人間だった。大勢の人を嘲り、騙し、罵り、奪い、時には暴力を振るって傷つけた。そのことを考えると、たまらない自己嫌悪に襲われる。
 ひょっとしたら娘は、自分のしてきた悪行の報いを受けているのだろうか……そんなことすら考えてしまう。



 やがて、ふたりは目的地に到着した。いつもと同じく手を合わせ一礼し、親子でレジャーシートを敷く。
 その時、にゃあという声がした。続いて、猫のコトラが丸い顔を出す。草むらからのっそりと出て来て、ふたりに近づいてきた。よく来たな、とでも言わんばかりの様子だ。

「コトラちゃん、こんにちは」

 紫苑は、そっと手を伸ばしていく。コトラは逃げもせず、娘に体を触れさせていた。そんな姿を、幸乃は微笑みながら見ている。
 この猫がいてくれたのも、移住を決意した一因である。最初に出会った時から、コトラは娘に懐いてくれた。まるで、友達になるから村においでよ……とでも言っているかのような姿を見て、幸乃は心を決めたのだ。
 そんなことを思いつつ、紫苑とコトラの触れ合いを見ていると、不意に娘の顔がこちらに向けられた。

「コトラちゃんがすぐに出て来たってことは、今は蛇はいないってことだね」

 紫苑の言葉は、先日ここで出会ったペドロなる怪人が言っていたことだ。あの怪人物との、短いやり取りを覚えているとは意外だ。幸乃は僅かに動揺しつつも、こくんと頷いてみせた。

「そうだね。あの時は驚いたよ」

 苦笑しつつ、当時を思い出す。
 あの時は、何が起きているのかわからなかった。ペドロがいきなり動いたかと思うと、草むらにいる何かを踏み付けたのだ。
 周りにいる者たちが唖然としている中で、ペドロは踏み付けたものを拾い上げる。一瞬、革のベルトかと思った。だが、違っていた。赤と黒の斑点が付いた蛇である。それも、ヤマカガシという猛毒を持つものだ。ふたりは、そんな危険なものが潜んでいたことすら気付かなかった。
 そんな毒蛇を、ペドロはいとも殺してしまったのである。
 あの男がいなかったら、親子のどちらかが蛇に襲われていたのかも知れない。ある意味、恩人とも言えるだろう。一応、あれから蛇撃退用のスプレーを持ち歩くようにもなった。

「ママは、ペドロのこと嫌いなの?」

 不意に聞かれ、幸乃はどきりとした。紫苑はコトラのお腹を撫でつつ、母の顔を見上げている。
 正直、答えるのが難しい質問だ。好きか嫌いかと問われれば、嫌いではない。が、好きにもなれない。

「嫌いじゃないよ。ただ、なんか苦手だな」

 気持ちに正直なところを言うなら、この答えになる。近寄りがたいし、また近寄って欲しくないタイプである。恩人であるにもかかわらず、仲良くしたくはない。そばにいるだけで緊張してしまう。たとえるなら、社長や会長といった人種とふたりきりでエレベーターにいるような感覚に襲われるのだ。
 ふと、疑問が浮かぶ。この子は、なぜ平気なのだろう?

「どうして? 何が苦手なの?」

 娘は、なおも聞いてくる。ペドロと仲良くして欲しい、という気持ちゆえだろうか。幸乃は、苦笑しつつ紫苑の頭を撫でた。

「どうしてだろうね。ママもわからない」

 わからない、としか言えなかった。あの男のことは何も知らない。実際、西野昭夫にもそれとなく聞いてみたことがある。しかし、西野は言葉を濁すばかりだ。ペドロについては、あまり多くを語りたくないらしい。
 そんなことを考えていると、コトラがぱっと顔を上げる。起き上がったかと思うと、すぐに草むらへと隠れてしまった。
 紫苑はこちらを向き、ニッコリ笑う。

「西野さんが来たんだね」

 ・・・

 西野昭夫は、車を走らせていた。もうじき、真壁親子の姿が見えてくるだろう。
 今日、ペドロは隣に座っていない。昨日、ちょっと出かけることにした、という一言を残し消えてしまったのだ。
 あの男は、いればいたで厄介だ。同じ部屋にいるだけで、意味もなく緊張する。何をしでかすか、全く想像もつかない。
 しかし、いなければいないで気になる。何をしているのか、気になって仕方ない。
 そんな状態なので、今の昭夫はひどく落ち着かない態度であった。

「どうも。何か変わったことはないですか?」

 顔を出して尋ねている今も、無理に作り笑いを浮かべているのが見え見えである。

「うん、特にないよ」

 幸乃が答えた時、紫苑が口を挟んできた。

「ペドロさんは何してるの?」

「えっ?」

 困惑する昭夫に向かい、紫苑はさらに言葉を続ける。

「あの人、ここに住むんでしょ? また、一緒に遊びたい」

「う、うん。あの人は、今日ちょっと忙しいみたいなんだ」

 そう答えるしかなかった。すると、紫苑は首を傾げる。

「忙しいって、何してるの?」

「えっ? まあ、いろいろあるんだよ」

 いろいろあるんだよ、と言ってはいるが、実際のところ昭夫の方が聞きたかった。あの危険人物は、どこで何をしているのだろうか。

「大人って、忙しいんだね」

 紫苑は、本当に残念そうだ。この少女は、ペドロが大好きなのだろう。



 本当に不思議な男だ。
 昭夫は、ペドロが危険人物であることを知っている。さらに、恩人とも言える高木和馬を殺されてもいるのだ。本来なら、憎むべき仇である。
 にもかかわらず、昭夫はあの男を憎むことが出来なかった。それどころか、ペドロのことを知れば知るほど、強く惹かれていくのを感じている。圧倒的な腕力もさることながら、あの男が昭夫の目の前でおこなってみせた奇跡のごときわざ。あれは、本当に衝撃的であった。あんなことの出来る人間が、この世に存在するとは。
 あの業に衝撃を受けたのは、自分だけではない。佐倉健太の父・広志などは、こんなことを言っていたのだ。

「いやあ、あんな人がいるとはね。俺さ、超能力だの霊能者だの、今まで一切信じないって決めてたんだ。でも、ペドロさんのああいうのを間近で見ちまうと、信じざるを得ないよね」

 広志は、妻の京香キョウカとともに、息子を治す方法はないのかと様々な場所を回った。回った中には、高名な霊能者もいる。わらにもすがる思いで頼ったのだが、霊能者でも健太の中に存在する「兄」を消し去ることは出来なかった。
 佐倉家が最後に選んだのが、この御光村である。ここは、健太のイマジナリーフレンドを否定しない。それどころか、高木和馬と西野昭夫は大自然の中で、健太の「兄」とともに生きる道を模索しようとしてくれる。
 ならば、御手洗村で健太の「兄」と共に生きよう……夫婦は、そう決心したのだ。
 そんな一家に、ペドロは強烈なインパクトを与えた。いや、佐倉家だけではない。あの男がこの村に来てから、一週間も経っていない。にもかかわらず、今や村のカリスマのような存在である。まあ、カリスマとは言っても、全部で十人ほどの小さなコミュニティだが。
 ふと、おかしな考えが浮かんだ。イエス・キリストの使徒は、最初は十二人だったらしい。そんな小さなコミュニティから、全世界規模の宗教が出来上がった──
 昭夫は、思わず苦笑した。かぶりを振る。あまりにバカバカしい。ありえない。あの男は人殺しなのだ。恐らくは、これまで数々の犯罪に手を染めてきた人間。神と言うよりは、悪魔に近い。
 その時、また別の考えが浮かんだ。かつて日本で毒ガスによるテロを企てたカルト教団も、最初は数人によるサークル的なものだったと聞く。明るく楽しいヨガ教室、のようなものだったらしい。だが、後に日本転覆を目論む大規模なテロ集団となった。
 あの怪物の狙いが、御手洗村を己の意のままになるカルト集団に変えることだったとしたら? ペドロなら、その程度は可能なのではないか──
 またしても苦笑した。自分は、いったい何を考えているのだろう。さっきから、バカげた考えばかりが浮かぶ。どうかしている。
 それでも、頭から離れないものがある。本当の意味で弱者を救えるのは……自分のような無力な善人ではなく、ペドロのような善も悪も超越した圧倒的な力を持つ怪物なのかもしれない。

 

 



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ダブルネーム

しまおか
ミステリー
有名人となった藤子の弟が謎の死を遂げ、真相を探る内に事態が急変する! 四十五歳でうつ病により会社を退職した藤子は、五十歳で純文学の新人賞を獲得し白井真琴の筆名で芥山賞まで受賞し、人生が一気に変わる。容姿や珍しい経歴もあり、世間から注目を浴びテレビ出演した際、渡部亮と名乗る男の死についてコメント。それが後に別名義を使っていた弟の雄太と知らされ、騒動に巻き込まれる。さらに本人名義の土地建物を含めた多額の遺産は全て藤子にとの遺書も発見され、いくつもの謎を残して死んだ彼の過去を探り始めた。相続を巡り兄夫婦との確執が産まれる中、かつて雄太の同僚だったと名乗る同性愛者の女性が現れ、警察は事故と処理したが殺されたのではと言い出す。さらに刑事を紹介され裏で捜査すると告げられる。そうして真相を解明しようと動き出した藤子を待っていたのは、予想をはるかに超える事態だった。登場人物のそれぞれにおける人生や、藤子自身の過去を振り返りながら謎を解き明かす、どんでん返しありのミステリー&サスペンス&ヒューマンドラマ。

最後ノ審判

TATSUYA HIROSHIMA
ミステリー
高校卒業以来10年ぶりに再会した8人。 決して逃れられない「秘密」を共有している彼らは、とある遊園地でジェットコースターに乗り込み「煉獄」へと誘われる。 そこで「最後の審判」を受けるために……。

月明かりの儀式

葉羽
ミステリー
神藤葉羽と望月彩由美は、幼馴染でありながら、ある日、神秘的な洋館の探検に挑むことに決めた。洋館には、過去の住人たちの悲劇が秘められており、特に「月明かりの間」と呼ばれる部屋には不気味な伝説があった。二人はその場所で、古い肖像画や日記を通じて、禁断の儀式とそれに伴う呪いの存在を知る。 儀式を再現することで過去の住人たちを解放できるかもしれないと考えた葉羽は、仲間の彩由美と共に儀式を行うことを決意する。しかし、儀式の最中に影たちが現れ、彼らは過去の記憶を映し出しながら、真実を求めて叫ぶ。過去の住人たちの苦しみと後悔が明らかになる中、二人はその思いを受け止め、解放を目指す。 果たして、葉羽と彩由美は過去の悲劇を乗り越え、住人たちを解放することができるのか。そして、彼ら自身の運命はどうなるのか。月明かりの下で繰り広げられる、謎と感動の物語が展開されていく。

夕顔は朝露に濡れて微笑む

毛蟹葵葉
ミステリー
 真殿鳴海は父親を知らずに育てられた。 ある日、弁護士から自分が有名な会社の会長才賀与一の隠し子だと知らされ。ある島に向かう事になった。 島では『身内』からの冷ややかな態度を取られ、不安になりながら一夜を過ごす。 そして次の日の朝、才賀与一の遺体が発見される。

先生、それ事件じゃありません3

菱沼あゆ
ミステリー
 ついに津和野に向かうことになった夏巳と桂。  だが、数々の事件と怪しい招待状が二人の行く手を阻む。 「なんで萩で事件が起こるんだっ。  俺はどうしても津和野にたどり着きたいんだっ。  事件を探しにっ」 「いや……もう萩で起こってるんならいいんじゃないですかね?」  何故、津和野にこだわるんだ。  萩殺人事件じゃ、語呂が悪いからか……?  なんとか事件を振り切り、二人は津和野に向けて出発するが――。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

35歳刑事、乙女と天才の目覚め

dep basic
ミステリー
35歳の刑事、尚樹は長年、犯罪と戦い続けてきたベテラン刑事だ。彼の推理力と洞察力は優れていたが、ある日突然、尚樹の知能が異常に向上し始める。頭脳は明晰を極め、IQ200に達した彼は、犯罪解決において類まれな成功を収めるが、その一方で心の奥底に抑えていた「女性らしさ」にも徐々に目覚め始める。 尚樹は自分が刑事として生きる一方、女性としての感情が徐々に表に出てくることに戸惑う。身体的な変化はないものの、仕草や感情、自己認識が次第に変わっていき、男性としてのアイデンティティに疑問を抱くようになる。そして、自分の新しい側面を受け入れるべきか、それともこれまでの「自分」でい続けるべきかという葛藤に苦しむ。 この物語は、性別のアイデンティティと知能の進化をテーマに描かれた心理サスペンスである。尚樹は、天才的な知能を使って次々と難解な事件を解決していくが、そのたびに彼の心は「男性」と「女性」の間で揺れ動く。刑事としての鋭い観察眼と推理力を持ちながらも、内面では自身の性別に関するアイデンティティと向き合い、やがて「乙女」としての自分を発見していく。 一方で、周囲の同僚たちや上司は、尚樹の変化に気づき始めるが、彼の驚異的な頭脳に焦点が当たるあまり、内面の変化には気づかない。仕事での成功が続く中、尚樹は自分自身とどう向き合うべきか、事件解決だけでなく、自分自身との戦いに苦しむ。そして、彼はある日、重大な決断を迫られる――天才刑事として生き続けるか、それとも新たな「乙女」としての自分を受け入れ、全く違う人生を歩むか。 連続殺人事件の謎解きと、内面の自己発見が絡み合う本作は、知能とアイデンティティの両方が物語の中心となって展開される。尚樹は、自分の変化を受け入れることで、刑事としても、人間としてもどのように成長していくのか。その決断が彼の未来と、そして関わる人々の運命を大きく左右する。

処理中です...