化け猫のミーコ

板倉恭司

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過去からの呼び声(1)

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 僕が小学生の頃、両親は離婚した。



 あやふやな記憶ではあるが、小学生の時には、両親の会話はほとんど無かった気がする。僕の目の前で派手な喧嘩をするようなことはなかったが、二人の間には冷たい空気が漂っていたのは間違いない。
 やがて二人は離婚し、その際の話し合いにより、僕は母に引き取られることとなった。それから高校生になった今まで、父とは数えるほどしか会っていない。
 もっとも、今さら会いたいとも思わないが。父は、決して悪い人間ではない。むしろ友人として付き合えば、面白い人間だったのだろう。だが、親としての資質には欠けていた。責任感というものがまるでなく、どこか夢の世界で生きているような雰囲気を漂わせていた。
 何せ最後に会った時、父はこんなことを言っていたのだ。

「俺はまだ終わっちゃいねえ。これから、一発でっかい花火を打ち上げてやるからよ」

 僕は苦笑するしかなかった。こんな夢想家の男が家庭を持っても、上手くいくはずがない。



 あれは、十年近く前のことだ。まだ両親の間に、愛という感情が、ほんの僅かでも存在していた頃の話である。
 僕ら家族は、滝川村という山奥の集落へと行った。表向きの理由は家族旅行であったが、今にして思えば何か別の目的もあったのかもしれない。滝川村には、父の遠い親戚が住んでいたのだから。
 ひょっとしたら、金の無心のために来たのかもしれない。何せ、父という男は当時から自由人だったから。

 だが、そんな大人の事情など、幼い子供に分かるはずもない。自然に囲まれた滝川村は、当時の僕にとって楽しい遊び場だった。野山を探検し、川の魚や蟹などの動きを見たり、虫の声に耳をすませたりした。
 そんな中、僕は彼女に出会った──



「あんた、誰?」

 田んぼに囲まれた田舎道を歩いていた時、不意に背後から聞こえてきた声。振り返ると、そこには小さな子が立っていた。短く刈られた髪、白いタンクトップと半ズボン姿だ。僕より背は小さく、大きな目でこちらを真っ直ぐ見ている。
 僕は首を傾げる。地元の少年だろうか。

「えっ……いや、誰と言われても……」

 僕が答えに窮していると、その子はつかつか近づいて来た。

「あたし、宮内穂香ミヤウチ ホノカ。あんた、名前は?」

 穂香、ということは女の子だったのか。髪は短いし、男の子のような雰囲気だ。でも近くでよく見ると、その顔立ちには女の子らしさもある。

「ぼ、僕は、た、高山和義タカヤマ カズヨシだよ」

 僕はつっかえながら答えた。もともと人見知りであり、活発な方ではない。女の子と一対一で話すこともなかった。なのに、初対面の女の子に親しげに話しかけられるとは……僕は戸惑っていた。ひょっとしたら、この時の僕は赤面していたかもしれない。
 だが、穂香は僕の事情など関係ないようだ。こちらを真っ直ぐ見つめながら、なおも聞いてくる。

「カズヨシ……じゃあ、カズくんだね。カズくんは、引っ越してきたの?」

「い、いや、旅行で来たんだよ」

「ふうん、旅行なんだ」

 そう言うと、穂香は下を向いた。心なしか、がっかりしているようにも見える。
 だが、すぐに顔を上げた。

「一緒に遊ぼ。あっちに、不思議な野良猫がいたんだよ」

「不思議な野良猫?」

「うん。真っ黒で、尻尾が二本生えてたんだよ。一緒に探そう」

 言うと同時に、穂香は僕の手を掴み引っ張っていく。その強引な態度に、僕はされるがままになっていた。



 後になって分かったことだが、当時の滝川村は既に限界集落寸前の状態であった。そのため、穂香と同じ年頃の小学生は全くいなかった。彼女はたったひとりで、学校に通い授業を受けていたのである。
 そんな穂香にとって、村で初めて見かけた同年代の少年の僕……ひょっとしたら同級生になるのかもしれない、という淡い期待を抱いたのではないだろうか。
 村を出たことのない彼女にとって、同年代の友だちとは、テレビの中でしか観たことがないものだったのだ。当時の穂香にとって、僕の存在は特別なものだった……これは、単なる自惚れや独りよがりの思い込みではないはずだ。
 僕にとっても、穂香の存在は特別だった。ぱっとしない風貌で引っ込み思案、友だちの少ない少年であった僕にとっては、穂香は初めて触れ合った異性の友人である。彼女の強引なペースに抗えぬまま、行動を共にしていた。



 翌日から僕は、穂香と毎日遊ぶようになった。
 穂香は昼ごろになると、うちに呼びに来た。そして僕たちは、一緒に滝川村の周辺を探検する。野山を歩き、川で魚やザリガニを獲った。穂香はザリガニ獲りが上手く、僕は感心していた。

「穂香ちゃんは、本当に凄いんだね!」

 僕がそう言うと、穂香は得意気に胸を張る。その姿は、本当に可愛かった。

 また別の日には、二人で山に登った。とはいっても、少し高い丘の上といった程度のものだが。
 そんな山の上で一緒に弁当を食べ、いろんなことを話した。都会のこと、田舎の生活、好きな遊び、面白いテレビ番組などなど……穂香は楽しそうに話し、大きな声で笑う。穂香が笑うと、僕は幸せな気分になった。
 あの頃のことを思い出すと、僕は形容の出来ない想いに襲われる。僕の初恋はと問われれば、それは紛れもなくこの時だ、と答える。穂香と遊んでいる時間は、僕にとってかけがえのないものだった。



 もっとも、楽しい時間というのは、あっという間に過ぎてしまう。やがて夏休みが終わり、僕たちは東京に帰ることとなった。

「そう、帰るんだ」

 穂香は、とても悲しそうな表情であった。もっとも、悲しいのは僕も同じである。彼女とは、離れたくなかった。穂香と僕の、二人だけの世界。それは、あまりにも美しくかけがえのないものだった。

「僕、また来るから! 来年の夏休みに、また来るからね!」

 最高に恥ずかしいことが起きた。この時、僕は泣き出していたのだ……。
 それは、単なるお別れではない。僕と穂香が築き上げてきた、二人だけの世界。だが、夏の終わりと共に崩壊してしまうのだ。その後の僕に待っているのは、いつもと同じ灰色の世界。退屈きわまりない学校生活が待っている。
 その事実が、たまらなく悲しかった。僕は嗚咽を洩らしながら、その場に立ち尽くしていた。

 だが、穂香は泣かなかった。にっこり笑って、僕の手を握る。

「また、遊びに来てね」

「絶対……絶対に遊びに来るからね!」



 しかし、僕と穂香は再会できなかった。
 その後、父と母の仲は急速に悪くなる。はっきりとは覚えていないが、父の浮気が発覚したのが、それからすぐのことだったように思う。
 やがて父と母は離婚し、僕は母の家に引き取られる。そうなると、滝川村に行くことなど出来ない。父方の親戚の家に泊めてもらっていたのに、その親戚との縁が切れてしまったのだから。



 僕は、穂香との約束を忘れてはいなかった。しかし、滝川村は幼い少年がひとりで行けるような場所ではない。やがて月日が流れていき、いつしか僕の中で、穂香の存在は遠いものになっていた。
 彼女のことは、今も忘れられない……だが、思い出すこともなかった。
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