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心に残った爪痕(3)
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「三毛子って、お前どういうことだよ……」
小池は、呆然とした表情で呟く。
昔、この公園には一匹の野良の三毛猫がいた。片方の前足が欠損しており、三本の足で歩いていた。さらに皮膚病のせいか、体の毛がところどころ抜けていたのも覚えている。
可愛げの欠片もない、醜い三毛猫だった。しかし、小池はその猫に毎日餌をあげていたのだ。他の野良猫が来たら追い払い、醜い三毛猫にだけ餌を食べさせる。彼はその猫に、自分の姿を重ねていたのである。醜い火傷痕のある自分と、皮膚病の上に足が三本しかない三毛猫。小池は、親近感を抱いていた。
そして小池は、その野良猫に名前を付けた。
三毛子、と。
「やっと思い出してくれたんだね、おじさん」
そう言って、ミネコ……いや、三毛子は微笑んだ。しかし、小池はただただ唖然とするばかりだ。
「な……どういうことだ? 何で猫が?」
その時、黒猫が顔を上げる。
「お前、今日が何の日かわかっていないようだニャ」
「な、何の日って……」
黒猫の言葉に、小池は唖然としながら考える。どういうことだろう。今日は八月十五日であり、刑期が満了する日だ。この日が来るのを、刑務所の中でじっと待っていた。だが、いざ出てみれば何もないことを知らされた──
その時、ようやく思い当たった。
「お盆、か」
ようやく、小池の口から言葉が出た。そう、今日はお盆だったのだ。死んだはずの者が「こちらの世界」に戻って来られる日。
となると、三毛子は……。
「お前、死んでたのか」
小池の言葉に、三毛子は笑顔で頷いた。
「うん。おじさん、急に来てくれなくなったでしょ? あたし、心配になってさ。おじさんを探そうと道路に出たら、車に轢かれちゃった。あたし、足が三本だから避けられなくて」
あっけらかんとした表情で語る三毛子。だが、小池は顔を歪めた。
「待てよ……じゃあ、俺のせいで……」
「おじさんのせいじゃないよ。あたしのせい。あんな体で、道路に出たあたしが悪いの」
そう言った後、三毛子は小池の手を握った。
「おじさん、あたしの分も生きて、幸せになってね。おじさんは、本当に優しかった。あたし、人間に優しくされたの、生まれて初めてだったんだよ。あたしみたいな猫に、優しくしてくれる人がいる……本当に嬉しかった。それに、おじさんのくれたごはんは凄く美味しかった。おじさんがいなかったら、あたしはすぐに死んでたんだよ。おじさんは、本当はいい人なの。忘れないでね」
言い終わった後、三毛子は手を離した。小池に背中を向ける。
「じゃあ、もう行かなきゃ。あたしの分まで生きて、幸せになってね。約束だよ」
そう言って、歩き出した。だが、途中で立ち止まった。
「そうだ、忘れてたよ。おじさん……いっぱい、ありがとう」
次の瞬間、三毛子の姿がぼやけ始める。白い光のようなものに包まれた。
そこに現れたのは、痩せこけた一匹の三毛猫だった。体の毛はところどころ抜け落ち、前足が一本欠けている。お世辞にも可愛いとは言えない姿だ。小池を見上げる目には、溢れんばかりの親愛の情がある。
三毛猫は小池に向かい、にゃあ、と鳴いた。
そして、とことこと歩いて行く。三本の足でのんびりと歩き、夜の闇に消えて行った。
小池は、その場に立ち尽くしていた。今、見たものは現実だろうか。それとも夢か。
いや、夢でも幻でもない。先ほど出現した喋る黒猫は、今も目の前にいるのだから。
じっと、小池を見つめている。
「本当に、バカな猫だニャ。たった一言の礼のため、霊になってずっと待ち続けていたニャ。しかも、可愛い人間の姿になっておじさんと遊びたい……その願いのため、何度もあたしに頼みに来たニャ」
黒猫は、ひとり言のような口調で語る。小池はハッとなり、顔を歪めた。
「な、なんだよそれ……」
「お前みたいなクズに礼を言うために、三毛子は何度もあたしのところに来たニャ。あんまりしつこいから、願いを叶えてやったのニャ。お盆の日に、人間の姿になれるようにニャ。本当に、哀れな奴だニャ」
黒猫の言葉は、小池の心を容赦なくえぐる。
次の瞬間、彼はその場に崩れ落ちる。拳を固め、地面を殴り付けた。
何度も、何度も──
「礼なんか言うんじゃねえよ! 俺はクズだ! 俺のせいで、お前は……」
その時、小池の口から嗚咽が洩れた。目からは、涙がこぼれ落ちる。
自分は、いい人ではない。本当にいい人なら、三毛子を家に連れ帰り飼ってあげていたはずだ。
弁当の残りを与えるなど、誰でも出来る。ただの自己満足だ。それは断じて優しさと呼べるものではない。
三毛子の一生の面倒を見るだけの覚悟も甲斐性もなく、ただ自分がいい気持ちになりたいがためだけに、弁当の残りをあげていただけなのだ。
なのに、三毛子は……。
小池のことを本当に優しい、いい人だと思ってくれていたのだ。ただの自己満足で餌を与える小池に、本気で感謝し……逮捕された小池を探して道路に出て、車に轢かれて命を失った。
にもかかわらず、死んでからも小池の前に姿を現わしたのだ。
ただ、一言の礼のために。
(おじさん……いっぱい、ありがとう)
「ぢぐじょう!」
小池は泣きながら、なおも地面を殴り続ける。彼の拳の皮膚が裂け、血が流れる。
「俺は……ぐずだ……俺のぜいで……じんだのに……俺のぜいで……」
小池は泣きじゃくった。両親を喪って以来、泣くことを忘れていた。だが、今は涙が止まらなかった。地面に額を擦り付け、泣き続けていた。
その時、彼の肩に触れた者がいる。
「もし、これからの人生を本気でやり直す気があるなら、僕が力を貸しますよ。どうするんですか?」
・・・
一年後。
「おい小池」
聞こえてきた声に、小池は振り向いた。そこには、会社の上司が立っている。
「お疲れさん」
上司からかけられた言葉に、小池は頭を下げる。
「お疲れ様です。明日も、よろしくお願いします」
挨拶すると、小池は自宅のアパートに歩いていく。が、その足が止まった。
ひとりの青年が、目の前に立っていた。痩せた体にTシャツを着てカーゴパンツを履き、道路に佇んでいる。その顔には、見覚えがあった。
「お久しぶりです、小池さん」
言いながら、青年はニッコリ微笑んだ。小池も、笑みを浮かべる。
「やあ、安藤くん」
そう、この青年の名は安藤誠、小池の恩人である。刑務所を出たばかりの小池のために、スマホを駆使してあちこちのボランティア団体や施設と連絡を取り、住む場所や就職先を見つけてくれたのだ。
「ちょっと、この辺を通りかかったもので……元気そうですね」
安藤の言葉に、小池はかぶりを振る。
「いや、元気とも言えないね。今日は疲れたよ」
「そうでしたか。失礼しました」
ペこりと頭を下げる安藤に、小池は苦笑した。
「いや、冗談だよ。疲れたのは確かだけど、元気さ。ところで、あの化け猫はどうしてるんだい?」
「化け猫? ああ、ミーコのことですか。あいつは気まぐれなんで、どこにいるかわからないです」
「そうか……」
小池は、そこで言葉を止めた。少しの間を置き、ためらいながらも口を開く。
「あ、あのさ……今年のお盆には、三毛子ともう一度会うことは出来るのかい?」
「それは、無理みたいです。あれは、たった一度だけ叶えられる願いだったらしいので……」
すまなそうに答える安藤に、小池は頷いた。
「そうか。まあ、仕方ないよな。俺は、なんで気づけなかったんだろう」
言いながら、空を見上げた。
あれから、あちこちの人に頭を下げた。その後は必死で働き、ようやくまともな暮らしが出来るようになる。つまらないプライドなどにこだわらず、一生懸命生きてきた。
すると……いつの間にか、居場所が出来ていた。笑顔で接してくれる人も現れた。
全ては、三毛子との約束のためだ。
(あたしの分まで生きて、幸せになってね)
ああ、俺はお前の分も生きるよ。
小池は、呆然とした表情で呟く。
昔、この公園には一匹の野良の三毛猫がいた。片方の前足が欠損しており、三本の足で歩いていた。さらに皮膚病のせいか、体の毛がところどころ抜けていたのも覚えている。
可愛げの欠片もない、醜い三毛猫だった。しかし、小池はその猫に毎日餌をあげていたのだ。他の野良猫が来たら追い払い、醜い三毛猫にだけ餌を食べさせる。彼はその猫に、自分の姿を重ねていたのである。醜い火傷痕のある自分と、皮膚病の上に足が三本しかない三毛猫。小池は、親近感を抱いていた。
そして小池は、その野良猫に名前を付けた。
三毛子、と。
「やっと思い出してくれたんだね、おじさん」
そう言って、ミネコ……いや、三毛子は微笑んだ。しかし、小池はただただ唖然とするばかりだ。
「な……どういうことだ? 何で猫が?」
その時、黒猫が顔を上げる。
「お前、今日が何の日かわかっていないようだニャ」
「な、何の日って……」
黒猫の言葉に、小池は唖然としながら考える。どういうことだろう。今日は八月十五日であり、刑期が満了する日だ。この日が来るのを、刑務所の中でじっと待っていた。だが、いざ出てみれば何もないことを知らされた──
その時、ようやく思い当たった。
「お盆、か」
ようやく、小池の口から言葉が出た。そう、今日はお盆だったのだ。死んだはずの者が「こちらの世界」に戻って来られる日。
となると、三毛子は……。
「お前、死んでたのか」
小池の言葉に、三毛子は笑顔で頷いた。
「うん。おじさん、急に来てくれなくなったでしょ? あたし、心配になってさ。おじさんを探そうと道路に出たら、車に轢かれちゃった。あたし、足が三本だから避けられなくて」
あっけらかんとした表情で語る三毛子。だが、小池は顔を歪めた。
「待てよ……じゃあ、俺のせいで……」
「おじさんのせいじゃないよ。あたしのせい。あんな体で、道路に出たあたしが悪いの」
そう言った後、三毛子は小池の手を握った。
「おじさん、あたしの分も生きて、幸せになってね。おじさんは、本当に優しかった。あたし、人間に優しくされたの、生まれて初めてだったんだよ。あたしみたいな猫に、優しくしてくれる人がいる……本当に嬉しかった。それに、おじさんのくれたごはんは凄く美味しかった。おじさんがいなかったら、あたしはすぐに死んでたんだよ。おじさんは、本当はいい人なの。忘れないでね」
言い終わった後、三毛子は手を離した。小池に背中を向ける。
「じゃあ、もう行かなきゃ。あたしの分まで生きて、幸せになってね。約束だよ」
そう言って、歩き出した。だが、途中で立ち止まった。
「そうだ、忘れてたよ。おじさん……いっぱい、ありがとう」
次の瞬間、三毛子の姿がぼやけ始める。白い光のようなものに包まれた。
そこに現れたのは、痩せこけた一匹の三毛猫だった。体の毛はところどころ抜け落ち、前足が一本欠けている。お世辞にも可愛いとは言えない姿だ。小池を見上げる目には、溢れんばかりの親愛の情がある。
三毛猫は小池に向かい、にゃあ、と鳴いた。
そして、とことこと歩いて行く。三本の足でのんびりと歩き、夜の闇に消えて行った。
小池は、その場に立ち尽くしていた。今、見たものは現実だろうか。それとも夢か。
いや、夢でも幻でもない。先ほど出現した喋る黒猫は、今も目の前にいるのだから。
じっと、小池を見つめている。
「本当に、バカな猫だニャ。たった一言の礼のため、霊になってずっと待ち続けていたニャ。しかも、可愛い人間の姿になっておじさんと遊びたい……その願いのため、何度もあたしに頼みに来たニャ」
黒猫は、ひとり言のような口調で語る。小池はハッとなり、顔を歪めた。
「な、なんだよそれ……」
「お前みたいなクズに礼を言うために、三毛子は何度もあたしのところに来たニャ。あんまりしつこいから、願いを叶えてやったのニャ。お盆の日に、人間の姿になれるようにニャ。本当に、哀れな奴だニャ」
黒猫の言葉は、小池の心を容赦なくえぐる。
次の瞬間、彼はその場に崩れ落ちる。拳を固め、地面を殴り付けた。
何度も、何度も──
「礼なんか言うんじゃねえよ! 俺はクズだ! 俺のせいで、お前は……」
その時、小池の口から嗚咽が洩れた。目からは、涙がこぼれ落ちる。
自分は、いい人ではない。本当にいい人なら、三毛子を家に連れ帰り飼ってあげていたはずだ。
弁当の残りを与えるなど、誰でも出来る。ただの自己満足だ。それは断じて優しさと呼べるものではない。
三毛子の一生の面倒を見るだけの覚悟も甲斐性もなく、ただ自分がいい気持ちになりたいがためだけに、弁当の残りをあげていただけなのだ。
なのに、三毛子は……。
小池のことを本当に優しい、いい人だと思ってくれていたのだ。ただの自己満足で餌を与える小池に、本気で感謝し……逮捕された小池を探して道路に出て、車に轢かれて命を失った。
にもかかわらず、死んでからも小池の前に姿を現わしたのだ。
ただ、一言の礼のために。
(おじさん……いっぱい、ありがとう)
「ぢぐじょう!」
小池は泣きながら、なおも地面を殴り続ける。彼の拳の皮膚が裂け、血が流れる。
「俺は……ぐずだ……俺のぜいで……じんだのに……俺のぜいで……」
小池は泣きじゃくった。両親を喪って以来、泣くことを忘れていた。だが、今は涙が止まらなかった。地面に額を擦り付け、泣き続けていた。
その時、彼の肩に触れた者がいる。
「もし、これからの人生を本気でやり直す気があるなら、僕が力を貸しますよ。どうするんですか?」
・・・
一年後。
「おい小池」
聞こえてきた声に、小池は振り向いた。そこには、会社の上司が立っている。
「お疲れさん」
上司からかけられた言葉に、小池は頭を下げる。
「お疲れ様です。明日も、よろしくお願いします」
挨拶すると、小池は自宅のアパートに歩いていく。が、その足が止まった。
ひとりの青年が、目の前に立っていた。痩せた体にTシャツを着てカーゴパンツを履き、道路に佇んでいる。その顔には、見覚えがあった。
「お久しぶりです、小池さん」
言いながら、青年はニッコリ微笑んだ。小池も、笑みを浮かべる。
「やあ、安藤くん」
そう、この青年の名は安藤誠、小池の恩人である。刑務所を出たばかりの小池のために、スマホを駆使してあちこちのボランティア団体や施設と連絡を取り、住む場所や就職先を見つけてくれたのだ。
「ちょっと、この辺を通りかかったもので……元気そうですね」
安藤の言葉に、小池はかぶりを振る。
「いや、元気とも言えないね。今日は疲れたよ」
「そうでしたか。失礼しました」
ペこりと頭を下げる安藤に、小池は苦笑した。
「いや、冗談だよ。疲れたのは確かだけど、元気さ。ところで、あの化け猫はどうしてるんだい?」
「化け猫? ああ、ミーコのことですか。あいつは気まぐれなんで、どこにいるかわからないです」
「そうか……」
小池は、そこで言葉を止めた。少しの間を置き、ためらいながらも口を開く。
「あ、あのさ……今年のお盆には、三毛子ともう一度会うことは出来るのかい?」
「それは、無理みたいです。あれは、たった一度だけ叶えられる願いだったらしいので……」
すまなそうに答える安藤に、小池は頷いた。
「そうか。まあ、仕方ないよな。俺は、なんで気づけなかったんだろう」
言いながら、空を見上げた。
あれから、あちこちの人に頭を下げた。その後は必死で働き、ようやくまともな暮らしが出来るようになる。つまらないプライドなどにこだわらず、一生懸命生きてきた。
すると……いつの間にか、居場所が出来ていた。笑顔で接してくれる人も現れた。
全ては、三毛子との約束のためだ。
(あたしの分まで生きて、幸せになってね)
ああ、俺はお前の分も生きるよ。
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