悪魔の授業

板倉恭司

文字の大きさ
上 下
6 / 29

最後の決断

しおりを挟む
 郁紀は、青ざめた表情でペドロの訪問を待っていた。
 昨日から、ほとんど眠れていない。あの男と電話越しに二言か三言話しただけで、妙な疲労感を覚えていた。
 やがて食事を取り、寝床に入ったが……なかなか眠れなかった。疲れているはずなのに、異様に神経が高ぶっており、寝付くのに時間がかかったのを覚えている。



 今朝は、午前七時に目覚めた。いつも通りの起床時間だ。眠りについたのは何時頃だったろうか。熟睡した気はしない。
 その後、普段通りに朝食をとったが、味わう余裕はなかった。もともと郁紀は、食を味わうことに対しこだわりがない。今朝も、ゆで卵とパンを食べただけだが……砂を噛んでいるような気分だった。
 どうにか水で流し込んだ後、テレビをつける。だが、映像も音も全く頭に入って来ない。目で見て、耳で聞いてはいるはずなのだが、内容を把握できていなかった。
 昨日の電話によれば、ペドロは午後二時に迎えに来る。それまで、何をすればいいのだろうか。
 暇を潰す手段など、いくらでもある……はずだった。だが、今は何をしても上の空だ。テレビを見ても、スマホを見ても集中できない。気がつくと、目が今の時間をチェックしている。時間が、これほど長く感じたことはなかった。

 拷問にも思えるような時間が過ぎていき、ようやく約束の午後二時を迎えた。
 スマホを見てみたが、連絡はない。次にドアの方に視線を向けた。すると、見ていたかのようにブザーが鳴った。
 その途端、弾かれたような勢いで立ち上がる。慌ててドアを開けると、目の前にペドロが立っていた。
 彼は昨日と同じく、作業服を着て帽子を被った姿だ。飄々ひょうひょうとした様子で立っている。

「あ、あの……ど、どうも」

 反射的に、そんな言葉が出ていた。ペドロの方は、にこりともせず口を開く。

「入ってもいいかな? ちょっと、込み入った話があるのでね」

「は、はい、どうぞ」

 郁紀の返事を聞くと、ペドロは靴を脱いだ。直後、何のためらいもなくずかずかと入って来る。遠慮という概念が、彼にはないらしい。
 もっとも、昨日は無断で部屋に侵入したのだ。しかも、土足で上がり込んでいた。それに比べれば、いくぶんマシではある。
 室内に入ると、ペドロは当然のごとく床に座り込んだ。顔を上げ、おもむろに口を開く。

「今の君は、睡眠不足のようだね。それは良くないな。眠れる時には、きちんと寝ておかないと駄目だよ」

 その声は、とても穏やかなものだった。にもかかわらず、郁紀は叱られたかのように頭を下げていた。

「す、すみません」

「謝ることはない。それよりも……まずは、やってもらうことがある。携帯電話は、この家に置いていくんだ。さらに、現金やカードの類いも、全部この家に置いていきたまえ。俺の指導を受ける間は、俗世間の情報を全て遮断してもらう」

「えっ……」

 郁紀は、予想外の事態に口ごもる。そんなことをするとは、聞いていない。万が一の事態を考えたら……。
 すると、ペドロの顔つきが僅かに変化した。

「怖いのかね? どうしても気が進まないのなら、ここで引き返すことも出来る。考え直す最後のチャンスだよ」

 最後のチャンス。
 その言葉は、とても重い響きを持っていた。今なら、まだ引き返せるのだ。ひょっとしたら、自分は恐ろしく間違った決断をしようとしているのかもしれない。
 心に迷いが生まれた郁紀に、ペドロは優しい口調で語る。 

「これからすることは、確実に君の想像を超えている。しかも、始まってしまったら、途中で後戻りすることは出来ない。辛いとか、苦しいとか、そんな理由で中止することは出来ないんだよ」

 郁紀は、心が揺らいだ。ここで、やめた方がいいのだろうか。
 やめてしまえば、今まで通りの平穏な生活が待っている。今まで通りにバイトをして、時々ヤンキーやチンピラを叩きのめす日々。
 だが、その先に何がある?

「そのことを知った上で、それでも付いて来るのかい? やめるなら、今のうちだよ」

 ペドロの顔には、笑みが浮かんでいた。だが、その瞳は笑っていない。何を考えているのか窺い知ることは出来ないが、彼が喜んでいないことだけはわかる。。
 その時、郁紀ははっきりと悟った。自分は、もう戻れないのだ。ペドロという怪物と、自らの意思で連絡を取ってしまった。しかも、彼にここまで来てもらっているのだ。それを、今になって無かったことには出来ない。
 郁紀は、その場にスマホと財布を置いた。ペドロの目を見つめ答える。

「お、俺は行きます」

 すると、ペドロの顔から笑みが消えた。

「わかった。では、行くとしようか」

 直後、すっと立ち上がった。

「必要なものは、全て向こうに用意してある。君は、身ひとつで行くだけだ」

 そう言うと、ペドロは外へ出て行った。続いて、郁紀も外に出ていく。

「では郁紀くん、あれに乗りたまえ」

 ペドロが指し示す先には、一台の車が止まっていた。何の変哲もない、どこにでもある白い乗用車だ。彼はドアを開け、運転席に乗り込む。郁紀は、恐る恐る助手席に乗った。



 二人の乗った車は、ゆっくりと道路を進んで行く。ペドロの運転は、とても慎重であった。彼の印象とは、完全に真逆である。
 二十分ほど経った時だった。

「あ、あの……この車はあなたのですか?」

 車を運転するペドロに、郁紀はためらいながらも尋ねた。
 ここまでの運転中、ペドロは一言も喋らずハンドルを握っている。車内には、重苦しい空気が漂っていた。その空気に耐え切れなくなり、思わず質問をしていたのだ。
 その問いに対するペドロの答えは、あまりにも簡単なものだった。

「いいや、俺の車じゃない。ちょっと拝借したんだよ」

「そ、そうですか……」

 拝借とはどういう意味なのか、何となくわかる。もっとも、詳しい事情まではわかりたくはなかった。このペドロという男は、郁紀の理解の範囲を超えている。車泥棒くらい、当たり前のようにこなすのだろう。
 その時、ペドロがくすりと笑った……ような気がした。

「君は今、沈黙に耐えられなくなった。だから、くだらない質問をした。覚えておくといい。沈黙していると、向こうから勝手に情報を漏らしてくれることもある。君は、沈黙に耐えることを覚えた方がいい」

 真っ直ぐ前を見ながら、静かな口調で語りかけてきた。対する郁紀は、無言のまま頷く。ペドロの指摘は当たっていた。自分の行動や思考を見抜くことなど、彼にとって簡単なことなのだろう。

「昨日、言ったはずだ……君を、本物の戦士に変えると。俺は嘘は嫌いだし、約束したことは必ず守る。だから、俺の言うことは聞きたまえ。今はわからなくとも、後になってわかることもある」

 ペドロは、なおも語り続ける。郁紀は、ここでようやく返事をした。

「はい」

「ところで、君にひとつ質問がある。優秀な戦士に必要なものは、何だと思う?」

「えっ……わ、わかりません」

 郁紀の答えに、ペドロは口元を歪めた。
 その途端、郁紀はドキリとなる。もしかして、怒らせてしまったのだろうか。 

「まあ、今の君にはわからないだろう。それも当然だ。これから行く場所で、それを教わることになるのだからね」

「は、はい!」

 郁紀は即答した。これ以上、機嫌を損ねるようなまねはしたくない。
 その時、ペドロの表情が僅かに柔らかくなった……ような気がした。

「ところで……昨日から、あまり眠れていないのだろう? だったら構わない。眠るといい」

「えっ? いや、それは──」

「寝ておいた方がいいよ。これから起こることに備えてね。さっきも言ったはずだよ、寝られる時は寝た方がいいと」

 ペドロの口調は静かだが、有無を言わさぬ意思が感じられた。寝ておいた方がいいよ、と提案しているように聞こえるが、実のところは命令なのだろうか。

「わ、わかりました」

 郁紀は、目を閉じた。その途端、強い睡魔が襲ってくる。抵抗することなど出来なかった。彼は、深い眠りに落ちていった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件

フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。 寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。 プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い? そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない! スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

雌犬、女子高生になる

フルーツパフェ
大衆娯楽
最近は犬が人間になるアニメが流行りの様子。 流行に乗って元は犬だった女子高生美少女達の日常を描く

怪異・おもらししないと出られない部屋

紫藤百零
大衆娯楽
「怪異・おもらししないと出られない部屋」に閉じ込められた3人の少女。 ギャルのマリン、部活少女湊、知的眼鏡の凪沙。 こんな条件飲めるわけがない! だけど、これ以外に脱出方法は見つからなくて……。 強固なルールに支配された領域で、我慢比べが始まる。

処理中です...