悪魔の授業

板倉恭司

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郁紀の選択

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 気がつくと、窓から日光が射していた。
 壁にかけてある時計を見ると、十一時を過ぎていた。本来なら、倉庫にて作業をしていなければならない時間帯である。完全に遅刻だ。いや、遅刻というレベルではないだろう。
 そんな状況にもかかわらず、郁紀は家にいた。何をするでもなく、虚ろな表情でじっと壁を見つめている。正確には、壁すら見ていなかったのだが。
 習慣のなせるわざだろうか、朝の七時には自動的に目を覚ましていた。だが、それから四時間余り……ぼんやりと床の上に座り込んでいる。仕事に行くこと自体が、綺麗に頭から飛んでいた。これまで、休んだことなどなかったのに。それどころか、食事も取っていない。朝に、一杯の水を飲んだきりだ。
 理由はわかっている。昨夜に出会った、ペドロと名乗る怪人との遭遇だった。その時に受けた衝撃が、未だに彼の心を占領しているのだ。
 今になってみると、昨日の出来事が現実であったのかどうか……それすら、疑わしくなってくる。ペドロのような化け物じみた人間が、本当に存在していたのだろうか。
 自分は、夢でも見ていたのではないだろうか? それを、現実だと思い込んでいるのでは? そんな思いが浮かんできた。
 だが、床の上には紙切れが置かれている。電話番号の書かれた紙だ。昨夜、ペドロから手渡されたものである。つまり、あれは紛れもなく現実に起きた出来事なのだ。
 ふと、自身の首に触れてみた。ペドロに喉を掴まれた感触は、未だに残っている。怪物じみた腕力であった。郁紀は、キックボクシングのトレーニングと平行しウエイトトレーニングもやっている。筋肉質の体は八十キロを超えており、ベンチプレスは百四十キロを挙げる。彼自身、普通の人間とは比較にならない腕力の持ち主だろう。
 そんな郁紀を、片手で簡単に押さえ付けるとは──

 あいつ、何者なんだよ?

 改めて、ペドロという人間の恐ろしさを思った。百六十センチ強の体格でありながら、超人的な腕力の持ち主であった。
 さらに高い知性をも併せ持っている。どう見ても日本人ではない風貌だったが、その口から出てくるのは流暢な日本語であった。語彙も豊富で、落ち着いた語り口であった。高い知性を、聞く者に感じさせる。
 そんな男が、郁紀に向かい放った予言めいた言葉──

(この先、君がどうなるか教えてあげよう。暴力のもたらす高揚感に酔いしれた挙げ句、人を殺してしまう。その後は少年刑務所に入れられ、そこで人格が徹底的に歪んでいく。最終的に、君は犯罪者の仲間入りをして、どこかの街角で野垂れ死ぬ)

 今も、はっきり覚えている。将来、自分はそうなってしまうのだろうか。
 思い起こせば、紗耶香の事件をきっかけに郁紀は変わってしまった。世間一般の人々の持つ、まともな価値観からは完全に逸脱している。町のヤンキーやチンピラを叩きのめし、暴力のもたらす興奮に酔う日々。挙げ句に、一度は補導されたこともあった。にもかかわらず、今も同じことを繰り返している。
 このままでいい、とは思っていない。変われるものなら、変わりたい。
 だが、あの男とかかわっていいのだろうか──

 ペドロが何者で、何を生業《なりわい》としているのかはわからない。だが、ひとつ確かなのは……あの男は、本物なのだ。自分のような中途半端な存在ではない。単なる腕力の強い喧嘩自慢ではなく、裏の世界で生きている。
 もし、あの申し出を受けた場合、自分はどうなってしまうだろうか?

 どうすればいいのかわからないまま、時間が過ぎていく。今の郁紀の思考は、完全に迷路の中に入り込んでいた。

(そこに書かれている電話番号は、明日の夜九時までは通じている。その時刻を一分でも過ぎたら、繋がらなくなる仕組みだ。それ以降、君は俺と連絡をとる手段はなくなる)

 ペドロは、確かにそう言っていた。このまま時間が過ぎていき、午後九時を過ぎれば、あの男との縁は切れるのだろう。ペドロは、極悪人だが嘘はつかない。その点に関しては信用できる。なぜか、確信めいたものがあった。
 時計を見る。まだ十二時にはなっていない。あと、九時間以上は考える余裕がある。
 
(それでいいのかい? 俺との縁を切ってしまっていいのかな?)

 あの言葉は、まさに悪魔の囁きであった。電話をかけたい。その先に、何が待っているのか知りたい。
 だが、そこに行ってしまったら?



 頭の中を、様々な思いが駆け巡る。
 それに対する結論が出ないまま、テレビのスイッチを入れてみた。普段、この時間帯にテレビを観ることなどない。したがって、どんな番組が放送されているかは知らなかった。ただ何となく、スイッチを入れていたのだ。あるいは、結論の出ない問題から逃避しようとしていたのかもしれない。
 だが、郁紀はすぐに後悔する──

「もう絶対、悪いことはしません。パパとママの言うことを聞きます」

 テレビから聞こえてきたのは、女子アナウンサーの震える声だった。原稿らしきものを読んでいる。
 その横では、コメンテーターと呼ばれている連中が、神妙な面持ちで聞いていた。ひとりの女性は、涙目になっている。
 やがて女子アナウンサーが原稿を読み終えると、司会者らしき中年男がコメントを求めた。コメンテーターたちは、口々に怒りを吐き出した。

「この父親は人間じゃない! 死刑にすべきだ!」

「子供を持つ資格がないですね」

「こんな事件が起きるとは……もう、日本は終わっているのではないでしょうか」

「これこそ、現代の社会の闇なんです! 今の政権の問題点が、この事件に表れているんですよ!」

 どこかで聞いたような言葉が、スタジオの中を飛び交っていた。大して意味のない、単なる感情の発露。あの時と同じだ。紗耶香が死んだ時と、同じような光景──
 だからこそ、余計に辛かった。郁紀にとって、怒りよりも辛い気持ちの方が大きい。まるで、自分が責められているかのような錯覚を覚えていた。


 
 テレビから流れてくる情報によれば、この事件は、両親からの度重なる虐待により五歳の少女が死亡したというものであった。
 先ほど女子アナウンサーが読んでいたのは、被害者の少女が死ぬ間際に記したものだった。父親によって強制的に書かされた反省文である。その全文が、画面に映し出されていた。
 ひらがなとカタカナのみで構成された文章は、痛々しさを見る者に感じさせるものだった。

 アナウンサーらしき男が、淡々とした口調で事件の経過を語る。
 亡くなった少女の両親は二年前に離婚しており、母親は別の男と再婚する。少女は、母親と共に義理の父親の家で暮らすこととなった。
 だが、それが地獄の始まりだった。義理の父親は日常的に暴力を振るうような人間であり、殴る蹴るの暴行を加えて負傷させることが当たり前であった。食事も満足に与えず、ベランダに数時間放置することもあったという。母親は、そんな父親に逆らうことが出来ず、見て見ぬ振りをしていたのだ。
 近所の住人からは、数回に渡って通報されている。市の児童相談所も、この家の事情をある程度は把握していたのだ。現に、職員が事情を聞くため家を訪問していた。近いうちに、行政が動くことになっていたのだという。
 にもかかわらず、少女を救うことは出来なかった。最終的に少女は亡くなり、両親は保護責任者遺棄致死罪で逮捕されてしまった。
 聞けば聞くほど、あの事件にそっくりだった──

 観たくなかったし、聞きたくなかった。にもかかわらず、郁紀はテレビの画面から目を離すことが出来なかった。
 彼にとって、忌まわしき記憶が呼び覚まされる。二度と思い出したくなかったはずのもの。

(このことを誰かに言ったら、お前を必ず殺す)

 あの父親の顔が、脳裏に浮かぶ。
 さらに、暴力に屈してしまった惨めな自分も──

(全ての発端である人物、奥村雅彦氏を探しだし、君の元に連れて来る)

(奥村紗耶香さんを虐待死させた人間のクズだ。まだ刑務所に入っているかもしれないがね。もし君が、俺の申し出を受け入れてくれるなら、御褒美として奥村氏を君の前に連れて来るよ)

 昨日のペドロの言葉が、脳内に響き渡った。



 どのくらいの時間が経ったろうか。
 やがて、郁紀は携帯電話を手にした。その目は、紙切れへと向けられている。
 書かれている番号へと、電話をかけた。




 
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