悪魔の授業

板倉恭司

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出会い(2)

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「お、お前誰だ?」

 尋ねる郁紀の表情は、ひどく間の抜けたものだった。
 それも仕方ないだろう。まったく見覚えのない外国人が、自分の家で当然のごとく座り込んでいるのだから。彼は今まで、こんな体験をしたことはない。
 一方、ペドロと名乗った男は、大げさな動きで肩をすくめ、ため息を吐いてみせた。

「君は、俺の言ったことを聞いていなかったのかな。俺の名前はペドロだと、そう名乗ったはずなんだがね。ひょっとして君は、人の話を聞かないタイプの人間なのかな」

 その頃になって、ようやく郁紀の頭は働き始めた。この男は、確実にまともではない。何を考えているのかはわからないが、親しくなったところで何も得しない。それ以前に、親しくなりたくない。さっさと叩きのめし、さんざん痛め付けた後で警察に突き出すとしよう。
 目視で、お互いの距離を図る。ペドロと名乗る怪人との距離は、三メートルから四メートルほどだ。一瞬で間合いを詰め、顔面に蹴りを叩き込む。そうすれば、こいつの意識は飛ぶはず──

「やめるんだ」

 その声は、ペドロの発したものであった。
 郁紀はドキリとなった。やめるんだ、とはどういうことだ? まさか、自分の考えを読まれたとでも言うのか?
 ちらりと、ペドロの顔色を窺う。だが、先ほどと表情は変わっていなかった。怒っているようには見えない。喜んでいるようにも見えなかったが。
 その時、ペドロがにこやかな表情を浮かべた。

「ああ、忘れていたよ。すまないことをした。日本では、室内で靴を脱ぐ習慣になっていたんだよね。実に申し訳ない。何せ、日本に来るのは久しぶりなんだよ」

 言いながら、ペドロは靴を脱いだ。どこにでもある安物の靴に見える。郁紀は、呆気に取られて彼の行動を眺めていた。

「悪いが、玄関に置いてくれないかな?」

 ペドロは、ひょいと靴を放り投げる。その行動に、郁紀は反射的に動いていた。放り投げられた靴を、両手でキャッチする。
 直後に何が起きたのか、未だにはっきりと理解できていない。それくらいペドロの動きは速く自然で、かつ無駄がなかった。ふわりとした自然な動きで立ち上がったかと思うと、瞬時に間合いを詰めていた。
 肉眼で確認できたのは、そこまでだった。気がつくと、郁紀の体は壁に押し付けられていた。ペドロの右手が、喉をしっかりと掴み押さえ付けている。
 さらに左手の人差し指が、郁紀の右目に突きつけられていた──

「先ほど、君は俺の顔面に蹴りを叩き込もうとしたね。だが、そんなことをしたら君は命を落としていたよ。ちなみにね、この指を君の眼球に突き刺すと、まず目が潰れる。そこから、さらに奥に押し込んでいくと、脳にまで達するんだ。そうなると、君は死ぬ。試してみるかい?」

 ペドロの口調は、僅かに変化していた。とは言っても、部下に向かい優しく仕事の指導をする上司のような雰囲気である。チンピラの恫喝のような、こちらを威圧しようとする意図は、まるきり感じられない。
 にもかかわらず、郁紀はたとえようのない恐怖を覚えていた。この言葉は脅しでない。目の前にいるのは、やるといったらやる男だ……その事実が、直接触れ合っている喉を通じて伝わってきていた。

「もうひとつ言っておく。君と俺との殺傷能力には、差が有りすぎる。例えるなら、雑種の仔犬と成長しきったドーベルマンくらいの差だ。その事実を、理解してもらえたかな」

 ペドロの言葉に、郁紀はウンウンと頷いた。がっちりと掴まれている喉から伝わってくる腕力は、尋常なものではない。まるで、軽自動車にでも押し込まれているような感触だ。郁紀も八十キロを超える体格であり、腕力には自信がある、だが、ペドロの前では赤子同然であった。もはや、逆らう気などあろうはずがない。
 不意に、喉を掴む力が緩んだ。直後、郁紀は無様に崩れ落ちる。咳込みながら、片膝を着いて上を向いた。
 ペドロは、涼しい顔つきでこちらを見下ろしている。息は乱れていないし、顔色も変わっていない。ほんの数秒とはいえ、八十キロを超す成人男子を片手で持ち上げていたのだが、そんなことは彼にとってウォームアップにすらなっていないらしい。
 その時になって初めて気づいたのだが、この怪物じみた男は身長が高くなかった。百六十センチ強……恐らくは、百六十五センチ程度だろう。確実に、百七十センチには満たない。小柄といっても、差し支えない体格だろう。
 にもかかわらず、先ほど感じた腕力は異常であった。ゴリラと触れ合ったら、こんな感じなのではないか……郁紀は、本気でそう感じていた。

 驚愕の表情を浮かべながら、郁紀はじっとペドロの顔を見上げていた。それ以外に、何も出来なかったのだ。
 ペドロの方は、すました態度だ。落ち着き払った、静かな口調で語り出した。

「先日、君の闘いぶりを見せてもらったよ。なかなか見事なものだった」

「た、闘いぶり?」

 一瞬、何のことかわからず口ごもる。
 だが、すぐに言葉の意味を理解した。この怪人は、郁紀の公園での乱闘を見ていたのだ。
 その闘いが、ペドロの興味を惹いてしまったのだろうか?

 混乱する郁紀に向かい、ペドロは語り続ける。

「君は先日、公園で三人の若者を叩きのめした。未熟な部分は多々あるが、秘めた潜在性は充分に感じられたよ。君なら、表の世界でも高いレベルに到達できるはずだ」

 言葉から察するに、ペドロは郁紀の力を認めてくれているらしい。こんな怪物のごとき人間に褒められているという事実を、どう捉えればいいのかわからなかった。ペドロに比べれば、自分など雑魚以下のレベルなのに。
 だが、そんな戸惑いなど吹っ飛ばす言葉が飛んで来る──

「ところが、だ。君には、その気はないらしい。なぜか君は、リングの上でプロのファイターとして闘うより、路上で闘うことを選んでいるらしいね。その理由を、教えて欲しいんだ」

 その問いに対する答えは、郁紀にとって何よりつらい記憶が関係している。彼は、反射的に目を逸らした。

「べ、別に理由なんかない」

「いいや、理由があるはずだよ」

「ないよ。俺は、ああいう連中が嫌いだからブッ飛ばした。それだけだ」

 直後、背筋が凍るような感覚に襲われた。慌てて顔を上げると、ペドロの表情が変わっていた。どこがどう変わったのかは説明できないが、確実に変化している。
 同時に、二人を取り巻く空気にも変化が生じていた──

「君に、ひとつ言っておくことがある。俺はね、嘘をつかれるのが嫌いなんだ」

 言った直後、ペドロはすっとしゃがみ込んだ。先ほどと同じく、ふわりとした動きで一瞬にして移動している。
 そのまま、顔を近づけてきた──

「嘘をつかれるとね、俺は非常に不愉快な気分になる。目の前にいる人間を、殺したい衝動に駆られるんだよ。君は、死にたいのかい? 小さなプライドと引き換えに、命を落としてもいいのかい?」

 静かな口調である。先ほどまでと、なんら変わっていない。にもかかわらず、郁紀は震え出していた。ペドロの周囲に漂う空気が、はっきりと変化している。
 もしかしたら、これが殺気というものなのだろうか。 
 その時、ペドロの目の奥が光った……ような気がした。

「君、名前は?」

「や、山木郁紀、です……」

 震えながら、郁紀は声を絞り出した。ペドロの体から発している何かが、彼の体をむしばみ出した。もはや、呼吸することすら困難だ。このままでは、確実に殺される──
 直後、郁紀を混乱させることが起きる。ペドロが、にっこりと微笑んだのだ。

「郁紀くん、君はまだ若い。こんな年齢としで、死にたくはないだろう。だったら、質問に答えるんだ。君は、何のためにあんなことをしたんだい?」

 不思議なことが起きた。
 その声を聞いた途端、周囲の空気がまたしても変化したのだ。先ほどまでの威圧感が一瞬にして消え失せ、代わりに和やかなムードに包まれていく。と同時に、震えがピタリと止まった。郁紀は、思わず安堵の表情を浮かべる。
 自分は助かるのだ……何の根拠もないのに、そう確信した。直後、郁紀は憑かれたような表情で、自ら喋り始めていた。
 自身の、もっとも語りたくない思い出を。





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