ザイニンタチノマツロ

板倉恭司

文字の大きさ
上 下
30 / 41

六月八日 孝雄、心臓が破裂しそうになる

しおりを挟む
 いつの間にか、外はすっかり明るくなっていた。カーテンの隙間から射し込む光が眩しい。
 塚本孝雄は奇妙な気だるさと心地よさとを感じながら、部屋の中を見回す。こんな気分は、本当に久しぶりだ。いつもなら覚醒剤の切れ目の時には不快感しかないのだが、今は何とも言えない満足感を味わっている……。
 やがて孝雄は、部屋の隅に転がっていたペットボトルを手にした。ミネラルウォーターの入ったものだ。蓋を開け、一気に飲み干す。渇ききった体は、あっという間に水を吸収していった。

 昨日、受け取った覚醒剤は間違いなく上物だった。少なくとも、自分が今まで射っていたものとはまるで違う。打った直後の感触から、はっきりとわかった。まさに、脳天を貫くような衝撃が走ったのだ。孝雄の頭に津波のような快感が押し寄せ、次の瞬間には仰向けに倒れていた。
 混ぜ物が入っているネタの場合、こうはならない。酷い物だと、打った直後に違和感を覚える場合さえある。砂糖や塩、さらには水道水に入れるカルキなどでかさ増しされたものだ。
 さらには、薬が切れた時……体に異常なまでの不快感を残すこともある。頭痛、四肢の痺れ、吐き気、悪寒、さらには筋肉痛といったインフルエンザのような症状が現れることも珍しくない。
 だが、今回はそういった症状がないのだ。間違いなく上物である。これがグラム五千円なら、破格の値段だ。まさにお買い得である。
 そして、孝雄は自身の幸運に感謝した。あの小津が入院し、一時はどうなることかと思ったのだが……むしろ、それから運は好転している。これだけ安いネタが手に入るのだから……。
 今の孝雄の頭からは、ついこの間の不思議な出来事は消え去っていた。買った覚えの無いネクタイが、自分の部屋にあった事実。そんなものは、彼の頭からは綺麗さっぱり無くなっていたのだ。
 実際には、何の解決もしていないというのに。



 水を飲み終えた孝雄は、また覚醒剤を打とうと注射器に手を伸ばした。
 注射器の針を自らの静脈へと突き刺す。そこから、覚醒剤の水溶液を一気に注入する──
 直後に脳天を襲う、突き抜けるような快感……その口からは、あえぎ声のような音が洩れる。恍惚とした表情を浮かべ、孝雄は天井を見上げた。
 だが、次の瞬間──
 孝雄の体は、思わず跳ね上がった。愕然とした表情で、天井を見上げる。あまりの衝撃に全身が硬直し、動くことが出来なくなっていた。
 その直後、鼓動が異常なまでに早くなる。心臓が凄まじい勢いで胸を打ち始め、孝雄は思わず胸を押さえていた。

 苦しい!

 孝雄の心臓は今、異常なまでの速さで動いている。ただでさえ、覚醒剤を打ったことにより交感神経が活発になっているのだ。そんな時に、あり得ないものを見てしまった。その衝撃が彼を驚愕させ、尋常ではない状態になっていたのだ。
 孝雄は深呼吸をした。どうにか、呼吸を落ち着けようと努める。
 しばらくして、心臓が落ち着きを取り戻した。彼の若さが幸いしたのだ。このまま、突然死してもおかしくはなかっただろう。
 孝雄は胸をさすり、荒い息をつく。どうやら、ネタの純度の良さが災いしたらしい。もし粗悪なネタだったら、ここまで鼓動が跳ね上がったりはしなかったはずだ。

 いや、そんな事はどうでもいい。
 あれは何だ……。

 孝雄はもう一度、顔を上げた。天井を見上げる。そこには、赤いペンキでこう書かれていた。

「お前は人殺しだ」

 様々な考えが、孝雄の頭を駆け巡る。ただでさえ理解不能な事態なのに、覚醒剤がさらに混乱の度合いを強めた。天井に書かれた文字は、どこの何者が書いたのか?

 いったい誰だ……。
 誰が、こんなものを書きやがったんだ?

 その時、突然スマホが鳴り出す。孝雄は弾かれたように飛び上がった。見ると公衆電話からである。いったい誰だろうか。
 孝雄は、じっとスマホを凝視する。やがて切れてしまったが、メッセージを残していったらしい。
 孝雄は、そのメッセージを再生してみた。

(この人殺しが……何人殺せば、気が済むんだ?)

「俺は誰も殺してねえ!」

 喚きながら、孝雄はスマホを投げつける。
 孝雄は頭がパンクしそうになっていた。あり得ないような妄想が、頭に浮かんでは消えていく。覚醒剤が効いているせいで、思考が止まらないのだ。
 そう、覚醒剤が効いている時、人間の想像力は異常なまでに高まる。常人にはあり得ないような思考や発想が出来るのも、確かな話なのだ。
 しかし、その発想があり得ないような結論を導き出すこともある。
 たとえば覚醒剤が効いている者が外出し、通行人の何気ない視線を感じてしまった……その時、彼の頭の中では一瞬のうちに様々な思いが駆け巡る。大抵の場合、それは被害妄想へと変わるのだ。

 あいつは、俺が覚醒剤をやっているのを気づいているのではないか?
 いや、それどころか……奴は、俺の行動を監視しているのではないか?

 道行く人の視線から、そんなことを考えてしまう。挙げ句、その通行人に襲いかかって行ったりするのだ。
 また視線だけでなく、音に反応してしまうケースもある。赤の他人のひそひそ話や、ちょっとした笑い声。それらが、自分に向けられたものだと勘違いしてしまう。

(おい、あいつはポン中だぜ)

(間違いないよ。ポン中のくせに出歩いてやがる)

(死ねよポン中が)

 他人の何気ないひそひそ話が、こんな言葉に聞こえてくる。結果、無関係の人間を怒鳴りつけるもある。酷い時には、通り魔と化して通行人すべてを殺そうと襲いかかることもあるのだ。
 まして、今の孝雄の部屋はあまりにも異様な状態だった。何者かが、天井に落書きをしている……普通の人間が相手でも、怯えさせるには充分だ。
 そして、覚醒剤により高ぶった感情が激発的な怒りを生み出し、孝雄の頭の中を駆け巡る。

 どこの誰だ?
 誰がこんな事をしやがったんだ?。
 殺す!
 こんなふざけた真似をしやがった奴は、必ず殺してやる!

 孝雄は血走った目で、辺りを見回す。どこかで、自分を見張っている何者かがいるのだ。部屋にある物を片っ端からひっくり返し、ベッドの下を見る。彼は部屋の中を、隅から隅まで探した。
 その作業は、覚醒剤の効き目が無くなるまで終わらなかった。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話

赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

処理中です...