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第26話 レジーナとノア2
しおりを挟むその華奢な背中を見送ってトリミング室へ戻ったレジーナは、「あれ?」と首を傾げた。というのも。
「アルヴィン君、毛の後片付けをもうしてくれたの?」
あれだけ床に散らばっていた黒豹の黒い毛が、綺麗さっぱり無くなっている。大量にカットしたので後片付けが大変そうだなあと思っていたのだが。
けれど、アルヴィンは「いや、違う」と否定した。そして予想外のことを言った。
「精霊の毛は抜け落ちると勝手に消えるんだよ」
「ええっ!?」
なんだそれ。一体どんな仕組みだ。毛がすぐに乾くことといい、精霊とは本当に不思議な生き物だとつくづく思う。
とはいえ、洗い場の掃除はしなくてはならないので、レジーナはブラシで水に濡れている洗い場をごしごしと擦りつつ、
「……ねえ、アルヴィン君」
「ん? なんだ」
「アルヴィン君は誰かと離れたいって思ったことある?」
と、訊ねると、アルヴィンは不思議そうな顔をしながらも答えた。
「離れたい? それなら、義兄姉や父の側近からは離れたいと思っているが」
「うーん、嫌な相手からじゃなくて。多分、普通に好きな相手からっていうか」
「誰の話をしているのか分からないが、それなら単純な話だと思うが」
アルヴィンのあっさりとした返答にレジーナは驚いた。
「え? だって、好きな相手からだよ? 一緒にいたいと思うのが普通なんじゃ……」
「確かにそれが普通かもしれないな。だが、人間の感情というのは複雑だ。たとえ好きな相手でも一緒にいるのがつらかったり、苦しかったりしたら、離れたいと思うものだろう。といっても、俺には経験がないから推測でしかないが」
「一緒にいるのがつらい……?」
ノアはニールの傍にいるのがつらい、もしくは苦しい……のだろうか。それは何故だ。だって、あんなにも仲がよさそうなのに。
「それって、たとえばどういう理由で?」
「コンプレックスを刺激されるからだとか、好きな異性を奪われたからだとか、色々あるだろう。誰しもなにかしら事情がある。誰かを気にかけるのは結構なことだが、そっとしてやるのも優しさだと思うぞ」
「……そう、だね」
レジーナとて、ノアの心にずかずかと土足で足を踏み入れるような真似はしたくない。けれども、何かに悩んでいるのなら、力になりたいとも思う。
「ありがとう、アルヴィン君。話を聞いてくれて」
「話ならいくらでも聞く。同期のよしみだ。……さて、トリミングも終わったことだし、俺は碧風隊の事務室に戻る。じゃあな」
「うん。またね」
トリミング室を出て行くアルヴィンを見送り、レジーナはぱぱっと後片付けを終わらせて、八虹隊事務室に戻った。ダグラスに仕事が終わったことを報告するためだ。
「ダグラスさん、シトリーのトリミングは終わりました」
「ありがとう、お疲れ様~。じゃあ、今日はもう営所に戻って休んでいいよ」
「え? でも……」
「初めての精霊のトリミングで疲れたでしょ。シトリーは大きいし」
レジーナは戸惑って、つい後方にいるクリフを見やった。話を聞いていたクリフは優しく笑って促す。
「ダグラス隊長の言う通り、疲れているはずですよ。今日はゆっくり休みなさい」
「……ええと、じゃあ、お言葉に甘えて失礼します」
今は精霊をトリミングできたという高揚感から疲労は感じないが、確かにほぼ一日がかりであれだけ大きな獣のトリミングしたのだから、疲れていてもおかしくない。明日も仕事なので支障が出ては困る。そう思い、レジーナは素直に言うことを聞くことにした。
そうして営所の女子部屋に戻ったレジーナは、部屋着に着替えて二段寝台の上段に寝そべった。まだ大浴場は女子が入れる時間帯ではないので、
(今日のトリミングは楽しかったなあ……上手くできてよかった)
黒豹のトリミングに成功した達成感に浸るレジーナだったが。
(……あれ? なんか、瞼が重い……)
どうやらクリフ達の言う通りだったようだ。うとうとしてきて、レジーナはあっという間に睡魔に飲み込まれた。
次に気付いた時には部屋は真っ暗だった。下段の寝台でチェルシーがすやすやと寝息を立てている音が聞こえる。
(私、あのまま寝落ちしちゃったんだ! それももう深夜だ……)
時計を見ると、日付が変わっている。このまま二度寝すべきかとも思ったが――。
(お風呂に入りたい……)
暑くて汗を掻いているからというのもあるが、何よりお風呂に入って黒豹をトリミングした時の疲れを癒したい。
営所の大浴場というのは一つしかなく、女子が入る時間帯と男子が入る時間帯とに分かれている。しかし、だからといってそれ以外の時間帯に入浴することを禁止されているわけではない。ただ、異性と鉢合わせしても責任は取れませんよ、という感じだ。
(こんな夜遅くなら、誰もいないよね)
今、彩七隊は戻って来ていないため、営所にいるのは八虹隊だけ。おそらく、男性陣はみんなとっくに入浴を済ませているだろう。
そう思って、レジーナはチェルシーを起こさぬようにそっと梯子を下りた。ランタンを持ち出し、入浴セットを持って部屋を出る。そして、大浴場へ向かった。
脱衣室で服を脱ぎ、結んでいた髪もほどいて、浴室へ足を踏み入れる。さすがにランタンを持ち込むことはできないので、薄暗い中をレジーナは滑らぬよう慎重に歩いた。
そうして湯船に辿り着いた時だった。
(ん? 誰か人影が見える、ような……)
じっと目を凝らすと、人影はちょうど湯船から立ち上がったところだった。胸に膨らみがあることから女性だと分かって、レジーナはほっと胸を撫で下ろす、が。
いや、待てよと思う。八虹隊紅一点であるチェルシーは女子部屋で寝ている。では、一体あの女性は誰だ。
(ま、まさか、幽霊とか!?)
入浴する幽霊なんて聞いたことがないが、ともかく正体を確かめるべくレジーナは湯船に近付いた。すると、女性はその足音でようやくレジーナの存在に気が付いたようで、こちらを振り向く。
その、顔は。
「え? ノアさん?」
「レジーナ?」
そう、正体はノアだった。
そのことにレジーナは拍子抜けしたが、新たな疑問が生まれた。
(あれ? でも、なんで胸が……)
ついノアの胸の膨らみを見つめていると、ノアははっとした顔になって両腕で胸元を隠し、「うわっ!」と再び湯船の中に体を沈めた。といっても、湯は透き通っているので胸元はともかく、女子らしくくびれのある下半身が隠し切れていない。
レジーナはぽかんとした。
「ノアさん……女の子、だったの?」
「………」
答えないノアの隣に、レジーナも湯に浸かりながら座る。ノアが女の子。まあ、顔だけ見たらむしろ女子としか思えないのだが、女性騎士が許されている中であえて男装しているという発想がなく、極度の女顔の男の子と思い込んでいた。
しばらく沈黙するノアだったが、やがて切羽詰まったように、ぱあんと両手を合わせてお願いするポーズをとった。
「お願い! このことは誰にも言わないで!」
「そりゃあ、言いふらしたりはしないけど……どうして男装してるの?」
「………」
ノアはまたも押し黙った後、ほどなくしてぽつぽつと語り出した。
「僕が一人っ子なのは知ってるよね? それは僕の母上が僕を産むのと引き換えに亡くなったからなんだ。父上は本当に母上のことを愛していて、後妻を娶ろうという気持ちは一切なかったんだって」
「それがどうして男装することになるの?」
「分からない? この国では家督は男しか継げないんだよ? 僕を男ということにしないと、ウチの跡取りがいなくなって潰れちゃう。だからだよ」
「婿をもらえばいい話じゃ……」
「確かにそうすればウチは潰れないね。でも、家督は夫婦の共有財産にならないから、仮に僕が結婚して夫に家を継いでもらっても、離婚したら僕には一切の財産が残らずに路頭に迷うことになる。それを危惧して父上は僕を男ってことにして出生届を出したんだよ」
「あ、なるほど」
ようやく、ノアが男装している理由を理解したレジーナだ。ノアの父はクロネリー地方伯爵家の跡取りを欲していたのもあるだろうが、一番の理由はノアの将来を慮っての決断だったのか。
でも、と思う。
「それ、ノアさんが家を継いでも、今度はノアさんが跡取りに困らない?」
男として家を継ぐのであれば、結婚相手は自然と女性になる。しかし、ノアは本当は女の子だ。女同士で子供を設けることはできない。
「大丈夫だよ。養子をもらえばいいから。結婚するつもりもないしね」
「そっか……」
「まあとにかく、そういうことだから。僕とレジーナだけの秘密にしてね」
そう言って湯船から上がろうとしたノアを、レジーナは咄嗟に呼び止めていた。
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