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夏の海
しおりを挟むある八月の蒸し暑い夜、私達は海に来た。
辺りを覆う暗闇の中、ぽつりぽつりと点在する灯りに、羽虫達は音を立ててぶつかり続けている。
生温い風に潮の香りを乗せると、海は穏やかでありながら、力強い唸りを上げて、浜辺にその白波の腕を這わせていた。
私達は、道路から砂浜に降りる為に敷かれた、二三段の小さなコンクリート製の階段にそっと腰を下ろした。ふと背後に目をやると、遠くの暗闇の中に、錆び付いて所々塗料の落ちた古い自動販売機が、ぼんやりと孤独を放っているのが見える。
私がポケットから草臥れたホープの箱を取り出すと、貴方は待ち侘びていたかの様にこちらを見つめた。
一本を差し出すと、貴方はそっと口角を上げて受け取り、薄く開いた唇に、それをするりと滑り込ませた。その様子を見届け終えた私も、再び煙草の箱へと指先を忍ばせ、細い指に挟んだ一本の円筒を、自らの唇へと静かに運んだ。
古びた、無垢の真鍮で出来たジッポライターが、小気味良い金属音を鳴らす。
微かな光が私たちの周囲だけを小さく照らし、揺らめく炎が咥えた紙製の筒の先端に、その温度を分け与えると、貴方は伏目がちにその様子を眺めていた。
暖かい光に照らされているその姿は余りに美麗で、私は時を忘れる程に目を奪われていた。
名残惜しくも、私がその色付いた世界にカチリと蓋をすると、辺りは一瞬でモノクロに戻り、残されたのは淡く輝く煙草の朱い光だけだった。
目の前には真っ黒な海が一面に広がっている。
表面には歪な月がゆらゆらと滲んでいるが、その白銀に刺す光はあまりに弱々しく、自らの姿を水面に写すにも心許なかった。
私はその姿を、頬杖をつきながら見つめると、ゆっくりと汚れた肺に溜め込んだ「希望」を深く吐き出した。
私と貴方。歪んだ月と黒い水面。忌々しい潮風と波の音。この瞬間、世界はそれだけで出来ていて、とても穏やかだった。
「そろそろ、いこうか。」
哀しみを纏いながらも芯のある声が、波音を掻き分け夜空を走ると、貴方は軽く煙草を揉み消し、真っ直ぐに前を向いたまま立ち上がって、そっと私に手を差し伸べた。
貴方の声で現実に引き戻された私は、最後の一口を強く肺に押し込むと、貴方の横顔を見上げながら手を握った。
貴方の温もりをしっかりと握りしめたまま、私も煙草を揉み消すと、コンクリートに積もった砂を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がる。
互いに顔を見合わせ、二人は自然と口元を緩めた。
「愛してる」
「私も」
言葉が波音に呑まれる様に消えて行くと、二人は手を繋いだまま滲んだ月を見つめ、ゆっくり前へ歩みを進めた。
砂浜を歩み行く二人の影の中、残された煙草から上っていた二本のか細い煙は、儚く、波折りに溶けて消えた。
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