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14話 湯気と美女と自制心

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 視界を白く染める湯気。
 その湯気に乗ってふわりと香る石鹸の香り。
 静かに息を吸い込めば暖かな空気が肺に広がっていくが、そこにいつもの安らぎはない。

 なんでかって?
 だって今俺、お風呂場で銀髪の美女に背中を流されているんだもん。こんなシチュエーションありえますか?ありえませんよね!

 彼女の性格や言動、そして、こうなった経緯は周知の事実だから割愛するけど、ターと名乗ったこの女性。一般的に考えれば美人の領域に入ると思う。
 そんな美人にお風呂で背中を流してもらっているこの状況で、平然としていられる男など絶対にこの世にはいないはずだ。
 俺はそう断言するぞ。

 少し曇った鏡越しに彼女の顔が映る。
 長い髪をまとめ上げ、袖を肩まで捲る事で露わになった頸と二の腕。その色っぽさにドキッとしてしまう。
 さらに肌を滴る水が合わされば、その効果は絶大だ。色香とはよく言ったものだが、本当に彼女の色気が香ってくるかの様な感覚にくらくらする。
 そんなものを感じたのはこれが初めてかもしれない。
 そして……


「どう?かゆいところはない?」


 優しくも程よい強さで、シャコシャコと背中を擦る音とともに響く彼女の声が、耳を包み込むように撫でていく。それに体を洗う布越しに感じる彼女の存在感には、俺の息子さんもやばい事になっている訳で……
 これは絶対にバレるわけにはいかない。


「な……ないよ!」


 焦り、動揺、そして、その中にある小さな喜び。

―――本当にこれはいったい何の冗談なのだろうか。

 タオル一枚腰に巻き、銀髪の美女に風呂場で背中を流してもらっているこの状況が、やはり俺には理解できなかった。


「よし。背中はいいわね。前はどうする?」

「は……!?じ……自分でやる!自分で!!」


 突然、何を言い出すのかと彼女の言葉を疑い、彼女から布を奪い取ると俺は自分で体を洗い始める。

 前はダメだろ!前は!絶対にダメだろうが!
 そう焦りを隠す様にゴシゴシと体を擦っていると、彼女は後ろで何かを悩んでいる様だ。


「そう。じゃあ、どうしようかな。……あ、それなら、今度は頭を洗ってあげましょう。」

「い……いや、頭も自分でやるって!」

「いいじゃない。体を洗っている間に頭もマッサージしてあげるから。」


 半ば強引に頭に石鹸をつけ始める彼女。
 体を洗っていた俺は抵抗する事ができず、そのまま言われる通りに頭を洗われ始めた。

 しばしの沈黙。
 彼女がわしゃわしゃと俺の頭を洗う音だけが浴室の中で響いている。
 そんな中、俺は彼女へ問いかける。


「なぁ……何でここに住みたかったんだ?」


 やっぱりこの疑問だけは解消しておきたい。どんな理由でもいい。嘘でもいいからここに住むと決めた理由を聞いておかないと、俺が前に進めそうにない。美人と一つ屋根の下なんて、理由もわからないまま実践できる事じゃないと感じたのだ。

 だが、その問いかけに答えご返って来る事はなく、俺は小さくため息をついた。
 こんな特別な状況なんだ。ある意味、少しは心を許してくれていると思ったっていいじゃないか。だから、話してくれるのでは……そうどこかで期待していた分、落胆は大きかった。

 頭を洗う手が自然と止まって、俺は介錯された罪人の様に大きく首を垂れる。
 とその瞬間……


「ひゃっ……」


 叫びとまではいかないが、何かに驚いた様な声と同時に、どこからともなく吹いてきた風が頭の上を通り抜けた気がした。そして、遅れてやってきた石鹸の香りと彼女の香りが同時に鼻を撫でる。


「ん……?どうかした?」

「い……いえ……何でもないわ。」


 頭を洗ってもらっていた手前、目は瞑ったまま振り返って尋ねると、彼女は冷静を装う様にそう言葉を濁す。
 どうやら驚いた事は間違いない様だけど、早く石鹸を流さないと状況が把握できないので、俺は桶に汲まれたお湯で一気に頭を洗い流した。


「大丈夫か?」


 頭に被ったお湯を払いながら改めて尋ねると、彼女はある場所を指差してこう告げる。


「小鳥が……窓から迷い込んできたの。」


 見れば、風呂場に一つだけ備え付けられた窓が開いていた。彼女が言うには、湯気を挟んで星空が窺えるその小さな窓から、鳥が迷い込んで来たので驚いてしまった……という事らしい。


「珍しい事もあるんだな。一人の時はそんな事一度もなかったよ。」

「そ……そう。」


 彼女はどこか挙動不審で、俺と目を合わせることはない。そんなに驚く事かと疑問に思いつつ、一通り洗い終えたので彼女にはさっさと退散してもらう事にした。


「ほら!もう終わったからありがとう!あとは一人にさせてくれ!」

「あ……で……でも……」


 どこか心残りがある様な……やり残した事がある様な彼女の態度にも配慮する事はなく、俺は彼女を無理矢理押し出してドアを閉めた。


「ふぅ……まじで冗談きついな。」


 確かに夢みたいな時間だったけど、普通に考えたらあり得ない。大きくため息をついた後、湯船から桶でお湯を掬い改めて体を流すと、湯船へと全身を預ける様に倒れ込んだ。

 結局、また理由が聞けなかった。
 でも、やっぱりそれははっきりさせておきたい……いや、そうするべきなのだ。
 なぜここに住みたいのか、彼女の口から言わせなければ。
 ドア越しに脱衣所内の気配を窺うが、すでに彼女はいない様だ。ちゃんと諦めてリビングへと戻ったのだろう。


「風呂から出たらちゃんと理由を聞こう。言わないのなら、やっぱり出ていってもらう。」


 俺はそう決意を固めると、ぶくぶくとお湯の中に頭を沈めていった。
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