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秘密

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季節はまた移ろい、夏が終わろうとしていた。見世物小屋の旅に終わりはない。北の街で公演をしていたべっ甲座は南へと進路を変えると、元来た場所をまた辿るようにして移動を続けるのだ。秋は多くの神社で祭りが催される。境内を間借りして見世物を行う一座にとっては、かきいれ時とも言える季節であった。

「次の街は……高崎か」
帳簿を付ける柘榴の隣で、金花は煙管を咥えながら街の地図を広げていた。彼に呼ばれた千歳は何をするでもなくその傍らに座り、時折髪や頬を撫でられるのをされるがままにしている。これはあの男の癖であった。まるで愛玩動物だ、と初めは困惑したものだが、今では痛めつけられるよりは良いとさえ思うようになっていた。
「そうね。この間の評判が良かったらしいけど。どうしたのよ、もしかして気乗りしないの?まだあの軍人のことを気にしてるんじゃないでしょうね」
「まさか。呼ばれた場所に行くのが俺たちだ。それに……あれがいるなら、むしろ都合が良い」
不敵に笑うと、金花は煙を吐き出した。煙草の匂いが部屋に満ちる。彼は暫く何か考える素振りをした後、行ってくる、と言い残すとテントを出ていった。このような時は大抵、あの「依頼」をする者の元へ向かっているのだ。金花の姿が見えなくなると、柘榴は溜息混じりにぼやいた。
「あれは碌なことを考えていない時の顔ね。あなたもそう思うでしょ?」
「……そうだな」
「まあ稼いでくれるんならあたしとしては構わないんだけど。それより、千歳、あなた最近少しやつれたんじゃないかしら。心当たりは?」
「特に……ない、けど」
咄嗟に答えながら、それは嘘だ、と千歳は思った。近頃あまり食欲がない。無論思い当たる節もある──金花からの度重なる暴力的な愛撫が、肉体を擦り減らしているのだ。彼は自らに言い聞かせるかのように、殺さない、と言うのだが、それは生死の際を彷徨うようなもので、死が迫るのを感じた経験も一度ではなかった。
「……そう。あなたがそう言うならそうなんでしょうね」
近くに置かれていた風呂敷の包みを広げると、柘榴はその中身を千歳に向かってひょいと投げる。受け取った彼の手の中にあったのは、赤く艶のある食べ頃の林檎であった。
「食べなさい。裏方が働けなくなったら困るわ」
「良いのか。果物なんて高いだろ」
「八百屋の若いのがおまけしてくれたの。あたしの顔もこういう時には役に立つのよ」
柘榴はそう言うと得意げに笑ってみせる。きっと子供たちのために買ったものなのだろうと考えると気が引けたが、ここは彼女の厚意に預かることとした。しゃり、と歯を立てると蜜が溢れ出す。これなら少しは食べられそうだ。林檎を齧りながら、千歳は自らの痩せた腕に目をやる。きっと今の自分は健全ではないのだろう──それでも金花の求めを断れないのは、殺される恐怖よりも、むしろ彼のくれた新たな居場所への惜しさが勝るからであった。裏方としても、金花の番としても、べっ甲座での自分は元の家に居た時より必要とされている。金花は千歳のことを家族と呼んで憚らないし、一座の皆も彼のことを除け者にするようなことはなかった。痛みには慣れないが、情事の最中に名前を呼ぶ男の恍惚とした表情を見ていると、自分の奥底にあったどこか後暗い欲が満たされるのだ。郷愁さえも、その行為を重ねる度に遠のいてゆくのだった。


次の街に移動をしてからというもの、金花は夜中に寝床を抜け出すことが多くなった。千歳はその気配に気付いてこそいたが、特段彼に問い質すことはしなかった。凡そ落雁についてであろうと予測はつく。彼自身、嫌なことを思い出してしまうので、あの軍人のことには可能な限り触れたくなかったのだ。そうして何日目かの晩を過ぎた頃、満月の出た夜の半ば、千歳は偶然にも目を覚ました。

それは虫の知らせのようなものだったのかもしれない。どうしても再び寝付くことが出来ずに布団の上でぼんやりとしていると、衝立の向こうに人影が見える。帰ってきたのか、と思って見ていると、その影は妙にふらふらと揺れた後、どさりと重い衣擦れの音がした。彼は自らの腹を庇うように押さえていた。千歳の目の前で膝をついた男は、眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべているのだった。
「金花!どうしたんだ、あんた、どこか悪いのか」
「……軍人だ」
「軍人……落雁に、やられたのか?」
「やっと殺したよ。でも往生際の悪い奴でな。一発食らった」
金花は精一杯の強がりのように口角を上げて笑った。千歳が駆け寄ってその肩を支えると、その拍子に破れた着物の切れ端が覗く。どうやら刀傷ではなさそうだ。それは銃弾が腹を掠めた傷のようだった。裂けた皮膚からまだ生温かい血が滲み出して、金花の掌を汚している。急拵えで止血を試みたようだが、あまり効果があったものとは思えなかった。
「酷い怪我じゃないか!早く、手当を……このままじゃ、お前も死んじまう」
この小屋にあるのは精々包帯くらいのもので、自分に出来ることはたかが知れている。まずは医者を呼ばなければ。立ち上がろうとする千歳のことを、金花は着物の裾を掴んで止めた。
「嫌だ。千歳、行かないでくれ」
「おい、そんなこと言ったって……」
「このまま死ぬんなら、お前の隣が良い。ここに居てくれ。頼むから」
それは今にも泣き出しそうな、駄々をこねる幼子の如き声をしていた。千歳が狼狽えた丁度その時、ばたばたと足音がして、騒ぎを聞きつけた柘榴が襦袢姿で駆け付ける。月明かりに照らされた二人の姿と床に落ちる赤い雫に全てを悟った彼女は、その辺にあった羽織を纏うと手早く指示を飛ばした。
「ああもう、そんな、何てこと……闇医者を呼んでくるわ!千歳はそこで様子を見ていて。金花、あたしが戻るまで死ぬんじゃないわよ!」
柘榴は下ろしたままの髪が乱れるのも構わず、テントの外に走ってゆく。果たして間に合うだろうか。今はとにかく神に仏に祈るしかない──千歳は俯くと、仰向けに横たわった金花の手をそっと握る。触れた彼の手が心做しか常よりも冷たいように思えるのが、無性に不安で堪らなかった。

「……千歳。俺の話を、聞いてくれるか」
夜半の部屋に再び訪れた沈黙を破ったのは、金花の方であった。千歳は彼の手を握ったまま答える。焦燥のせいか、自分の掌ばかりが僅かに汗ばんでいた。
「良いけど。あんまり喋ると傷口が開くぞ」
「何も言えずに死ぬより良い。俺は一つ、お前に嘘を吐いていたことがあるんだ」
「……嘘?」
「俺の親父……実の父親は失踪したんじゃない。俺が、殺したんだ」
「……」
正直なところ、それほどの驚きはなかった。殺しを生業としている彼のことだから、肉親をも手に掛けていたところで不思議ではない。しかしこれまで隠してきたということは、金花にとって恐らく重大な事柄なのであろう。何と答えるべきか分からず千歳が黙っていると、彼はさらに言葉を続けた。
「暗くて汚い小屋の隅で、あの親父がお袋のことを滅茶苦茶に抱いている。何をしているかなんて解らなかったが、嫌なものを見た気がした。それが俺の、物心付いてから初めの記憶だ。お袋は綺麗な顔だったがいつもどこかしらを怪我していた。まぐわう最中にあれが殴っていたんだ。ある日起きたら、隣で寝ていた筈のお袋がいない。あの野郎が一言、お前の母さんは死んだ、ってな」
「それは、まさか……」
「確たる証拠はないが、あれが勢い余って殺したんだろう。死に顔すら見せて貰えなかったからな。俺はその時あれを殺そうと、いや、殺さなきゃならないと思った。お袋が死んでから殴られるのは専ら俺だった。失敗すれば殴られるから、芸は人一倍練習した。興行で知り合った極道の連中にも顔を売った。そうして全ての準備が整った日、俺は酒に酔った親父を刺し殺した。死体は焼いた。お袋の無念を晴らしたんだ」
やけに饒舌な金花はそこで言葉を切ると、満足そうに笑う。話し声で起きたらしい子供が衝立の間からちらりと顔を覗かせたが、二人の姿を見るとすぐにまた隠れてしまった。
「……そうか。俺があんたに言えることは何も無いが、そんなことがあったんだな」
「聞いてくれただけで十分だ。今まで誰にも話したことはない。今の親父……極道のあの人にだけは、お前がやったんだな、と言われたが、それ以上は聞かれなかった。大事な人を見つけたら全部話そうと思っていた」
「俺も、あんたの話を聞けて良かった。少しだけ、あんたのことが分かった気がする」
千歳は漸く金花の言葉の意味を理解し始めていた。彼の中に澱む父親への憎しみと、母親への憧憬──それは英文学の講義で読んだ、古代の神話を彷彿とさせる。自分が家で感じていたよりも遥かに壮絶な蟠りを、彼は今まで抱えて生きてきたのだ。この男のことを知らなければならない、と思い続けてきたが、これで少しは真実に触れることが出来たのだろうか。
「……きっとあと少しだからな。死ぬなよ。金花」
強く手を握った。握り返す力がまだ残っていることに、千歳は安堵の息を吐く。どんな仕打ちを受けても、今はこの男の傍にいたいと思った。テントの隙間から見える月は、夜更けに向かって傾き始めていた。
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