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最初の晩
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見世物小屋のテントにも、やがて消灯の時間が訪れる。
千歳の寝床は柘榴が用意してくれた。彼女に生活の細々としたことを教わった彼は、言われた通りに服を着替える。着ていた袴を脱ぐと、身体がまるで脱皮したての虫のように脆く思えてどうにも心細くなった。男物の服は殆ど置いていないらしく、金花の持ち物を一先ずは借りた。自分では確実に選ばないような派手な柄の浴衣だ。鏡台に映る自らの姿は、服に着られているようでどうにも可笑しかった。
「皆、もう寝る時間よ。床に就きなさい」
「はあい。お休みなさい!」
柘榴の声を合図に、天井に吊るされた灯りが消される。
暗闇の中で初めは子供たちのひそひそと囁く声がしたが、数分も経たぬうちに小さないびきが聞こえるようになった。子供というのは順応が早いものだ。一方の千歳はといえば、なかなか寝付くことが出来ず布団の上を輾転反側するのだった。テントの隙間から吹いてくる風が冷たい。急拵えであるから仕方がないとはいえ、家のそれよりも薄い布団と枕は正直なところ快適とは呼べなかった。こういう夜には余計なことばかり考えてしまうものである。昔の嫌な思い出が蘇ってきて、恥ずかしさと後悔が込み上げてくる。小学校で仲間外れにされ孤独に過ごしたこと、武道の時間に弱虫と笑い者にされたこと、士官学校に落ちたこと。それから思考は過去から未来へと次第に流れてゆき、溢れるのはどうしようもない不安である。
──自分はこれから、どうなってしまうのだろう。
選択肢がなかったとはいえ、あの男の手を取ったことは果たして正しかったのだろうか。この見世物小屋の中で明らかに自分の存在は異質である。上手くやっていける自信など初めからない。今までの生活が充実していた訳ではないが、今までよりも良い生活が待っているという保証だってどこにも存在しない。それにここでは、一歩間違えば、自分の命だって危ういのだから。
「はあ……」
千歳は暗い天井を見上げると、何度目か分からない溜息を吐く。ぼんやりと肺を満たす憂鬱を噛み締めていた彼は、傍らの衝立の布がかさと揺れたことに気が付かなかった。
「千歳。眠れないのか?」
「うわっ……なんだ、金花か。驚いた」
思わず大きな声を出しそうになった。千歳は飛び起きると、突然の侵入者の顔を見上げる。仕切りの布を捲って現れたのは金花だった。彼の金色の瞳は、暗闇の中でも僅かな光を反射して煌めいていた。
「ここは入口が近いから寒いだろう。俺のところに来ないか?二人で寝た方が暖かいぞ」
金花がそっと腕を引いてくる。その言葉の意味を瞬時に察すると同時に、千歳は自らの手を引っ込めそうになった。彼が言っているのは部屋に布団を二つ並べるということではない。つまり、その先は──考えたくもなかった。嫌な想像が駆け巡る。千歳は身を強ばらせた。
「二人で、って……あんた、何する気だ」
「はは、そんな顔するなよ。取って食ったりしないさ。俺も丁度、目が冴えて寝付けなかったんだ」
「でも……」
「良いだろ?おいで、千歳」
くらりとした。囁いてくる金花の声が、表情が、抗えない何かを孕んでいたのだ。これはきっと夢だ、まぼろしだ。自分は寝惚けているのだ。だから、何が起きたとしても仕方がない。自分にそう言い聞かせることにして、千歳は手を引かれるまま金花の寝床に向かった。
金花の寝床は煙草の匂いが染み付いていた。枕の傍には木製の煙草盆が置いてあり、吸いさしの煙管が細い煙を立ち昇らせている。腰に提げていた煙管だろう。手招きされた千歳は布団におずおずと入ると、端の方で小さく身を縮める。どこに視線を落ち着けたら良いかも分からないので、とりあえず金花に背を向けて寝転がった。確かにこの位置であれば隙間風は入ってこない。布団の中は、彼の体温でぬるくなっていた。
「なあ、こっちを向いてくれよ。お前の顔が見たい」
肩を叩かれて寝返りを打つ。目と鼻の先、すぐそこに金花がこちらを向いて横たわっている。改めて近くで眺めた金花の顔は、暗がりの中でも分かる程に端正な作りをしていた。茶色の柔らかな髪、鼻筋の通った横顔、細身だが骨ばった手。自分には無いものばかりで、男からしても綺麗に思える。どこか異国の血でも混じっているのかもしれない。番う相手には困らないであろうこの男が何故よりにもよって自分のことを気に入ったのか、千歳には見当も付かなかった。
「うん。思った通りだ。千歳、やっぱりお前は可愛い。俺の好みだ」
伸ばされた手が千歳の頬を撫でる。金花は上機嫌なようだった。その感触にぞわりとして、彼は思わず布団の端を握りしめた。愈々覚悟を決めなくてはならないのだろうか。千歳は意を決して目の前の男に問うてみる。
「……抱くのか。俺のこと」
「いいや、今晩はこうしているだけで十分。抱きたくないと言えば嘘になるがな。もう少しだけ、近くに来てくれるか?」
「これで、良いのか」
傍に寄ると、金花は満足そうに笑って千歳のことを抱きしめる。言葉通り、彼がそれ以上をすることはなかった。誰かと共寝をするのは遊郭へ行った時以来だ。興味本位で女を抱いてみたものの大して気持ち良くもなく、布団の上で空しさだけが残った記憶がある。その時と比べると、男と同衾するなんて本意ではないというのに、不思議と空しさは感じないのだった。
「はは、凄い、二人だとこんなに暖かいんだな!なんだか安心するよ。うんと小さい頃にお袋が死んでから……寝る時はずっと一人だったから。人の身体が暖かいってことも忘れていた」
「そうだな……俺もこんなのは久し振りだ。男と同じ布団で寝るなんて初めてだけどな」
「なんだ、そちらの経験は無いのか。それじゃあお前が慣れるまでは暫くこうしようか」
「折角布団まで用意してもらった意味が無いだろ……まあ良い。あんたがそうしたいなら、好きにしてくれ」
自分を抱きしめている金花の表情は分からなかった。しかしその声音がはしゃぐ子供のように心做しか弾んでいたので、とりあえず今晩はこのまま過ごそうと千歳は腹を括ったのだった。
──結局、この男のことは何もかも分からないままだ。
何を考えているのか、何故自分に惚れたのか、何故人を殺めていたのか。今晩のところは仕方がない。また明日から、知る努力をすれば良い。焦りは禁物だ。見世物小屋での生活は、まだ始まったばかりなのだから。
千歳は金花の背中へ腕を回すと、静かに瞳を閉じた。お休み、と囁く声が聞こえた気がした。
千歳の寝床は柘榴が用意してくれた。彼女に生活の細々としたことを教わった彼は、言われた通りに服を着替える。着ていた袴を脱ぐと、身体がまるで脱皮したての虫のように脆く思えてどうにも心細くなった。男物の服は殆ど置いていないらしく、金花の持ち物を一先ずは借りた。自分では確実に選ばないような派手な柄の浴衣だ。鏡台に映る自らの姿は、服に着られているようでどうにも可笑しかった。
「皆、もう寝る時間よ。床に就きなさい」
「はあい。お休みなさい!」
柘榴の声を合図に、天井に吊るされた灯りが消される。
暗闇の中で初めは子供たちのひそひそと囁く声がしたが、数分も経たぬうちに小さないびきが聞こえるようになった。子供というのは順応が早いものだ。一方の千歳はといえば、なかなか寝付くことが出来ず布団の上を輾転反側するのだった。テントの隙間から吹いてくる風が冷たい。急拵えであるから仕方がないとはいえ、家のそれよりも薄い布団と枕は正直なところ快適とは呼べなかった。こういう夜には余計なことばかり考えてしまうものである。昔の嫌な思い出が蘇ってきて、恥ずかしさと後悔が込み上げてくる。小学校で仲間外れにされ孤独に過ごしたこと、武道の時間に弱虫と笑い者にされたこと、士官学校に落ちたこと。それから思考は過去から未来へと次第に流れてゆき、溢れるのはどうしようもない不安である。
──自分はこれから、どうなってしまうのだろう。
選択肢がなかったとはいえ、あの男の手を取ったことは果たして正しかったのだろうか。この見世物小屋の中で明らかに自分の存在は異質である。上手くやっていける自信など初めからない。今までの生活が充実していた訳ではないが、今までよりも良い生活が待っているという保証だってどこにも存在しない。それにここでは、一歩間違えば、自分の命だって危ういのだから。
「はあ……」
千歳は暗い天井を見上げると、何度目か分からない溜息を吐く。ぼんやりと肺を満たす憂鬱を噛み締めていた彼は、傍らの衝立の布がかさと揺れたことに気が付かなかった。
「千歳。眠れないのか?」
「うわっ……なんだ、金花か。驚いた」
思わず大きな声を出しそうになった。千歳は飛び起きると、突然の侵入者の顔を見上げる。仕切りの布を捲って現れたのは金花だった。彼の金色の瞳は、暗闇の中でも僅かな光を反射して煌めいていた。
「ここは入口が近いから寒いだろう。俺のところに来ないか?二人で寝た方が暖かいぞ」
金花がそっと腕を引いてくる。その言葉の意味を瞬時に察すると同時に、千歳は自らの手を引っ込めそうになった。彼が言っているのは部屋に布団を二つ並べるということではない。つまり、その先は──考えたくもなかった。嫌な想像が駆け巡る。千歳は身を強ばらせた。
「二人で、って……あんた、何する気だ」
「はは、そんな顔するなよ。取って食ったりしないさ。俺も丁度、目が冴えて寝付けなかったんだ」
「でも……」
「良いだろ?おいで、千歳」
くらりとした。囁いてくる金花の声が、表情が、抗えない何かを孕んでいたのだ。これはきっと夢だ、まぼろしだ。自分は寝惚けているのだ。だから、何が起きたとしても仕方がない。自分にそう言い聞かせることにして、千歳は手を引かれるまま金花の寝床に向かった。
金花の寝床は煙草の匂いが染み付いていた。枕の傍には木製の煙草盆が置いてあり、吸いさしの煙管が細い煙を立ち昇らせている。腰に提げていた煙管だろう。手招きされた千歳は布団におずおずと入ると、端の方で小さく身を縮める。どこに視線を落ち着けたら良いかも分からないので、とりあえず金花に背を向けて寝転がった。確かにこの位置であれば隙間風は入ってこない。布団の中は、彼の体温でぬるくなっていた。
「なあ、こっちを向いてくれよ。お前の顔が見たい」
肩を叩かれて寝返りを打つ。目と鼻の先、すぐそこに金花がこちらを向いて横たわっている。改めて近くで眺めた金花の顔は、暗がりの中でも分かる程に端正な作りをしていた。茶色の柔らかな髪、鼻筋の通った横顔、細身だが骨ばった手。自分には無いものばかりで、男からしても綺麗に思える。どこか異国の血でも混じっているのかもしれない。番う相手には困らないであろうこの男が何故よりにもよって自分のことを気に入ったのか、千歳には見当も付かなかった。
「うん。思った通りだ。千歳、やっぱりお前は可愛い。俺の好みだ」
伸ばされた手が千歳の頬を撫でる。金花は上機嫌なようだった。その感触にぞわりとして、彼は思わず布団の端を握りしめた。愈々覚悟を決めなくてはならないのだろうか。千歳は意を決して目の前の男に問うてみる。
「……抱くのか。俺のこと」
「いいや、今晩はこうしているだけで十分。抱きたくないと言えば嘘になるがな。もう少しだけ、近くに来てくれるか?」
「これで、良いのか」
傍に寄ると、金花は満足そうに笑って千歳のことを抱きしめる。言葉通り、彼がそれ以上をすることはなかった。誰かと共寝をするのは遊郭へ行った時以来だ。興味本位で女を抱いてみたものの大して気持ち良くもなく、布団の上で空しさだけが残った記憶がある。その時と比べると、男と同衾するなんて本意ではないというのに、不思議と空しさは感じないのだった。
「はは、凄い、二人だとこんなに暖かいんだな!なんだか安心するよ。うんと小さい頃にお袋が死んでから……寝る時はずっと一人だったから。人の身体が暖かいってことも忘れていた」
「そうだな……俺もこんなのは久し振りだ。男と同じ布団で寝るなんて初めてだけどな」
「なんだ、そちらの経験は無いのか。それじゃあお前が慣れるまでは暫くこうしようか」
「折角布団まで用意してもらった意味が無いだろ……まあ良い。あんたがそうしたいなら、好きにしてくれ」
自分を抱きしめている金花の表情は分からなかった。しかしその声音がはしゃぐ子供のように心做しか弾んでいたので、とりあえず今晩はこのまま過ごそうと千歳は腹を括ったのだった。
──結局、この男のことは何もかも分からないままだ。
何を考えているのか、何故自分に惚れたのか、何故人を殺めていたのか。今晩のところは仕方がない。また明日から、知る努力をすれば良い。焦りは禁物だ。見世物小屋での生活は、まだ始まったばかりなのだから。
千歳は金花の背中へ腕を回すと、静かに瞳を閉じた。お休み、と囁く声が聞こえた気がした。
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