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朝の章

17.懺悔3

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「アンタに会いに来られて、説得か何かされたとして。それであの時の僕が聞くとでも?」

 あかりを見下ろす厳しい目。
 そこには隠しきれない怒気が揺らめいていた。

「自惚れないでよ。いきなり出てきた知らない女に何か言われて考えが変わるくらいなら、最初からあんなことしなかった」
「っ!」

 ――自惚れ。

 そう言われて初めて気がついた。
 ずっと物語を外から眺めている気でいたくせに、いつしか自分が動けば未来を変えられるなどと思い上がっていたことに。

「取り返しのつかないことをして、静やオッサンと暮らすようになったから僕は変われた。どう償えばいいのかだってめちゃくちゃ悩んで、間違って、また考えて……そうやって、やっと今ここにいるんだ。それを勝手に奪っていくな」
「いたっ」

 ぴん、と額を指で弾かれて、反射的に目を閉じる。
 じんじんと痛む場所に手を当てながらそっとまぶたを持ち上げると、深澄は呆れたような顔つきに変わっていた。

「見捨てたって何。僕はアンタに助けなんか求めてない。アンタがその道しか選べないって言うように、僕だってこの道しか選ばない。何回繰り返したって同じだ」

 だからあかりが、この罪を一緒に背負う必要はない。
 深澄は言外に、そう言ってくれている。
 嘘でも気遣いでもなく、それが深澄の中にある事実だと伝わるからこそ、あかりは彼の気持ちをそのまま受け止めて良いのだと思えた。

「そっ、か」
「そうだよ。……だいたい、こんなの静に教わった僕が、なんで静に教えたはずのアンタに言わなきゃなんないわけ? 余計な気回すの、やめてよね」

 まったく、とまたもやため息をついて、深澄がポケットからハンカチを取り出す。なんだろうと考える暇もなく、それはあかりの目元にぽんぽんとあてられた。
 その動きがあまりにもなめらかだったからか、あかりはとっさに目をつむる以外何の反応もできない。

(な、慣れてる……)

 朝永家には代々、泣いている女の子の目元は拭わなければならないという言い伝えでもあるのだろうか。
 中でも深澄が一番自然で色を感じない。小さい子にでもなった気分だ。

 あかりは迷惑そうにしながらも優しい深澄に、だんだんと胸の奥のつかえが取れていくのがわかった。

「……ありがとう。あ、でもその、私が静くんに教えたって何のこと、かな? 勉強くらいしか教えたって言えるものはないと思うんだけど」
「は? ……いや、わかってないならいいけどさ。アンタ、なんか思ってたより子どもだね」
「ええ!?」

 自分でも寸前に思っていたものの、いざ人から言われるとショックである。
 勉強しか教えていないのは本当なのに、なぜそんなやれやれとでも言いたげな表情をされなければいけないのか。

 複雑な心境のあかりに気づかず、ハンカチをしまって席に座った深澄が悪気のない様子で続ける。

「でもまあ、そうか。アンタ普通の高校生なんだっけ」
「……え、私普通じゃないと思われてたの……?」
「いや、だってあの普通じゃない静を骨抜きにするような人だよ。何もかも完璧なのかと思うじゃん」

 頭の中で、詠史の「そらもうすごい子なんだろうなーと思うだろ」が再生された。この二人、やはり発想が似ている。
 残念ながら深澄からは期待以下だと評価されてしまったあかりだけれど、子ども発言ほどのショックは受けなかった。
 それより今のセリフの方がよっぽど気になる。

(ええと、つまり深澄くんにとっては、静くんは完璧な女の子じゃないと釣り合わないくらい素敵な人……ってことだよね)

 あかりの解釈が間違っていないのなら、深澄は静のことが大好きということになる。

 もちろんこの短い時間の中でも、深澄の静への信頼は感じとれていた。
 しかしこうして実際に対面するより前、静はあまり深澄について話さなかったし、眠った彼の足を持って引きずっていく姿まで見てしまったものだから、深澄とも詠史と似た距離感なのだと思い込んでしまった。

 少なくとも、深澄の方からは違うようだ。
 
 あかりは内心微笑ましく思いながら「ご期待に添えなくてごめんね」と謝った。

「べ、別に悪いとは言ってない。むしろ完璧じゃないってわかって気が楽になったというか……」
「楽?」
「そうじゃなきゃ、僕が静の近くにいるのを許し――」

 瞬間、深澄の顔が赤くなった。

(えっ)

 あかりは目を丸くする。
 その反応に気がついた深澄は、すぐにくるりと椅子を回転させ、背を向けた。

「っああもう、これだから羞恥心がない静タイプは怖いんだ……!」

 こっちの口まで軽くなる、と何やらぶつぶつ文句が聞こえてきた。
 顔色が急変して少々驚いたものの、よく見てみると耳まで赤い。どうやら話す気がなかったところまで口にしてしまい、盛大に照れたらしい。

 あそこまで言いかけてしまえば、その反応も相まって続きはなんとなく察することができるのだけれど。

「…………ねえ」
「うん?」

 知らないふりをするべきか迷っていると、ためらいながらも深澄が話しかけてきた。

「アンタ、きょ、兄弟いる?」
「いるよ。お姉ちゃんが一人」
「そ、その人のことを、その。す、す……っ」
「好きだよ」

 あまりにも言い淀むので、つい先回りして答える。
 それが良くなかったのか、頭だけ振り返った深澄にじろりと一瞥されてしまった。

「じゃ、じゃあ、お姉さんがさ……ああいや」

 うーん、ととうとう深澄は頭まで抱え始めた。

(照れ屋さんだなぁ)

 きっと、彼はこう言いたいのだろう。
 姉に彼氏ができたら、取られたようで寂しくないか、と。
 姉を兄に置き換えてみれば、深澄の気持ちは火を見るよりも明らかだ。

 深澄にとって、「あかり」とは話でしか聞いたことのない架空の人物だった。それに囚われ苦しみ続ける兄の姿は、唯一深澄にはわからない「静」だったに違いない。
 それが再会を果たしてから、静は「あかり」を過剰なほど大切にするようになった。さらには一緒に住めるわけでもないのに、引っ越しまですると言う。そんな言動が、自分から遠ざかろうとしているように見えていたとしても不思議ではない。

 ――兄が出て行くのは、「あかり」にそう頼まれたからだ。

 疑惑は、静の説明が足りていないこともあり、確信に変わった。
 だからこうして、更生したから静と自分を引き離す必要がないと説得するために、また、兄を連れて行かないでほしいというお願いをするために、あかりに会いに来たのだろう。

 ゲームを彷彿させる少々ひねくれた性格に、あかりは小さく笑う。
 もしすでに安心してくれているなら良いのだけれど、そうでないなら深澄のもやもやを払拭したい。
 静の家族を、あかりも大切にしたいから。

「深澄くんは一生、静くんの弟だよ」
「……は?」
「静くんは私を大切にしてくれるけど、私が何を言ったとしても、静くんの気持ちは変わらないからね」

 深澄が訝しそうにあかりを見る。

「さっきから、なんなの?」
「あれ? ごめん、わかりにくかったかな。ええと、だから静くんは、深澄くんが静くんを好きなのと同じくらい深澄くんが好きだから大丈夫って話を――」
「はああ!?」

 大きい声に、思わずびくりとする。
 深澄は椅子ごと勢いよくあかりの方を向き、顔を真っ赤にして身を乗り出した。

「べっ、別に静のこと好きとかじゃないから! ただオッサンのとこ来てからずっと一緒に住んでたし、いなくなったら一人で面倒見なきゃなんないのが、っそう、めんどくさいだけ!」
「あ、それは大変だ」
「そうだよ! だからす、すきとか大切とか、むず痒いこと言うな!」

 剣幕はそれなりに激しいものの、照れ隠しだとわかれば怖さは消える。
 強張った体をほぐすように首を傾げた。

「うーん、でもあの静くんが、引っ越したからって深澄くんに全部押しつけたりするかなぁ」
「……ったしかに頻繁に様子見に来るとは言ってたけど。なんか静のことならなんでも知ってる感出されるとムカつく」
「出してないよ!?」

 とんだ言いがかりである。
 それに、それはこちらのセリフだ。

「深澄くんだって『あの普通じゃない静』とか、知ってる感出してたよ」
「それは、知ってるんだからしょうがないだろ。でも僕はアンタがいなくなってからの静しか、知らないし」
「そんなの私だって、私といる時の静くんしか知らないよ! 深澄くんが知ってる静くんの方がもっとずっと多いのに……っ」

 ――羨ましい。

 その気持ちが伝わってしまったのか、深澄は驚いたようにあかりを見ていた。

「アンタ、もしかして、僕に妬いてるの?」
「っ!」

 図星を指されて、今度はあかりの顔がぶわりと上気した。

 他の誰でもない、あかりだけは抱いてはいけない感情。その存在を知られ、恥ずかしさと罪悪感で何も言えなくなる。
 そこで深澄まで口を開かなくなるものだから、しばらく二人だけの部屋に沈黙が訪れた。

 破ったのは、深澄だ。

「写真」
「え?」
「見せてやらなくもない」

 ポケットから出したスマホをすいすいと操作して、ん、と画面を向けられる。
 写っていたのは、あかりの記憶に強く焼き付いている姿の静と、今よりずっと幼い深澄だった。

(静、くんだ)

 じわり、と涙がにじむ。

「なっ、んでまた泣くわけ!?」

 手放すタイミングを失っていたペットボトルを奪われ、代わりにスマホを押し付けられる。思わず受け取ると、先ほど使ったハンカチがまたあかりの肌に触れた。
 さすがに何度も拭いてもらうわけにはいかず、あかりはお礼を言ってから自分のものを取り出した。

「びっくりさせてごめんね。もう、この時の静くんは見られないと思ってたから」

 笑ってはいないものの、穏やかな目で深澄と並ぶ静は、別れの時よりも少しだけ痩せたように見える。深澄と住み始めたばかりの頃なのだろう、二人の雰囲気はぎこちない。
 あかりは視界を邪魔する水分を吸い取りつつ、じっと見つめた。

(やっぱり格好いい)

 もちろん、今の静は好きだ。
 それと同じように、成長する前の静も好きなのだ。
 だからこそその間の静を知らないことが悲しくて、悔しい。隣にいられなかった分、せめてあかりの知らない静を少しでも減らしたくなる。

 けれど、長年苦しませた張本人が、苦しんだ期間の写真を見せてほしいなどと言うのは無神経だ。
 ずっとあかりを探していたと聞いているし、写真の静が楽しそうでも辛そうでも、自分のいない思い出に対して何と言っていいのかわからない。
 かといって仮の恋人でいられた時のものだけ見せてほしいと言うのも変なので、もう昔の静を見るのも諦めようとしていた。

 涙の理由としてそれらをかいつまんで話せば、深澄にばつが悪そうに謝られた。

「あー……僕、アンタの事情あんまり知らないんだよね。だから、ちょっと誤解してた。ごめん」
「え、ううん……?」
「アンタもいろいろ、考えてたんだね」

 どういう意味だろう。
 完璧だったり考えなしだったり、深澄の中の「あかり」像がどんな人物だったのか、非常に気になる。

「ん? てことは、静がアンタの写真持ってなかったのにも何か意味があったわけ? それなりに会ってたくせに一枚も写真がないなんて、ずっと変だなって思ってたんだよね」

 あかりは頷く。

「ゲームの中に、私はいないから。彼女候補の誰かに見られて勘違いされたら困るし、写真なんて撮れないよ」

 あかりというイレギュラーの存在を示す何物も、静の世界に残していけない。修学旅行のお土産も、静の誕生日も、何も渡さなかったのはそのためだ。
 例外は、御守りただ一つ。

「ふうん。……静馬鹿、か」
「え?」
「いや。他にもあるから、送ってあげる」

 深澄はスマホを回収して、また操作する。
 確認しなよ、と言われてあかりが開けたままだった鞄からスマホを取り出すと、ロック画面にはトークアプリの新しい通知の件数が、次から次へと増えていくところだった。

「わわ、あ、ありがとう。でもいいのかな、こんな勝手に」
「静がアンタにされて嫌なことなんて、浮気と別れ話くらいしかないでしょ」
「そんなことはないんじゃ……って、あれ? 静くんからも来てる」

 深澄からの未読に埋もれて、昼の返事も来ていたらしい。話していて振動に気づかなかった。
 開いてみると、帰りの時間がわかったら教えてほしいという内容のメッセージだった。

「暗くなってきたし、心配なんじゃない? ……ていうかさ。アンタの方はないわけ?」
「え、何が?」
「だからその、静の写真だよ」

 静になんと打てばいいのか考えるのを中断して、あかりは首を傾げる。

「さっき、写真は撮れないって……」
「わかってるけど、それは昔の話でしょ。僕が言ってるのは今の静とのやつだよ。見せてって言えなくても撮れはするじゃん」
「…………」

 それはそうだ。
 そう、なのだけれど。

「ない、です」

 深澄が目を丸くする。

「は!? 一枚も!?」
「うん……」
「付き合ってからもう二週間くらい経つじゃん! ほとんど毎日一緒にいるし、いくらでも撮る機会あったでしょ」
「うう、ごもっともです……」

 あかりだって静の写真はほしい。ものすごく。
 ただ、今さら何と切り出して良いのかわからないのだ。

 理由を聞いた深澄は顔を引きつらせた。

「結婚の約束したり避難のためとはいえ家探したり、そっちのスピードは異常なくせに……なんでそんなとこでつまずくかな」
「返す言葉もありません……」
「……はあ。世話が焼ける。ほら、顔上げなよ」
「え?」

 カシャ。

 ガラガラと椅子ごと移動してきた深澄が、あかりに顔を寄せた瞬間にシャッター音が鳴った。
 まさか今、写真を撮ったのだろうか。

 すでにスマホをいじりながら元の位置に戻っている深澄に、あかりは顔を隠して抗議した。

「なっ、泣いた後の顔撮るなんてひどい!」
「大丈夫だよ、普通にかわ……わかんないから」
「わかるよー! 今絶対変な顔してた……っ」

 目は赤いに決まっているし、頬に涙の跡もついているかもしれない。写真を撮るには最悪のコンディションである。
 というか、人前でこの状態でい続けるのも、女子として大変よろしくない。

 気がついてしまえば落ち着けるはずもなく、あかりはハンカチだけを持って立ち上がった。

「私、ちょっと鏡見てくる。さっきのちゃんと消してね」
「んー」
「絶対だよ!?」

 生返事しかしない深澄に不安を覚えながらも、ドアにかかった鍵を開ける。
 そこでもう一度振り返ると、さっさと行けと言わんばかりに手を振られたので、あかりは仕方なく近くの女子トイレへと向かうことにしたのだった。
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