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夜の章

1.宵闇

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 静は腕の中で消えていくあかりを見つめていた。

 涙が邪魔だ。
 ただでさえ見えづらいのに、ぼやけて彼女を隠そうとする。睫毛の一本からよく染まる頬の色まで、すべてを記憶に焼き付けたいのに。

(あの時と、同じだ)

 六月、時間の停滞中に見た時と同じ。
 まるで最初から彼女がここにいなかったかのように、跡形もなく姿を失っていく。
 あの時はただ、驚いて動けないでいた。
 それなのに今もまた、どうすることもできないまま消えていくあかりに縋ることしかできない。

「あかり、教えて……会いに来てくれた方法を」

 きっともう聞こえていない。
 目を閉じて、静に体を預けているはずなのに、その重みを感じないのだ。
 それをわかっていて、でも最後まであかりを諦めたくなくてその体を抱きしめる。

 今、あかりは自分が言ったように、別の世界というところに帰ろうとしているのだろうか。
 世界が違うとはなんだ。
 異形たちの反転世界とはまた別なのか。
 少なくとも静は、時間の停滞でもないのに人が消えるのを見たことがなかった。

 どうしたらまた会える。
 どうやってあかりは会いに来てくれていた。

(失いたくない。これで終わりだなんて、信じたくない)

 静にとって、斎川あかりという女の子は最初から不思議な人だった。
 両親に疎まれ二度も捨てられた静に、初めて会ったにも関わらず無縁だと思っていた感情を向けてくる人。
 あかりのそのまっすぐな感情は虚ろな静の心の穴をあっという間に満たしていき、やがて溢れさせるまでに至った。

 出会いは四月。
 声をかけられた静よりも驚いている様子の彼女は、静を大好きだと言って泣いてしまうくらい感情が豊かなのが印象的で、静の視界でぱっと花が咲いたように色づいて見えたのを覚えている。

 かわいい。
 誰かに対してそんな風に思うこと自体が初めてだった。

 人に好意的に見てもらえるような環境ではなかったからか、彼女が口にした気持ちはわからない。けれど静を明らかに意識して頬を染める姿を見ると、理解できないながらも自然に優しい気持ちになっていく。
 あの日から、できるだけ息をひそめて生きてきた静にとって不要だったはずの感情が、急速に育っていった。

 代わりなんていない、大切な存在。

(なんで一人で決めたの)

 相談してほしかった。
 もっと早く打ち明けてほしかった。

 もうほとんど見えないあかりは、泣いている。
 静との別れを悲しんでくれているのだ。
 それならば、離れる覚悟より、一緒に生きる術を探す覚悟の方がずっと嬉しかった。

「好きだ、あかり。好きだよ……」

 感覚がなくなる。
 君が、溶けていく。

 そうして、静の世界からあかりはいなくなった。


◇◇◇


 静の様子がおかしい。
 最初に気がついたのは、同じ家で暮らす静の叔父・詠史(えいし)だった。

 金曜日、明日家に人を呼びたいからしばらく出ていてほしいと言われ、ちょうど新たな覚醒型コーラーの男について調べにいくつもりだったので了承した。
 警察でもないのに顔のイラストと下の名前だけで人探しなんて普通は無理だ。まして時間の停滞中に機械は使えない。それをなんとかするのが詠史たち本部の人間の役割の一つだった。

 とはいえそう簡単にはいかない。そもそも顔を見たのも自分ではないのだ。
 今年に入ってからやたらコーラー絡みの事件が増えて、やりたいことが進まない詠史は少々苛ついていた。

「おいおい、何も入ってねーのか」

 調査から帰って、空腹のためにキッチンへ直行し冷蔵庫を開けたが、何も食べられそうなものはなかった。
 ただでさえ低いテンションが下がっていく一方である。

 甥を引き取った時、面倒が嫌いな詠史はこれ幸いと家事を静に丸投げしていた。
 本人から特に不満を聞くこともなかったし、祖父母の家で料理を習ったのかそれなりに食べられる味だったのでいい拾い物だったと思っている。

 しかし今日は珍しく何も作り置きされておらず、部屋のカップラーメンもきらしていた。それなら食べに行った方が早いとわかっていながら、詠史は疲れた腹いせにわざわざ静を呼び出そうとしていた。

「静ー、めしー」

 靴はあったから部屋にはいるはずだ。
 物音がしないので寝ているのだろうか。
 詠史は念のため、中を確認してみることにした。

 電気は、点いていない。

「しずかー……んだよ、いねおわ!?」

 いねーのか、と言いかけた詠史は、走らせた視線が人の姿を捉えて驚く。
 ベッドに横になっているのかと思えば、テーブルのそばのなんでもないところで部屋の主が顔を伏せて座り込んでいた。

「あーびびった。いるなら返事くらいしろよな」

 静の髪は黒く、暗闇にすぐ溶け込んでしまう。
 ここ最近はずいぶん明るくなったが、もともと暗い雰囲気を持っている甥が気配を消せば、見つかりにくいのは当たり前だ。

 ぱちりとドア横のスイッチを押して明かりを灯すと、見慣れないものがあることに気がつく。
 ただそれよりも反応のない静の方が気になって、横にしゃがみ込んだ。

「おい、どうしたよ。明かりも点けねえで」

 ぴくり。
 反応があった。

「あかり……」
「あん? 俺が点けといたぞ、っておま」

 ゆっくりと顔を上げた静の表情を見て、詠史は目を見開いた。

 ーーコーラーになりかけている。

 現在主に異形を送り還すチームとして活動しているのは静たち高校生ではあるが、本部の人間は皆現役のレストアラーだ。当然詠史ももっと若い頃は異形を相手に戦っていた。
 そして当時よく見かけていた、異形を呼び出したコーラーの表情。絶望か憎悪が目に宿る彼らは、時間の停滞で止まってしまうためにずっとその顔のままでいるのだ。
 異形を喚び出してしまうほどの負の思いの強さは、正直ぞっとする。

 今、まさに甥がそれに近い目でどこかを見ていた。

(おいおい、コイツが万が一コーラーになったら、誰も太刀打ちできねえぞ)

 今年の四月から急増した異形騒ぎをずっと対処してた中心人物だ。
 さらに素養の高さはずば抜けている。

 何があったかは知らないが、これは放っておくわけにはいかない。

「あー、静。今日人呼ぶって言ってたよな? お客さんらしき人家にいねえけど、どうした?」
「……」

 とりあえず気をそらす作戦に出たものの、地雷を踏んだらしい。
 空気が重くなった。

「け、ケンカでもしたのか? そりゃ大変だ……はは」

(俺に心のケアなんてもんできるわけねーだろ)

 そんなに他人を気遣える性格だったら、とっくに結婚している。人一人ぱっと引き取れるくらいだ、独身に決まっているだろう。

 いや、自虐している場合ではない。
 何か気を引くものはないだろうかと詠史が周りを見て、とりあえず抱いていた疑問を口にする。

「つーか靴もそのままで上着も鞄も置きっぱなしなのに、その子大丈夫なのかよ」
「え……?」

 何かわからないが、成功したらしい。
 やっと静の目に光が戻る。

「……ほん、とだ」

 ーー涙の跡。
 祖父母の葬式で両親からひどい言葉をぶつけられてもずっと表情を凍らせていた静が、泣いたらしい。詠史は密かに衝撃を受けた。

 静はゆっくり立ち上がると、自分のものではない荷物に触れる。

「追いかけた方がいいんじゃねーの」
「……もう、いないんだ」
「ん? あー、そうだな?」

 だから追いかけた方がと言っているのだが、どうも要領を得ない。

「家はわかんねーのか?」
「……知っては、いる」
「あんだよ、じゃあ行ってみろよ」

 今すぐコーラーになりそうな気配は去ったかと安心して、詠史は自分の腹具合を思い出した。
 うじうじする甥に上着を放り投げ、女性ものの荷物も静の前にまとめる。

「今日は俺が飯買ってきてやる。お前の分もな」

 だから早く帰って来い。
 そう言って詠史は静を追い出した。





「ほんと、人間らしくなったな」

 詠史は静のいなくなった部屋でため息をついた。

 レストアラーとして仲間でわいわいやっている時もだんだん高校生らしくなってきたと思っていたが、今が一番そう思う。
 普段は無表情に大人顔負けの度胸を持ち合わせたおよそ子どもらしくない子どもなのに、今やあんな表情まで浮かべられるようになったのか。

 愛情を向けられなかった男に、どうやら愛を教えた猛者がいるらしい。あいにくケンカしたかフラれたようだが。

(会ってみてえな)

 もし戻ってきても目の色が変わらないならゆっくり休ませよう。その後は気を紛らわせるために忙しくさせてやろう。

 そして話せるようになったら話せばいい。
 その時は聞いてやる。

 多少の協力くらいはできるだろうから。
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